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冷たい手

 夏の匂いのする庭を前に縁側に座ったまま、ぼんやりと眺めていた。

 そこのある庭と言わず、通り抜ける犬や猫に限らず、空を飛ぶ鳥に限らず。

 ただ、世界がすべてそこに止められたような庭だ。


 汗が落ちる。

 耳の後ろを通り抜け、背中を通ろうとして、服に吸い込まれる。

 汗を吸い込んだ服は、私の背中にしがみつく。


「はーさん、はーさんっ」


 パタパタと、小さな足音がかけてくる。

 それを振り向かなくても、誰なのかわかる。


「今度はなに」


 彼女は白地に薄青のラインが川のように入った浴衣を着ている。

 帯はくしゃっとした紐を後ろでリボンみたいに結って、よく解けないものだ。

 日が翳って、目の前に彼女の長い黒髪と、白い小さな顔と、黒飴みたいな目を輝かせている。


「まだ寝ちゃダメだよ。

 お客さまが来たから」

「そう」


 こんなところに来る客などたかが知れている。

 すべて日常として組み込まれていることながら、時々どうしようもなく放棄したくなる。

 このまままどろみに意識を預けてしまいたくなる。


「だーかーらー寝ちゃダメっ」


 冷たい手が、触れてくる。

 彼女の手はいつも冷たい。

 まるで、死んでるみたいに。


「きもちいーね、手」


 ひんやりとした冷たさに水の匂いが混じって、清々しい気分も一緒に運んできてくれる。

 無意識なのだろうが、私には有難い。


「寝るなって言ってるのっ もー起きてよーっ」


 縁側が少し離れたところで啼いた。

 彼はどこか作り物めいた微笑を浮かべて、私に会釈する。


「こんにちは、葉桜さん」


 あーぁ、と彼女が小さく呟いた。


「待っててっていっても、聞いてくれないんだから」

「それはしかたのないことでしょう?」


 彼は真っ直ぐに歩いてきて、ぴたりと立ち止まった。

 不安そうに、私を見る。

 その目に私が映っていないのだとしても、子犬のようで少し可愛らしい。


 何も見えない世界を彼は最初から持っていたわけじゃない。

 視たくないものを見ないようにするうちに、本当に見えなくなってしまったのだと聞く。

 そうまでして、彼が見たくなかったものがなんなのか、私は知らない。

 そういう気持ちもわからない。


「葉桜さん?」


 立って、彼に近づく。

 ギシリと縁側の鳴る方を見て、彼はやっと安堵の笑みを浮かべた。


「わざわざ来なくても良いって、いつもいってるでしょ」

「それだと、なかなか葉桜さんは来てくれないじゃないですか」


 手をとると、彼もまた非常な冷たさを伝えてくる。


「ったく、最初はあんなに外に出るのを嫌がっていたって言うのに、どーゆー心境の変化?」


 家に閉じこもっていられるよりは良い傾向だから、自然と気持ちが明るくなる。


「変化、ですか」


 何か考え込み始めた彼の手を引いて、風通りも良い室内に案内する。

 そこの座椅子に座らせ、私はそのまま立ち上がろうとして、腕を引かれた。


「葉桜さん」

「なによ」

「を、好きになったことぐらいですねぇ」


 にっこりと微笑む男を前に固まってはいけない。

 そのまま強く腕を引かれ、体勢を大きく崩した私は、彼のひざに倒れこむ。


 いったい何のつもりなのかと問い詰めようとして、やめた。

 これは日常茶飯事、よくあることなのだ。


「はぁ」

「いい加減、返事を聞かせてくださらないと」

「だーかーらー、そーゆー変化を言ってるわけじゃないの。

 おねーさんをからかう前に、視る努力はしてる?」


 彼の手が私の髪を優しく撫でる。

 その手のように、優しい人だから、きっと見たくないものも多かったのかも知れないと考えることもある。

 でも、何も見ないで生きられるほど世界は甘くないし、見たくないものを見ない世界にどれほどの美しさが消されてしまうかを考えるとゾッとした。


 見る、ということは確かに怖くなることもあるかもしれない。

 でも、その向こうには確かな真実があるように思うのも事実。

 見えないから感じられる真実でも、見えるからこそ理解(わか)る真実でも、どちらも強かな美しさをも併せ持っている。


 私の質問に対して、彼はいつも微笑んで言う。


「もちろんです。

 はやく葉桜さんの顔が見たいですしね」


 そーゆうことじゃない。


 何度言っても万事この調子では、どんな名医でも彼の視力は戻らない。

 必要なのは、確かに見ようとする意思なのだ。

 それは恐れを知る強さとなる。

 恐れを知らない強さより、恐怖を知っているからこその強さがなによりも強く尊いものだということを、私は知っている。


「ご褒美でもあれば、その目は視えるようになるのかしら?」

「ご褒美?」


 ぴたりと、その手が止まる。


「そう、ご褒美。

 たとえば、私の今日の着物の色が分かったら、キスひとつ。

 なーんてね」


 冗談でいうと、何も映していない瞳が大きく見開かれる。


「僕を、からかっているんですか?」

「そうよ」


 間をおかずに返すと、やっと不満そうな顔になった。


 どうやったって、最後に見えればいいの。

 世界が確かに強く美しいものだと感じて欲しいから、その中で、もう一度言って欲しい言葉があるから。

 他の誰でもないあなたに、愛をささやいて欲しいから。


 世界と私と、ねぇ貴方はどっちを好きになるのかしら。


「はーさんはこいつに甘すぎっ」


 隣で、彼女がその冷たい手で私を引き戻した。

葉桜さんは一応医者です。精神科医?かな。彼女は助手。彼は患者。

(2004/07/26)

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