十年前、七月
無事に期末テストが終わり、夏休みが目前に迫っている。しかし受験生である俺たち三年はあまりはしゃいだ気持ちにはなれず、それほど浮ついた空気が漂っているわけではなかった。
今日は教師に用事を頼まれたせいで、昼休みを十分を無駄にしてしまった。足早に教室に戻ろうとしたところで、ふと廊下の向こうに見慣れた横顔を見つける。つり目がちな大きな瞳が、瞬くのが見えた。片桐さん――と声をかけようとしたところで、俺はぴたりと足を止める。
相変わらずの仏頂面で立っている彼女の隣には、知らない男が居た。同じ学年の奴ならば大体把握しているはずだが、見覚えがないので後輩だろうか。背が高くて、なかなか整った顔立ちをしている。彼は片桐さんに向かって、何事か話しかけているようだった。片桐さんは無表情のまま、「うん、わかった」と答えて何度か頷く。彼女が俺以外の人間と会話しているところを、初めて見た。
別に隠れる必要なんてこれっぽっちもないはずなのに、俺は思わず柱の影に身を隠してしまった。息をそばだてて、つい漏れ聞こえてくる会話に耳を傾けてしまう。……俺は一体、何をやっているんだ。これではまるでストーカーのようではないか。
「わざわざ三年の教室まで来させてごめん」
「別にいいけど、もう忘れんなよ。じゃあな、千花」
男はそう言って、すたすたと歩いて行った。片桐さんは親しげな仕草で手を振って、そいつを見送る。
……聞き間違いでなければ、今あの男は片桐さんのことを「千花」と呼んだ気がする。俺の知らないところで、彼女のことを名前で呼び捨てている男がいる。
そう思った途端に、腹の底から黒いモヤモヤとしたものが湧き上がってきた。
あいつ誰だよ。なんだ、俺以外にも知り合いいるんじゃん。彼女の一番近くにいる男は、俺だと思ってたのに。
胸に残ったモヤモヤは大きくなるばかりで、いつまでも飲み下すことができない。俺は一人残された彼女に声もかけず、逃げるようにその場から立ち去った。
その日はたまたま水曜日だったので、俺は迷いながらも旧音楽室へと向かった。片桐さんはこの暑い中、相変わらず赤いマフラーを編み続けている。編んでは解いてを繰り返しているのか、進捗は芳しいとは言えなさそうだ。これは冬に間に合わないかもしれない。
クーラーのついていない旧音楽室はかなり暑い。窓の外からは、野球部が練習をしている声が聞こえてくる。夏の甲子園の予選大会が始まっているのだろう。かなり気合が入っているようだ。薄いカーテン越しでも太陽の陽射しは容赦なく降り注ぎ、うるさい蝉の声が余計に暑さを増幅させる。
「……片桐さん、暑くねーの?」
片桐さんの額には汗のひとつも浮かんでおらず、頰は紙のように白いままだ。冷房の効いた教室にいるときと変わらず、涼しげな表情をしている。彼女は「暑いよ」と答えたけれど、全然そんな風には見えなかった。俺とは体感温度が違うのかもしれない。
「あー、あちぃ……」
「……そんなに暑いなら、ここに来なければいいのに」
机に突っ伏して泥のように溶けている俺に向かって、片桐さんはクールに言い放った。この暑さの中でも、彼女はいつでも絶対零度である。涼しくなっていいのかもしれないが、今の俺にはちょっと辛かった。つい拗ねたような口調になってしまう。
「……なに? 俺、邪魔?」
「邪魔じゃないって、前に言った」
片桐さんは呆れたように答える。別に俺がいなくたって、片桐さんには名前で呼ばれるくらいに親しい男がいるんだろ。そんなやさぐれた感情が胸によぎって、俺は思わず口走っていた。
「片桐さんは、俺がここに来ないと寂しい?」
……いやいや、面倒臭い彼女かよ。
自己嫌悪に陥っている俺を、片桐さんは大きな瞳でじっと見つめている。やっぱり今のなし、別に答えなくていいよ、と言う前に、彼女は躊躇いなくきっぱり言い切った。
「寂しいよ」
片桐さんはクールで無愛想なくせに、ときどき妙に素直なところが卑怯だ。悔しいことに俺の方が照れてしまった。机の上で握りしめたてのひらが、じわじわと汗ばんでいく。
「あーくそ、マジで暑い……」
赤くなった頰を隠すように、窓の外に視線を向ける。不思議なことに、いつのまにか胸のモヤモヤは消えてなくなっていた。俺って、こんなに単純だったっけ。スッキリついでに、俺は意を決して彼女に問いかけた。
「……片桐さんさあ。今日の昼休み、知らない男と喋ってなかった? 背の高いイケメン」
俺の質問に、片桐さんは「ああ」と頷く。編み針を動かしながら、こともなげに答えた。
「あれ、弟」
「弟!? え、弟に千花って呼ばれてんの!?」
「生意気なの。私のこと、姉だと思ってないみたい」
「片桐さん、なんとなく一人っ子のイメージだった。友達いるんじゃん、って思ったよ」
「私、佐伯くん以外に友達いないよ」
あっさりと告げられた言葉に、俺はどうしようもなく嬉しくなってしまう。あーそうか、弟か。言われてみれば、目元がちょっとだけ片桐さんに似ていたような気もする。そりゃあそうだよな。片桐さんに、俺以上に仲良い男友達なんているはずないか。
そんなことを考えていると、不思議そうに「なんでそんなにニヤニヤしてるの」と指摘されてしまった。緩み切っていた頰を慌てて引き締めて、小さく咳払いをする。
「……いや? 来週から夏休みだなーと思って」
「ああ、うん。そうだね」
「片桐さん、夏休みは何するの?」
「ずっと家にいる」
……じゃあ、俺とどっか遊びに行かない?
そんな言葉が喉の奥でひっかかって、そのまましゅわしゅわと消えていく。結局俺は、頬杖をついたまま「ふーん」と相槌を打つことしかできなかった。
「次に佐伯くんに会うのは、一ヶ月以上先だね」
「そ、そうだな……」
さらっと「もう夏休みには会いませんよ」宣言をされて、俺は頰を引きつらせた。まあそれはそうなんだけど、もうちょっと寂しがってくれてもいいんじゃないの。さっき「寂しい」って言ってくれたのは、もしかして俺の幻聴だったのか?
赤い毛糸を編んでいる片桐さんの横顔を見つめながら、まあいいか、と俺は思う。片桐さんにとっての唯一の友達が俺であることは揺るがないし、今はそれで充分満足している。それ以上のことを、望むべくもないのだ。
……まあ、夏休み中に片桐さんに彼氏ができる、なんてこともあり得ないだろうし。
そんな失礼なことを考えているなんてつゆ知らず、片桐さんはニヤニヤしている俺を見て「なんだか今日機嫌良いね」と首を傾げる。どうか夏休みの間に、俺以外の物好きが彼女の前に現れませんように。