第四章 二十八話 永く遺すために
そしてゾクリュは夜になった。
急拵えの点火夫たちが頑張ってくれたおかげで、街は闇の底に落ちずにすんだ。
ガス灯の光は街を照らし、前を、そして手元を見るに不自由しない明るさを提供してくれていた。
そんなガス灯の恩恵を、最大限に受けている一角がゾクリュにあった。
昼間であれば、主に市民が待ち合わせに使う、ちょっとした広場がそれである。
不足なく埋設された街灯に、百人規模の集会もこなせる広さ。
そして石畳によって均された地面。
広場はこんな特徴を有しているからだろう。
ただいまそこは、守備隊が一時的に接収して、とある拠点の一つとして使われていた。
果たしてどんな機能を持った拠点だろうか。
その答えは――
「よし。こいつで最後だ。軽傷だ。ただ感染症になる可能性があるから、協力してくれたクリニックへと運んでくれ」
「はっ」
今の衛生兵と若く元気な兵のやりとり。
そうだ、広場はただいま野戦病院と化していた。
俺はアーサーに散々足蹴にされていたレミィを診てもらうべく、彼女を引き連れてここまできたのだ。
幸いレミィの傷はとても浅いものだった。
縫合の必要はなく、軟膏と湿布で対処可能なほどに軽いもの。
ここの処置だけで十分で、病院への搬送は必要としなかった。
レミィが軽傷であるということは守備隊にとっても、都合のいい事態であった。
なにせ、彼女は種族主義団体に潜入していた国憲局員であるのだ。
団体にこれ以上好き勝手にされないためにも、守備隊は是が非でも情報が欲しい。
そんな思惑があったために、処置が終わったレミィは、情報を大佐に伝えるために守備隊の隊舎に赴くことになったのだ。
彼女にとって今夜は、なかなか忙しい夜となりそうであった。
対して俺はと言うと、今は手持ち無沙汰。
だからこうして、冷たい地べたにあぐらをかいて。
処置すべき怪我人が居なくなり、いくぶんと静かになった、広場を眺めているのであった。
……相当にセンチメンタルな気分でもって。
「よう。ここに居たか、ウィリアム」
半ば呆けた様子の俺に、声がかかる。
それはとても慣れ親しんだ声であった。
「……クロードか。聞いたよ、大活躍だったそうじゃないか。殉職者ゼロでの勝利。流石だよ」
「なに、たまたまだよ。そう言うお前も大車輪の活躍だったそうじゃないか。たった一人で十数体の猿人級を撃滅するなんて真似、俺にゃあ絶対に出来んぞ」
「……そんなんじゃないよ。活躍は、してない」
「あん?」
殉職者を出さずに戦闘を終わらせたクロードは、まさに鼻高々といった様子であった。
けれども、俺の返答にどこか気になる点があったのか。
片眉を上げて、実に訝しげに、じろりじろり。俺を眺め見る。
普段であれば、彼にいらない心配を抱かせないためにも、センチメンタルに駆られていること。
それを悟らせぬ努力をするのだけれども、今夜はなんだかそうする気が起きなかった。
だからだろう。
彼は俺のおセンチなにおいを、たしかに感じ取って、静かに一言を紡ぐ。
「なにか、あったのか」
「はやく気がつくべきだったよ。フェーズスリーに移行してるってことはだ」
ネガティブな感情を隠そうとしなかったのはなぜか。
それは俺にもよくわからなかった。
けれども、どうしてセンチメンタルに駆られているか。
それをクロードに説明すれば、わかるような気がして。
「……守備隊ではすでに犠牲者が出ているってことにさ。ここに来るまで、俺は気がつけなかった」
だから、人型に膨らんだブランケットが十数が地べたに並ぶ広場。
そいつを顎でしゃくりながら、そう言った。
ブランケットの下には、もう、怪我の処置をする必要がなくなった人たちが眠っている。
つまりは俺のセンチメンタルはそういうことだった。
救えなかった人たちが居る。
その事実がたまらなく辛い。
「もし、俺が一報を受けて、強化魔法を使って急行していたら。もっと早くに現着していたかもしれなかった。でも、俺はオートモービルに乗ってしまった。時間がかかる方を選んでしまった。その選択が大きな間違いだった。そう思えてならないんだ」
そしてそのタイムロスが、もしかしたならば、彼らの死因であったのかもしれないのだ。
つまりは俺は、あのときの甘い判断によって、何名かの命を無駄に散らせてしまった可能性がある。
しかも、あまつさえである。
現地についたそのときの俺は、どんな気分であったろうか。
間に合った、と心底安心しなかったか。
それどころか舞い上がって、戦闘勘のなまりを取り戻すため、と、大技を繰り出す真似までしていなかったか。
守備隊員が。
人が死んでしまったというのに。
その態度はあまりにも軽率で。
深い自己嫌悪に陥る。
あまりにも醜すぎた。
そのときを思い出して、さらに気分が沈む。
「……ウィリアム」
それはクロードにも伝わったらしい。
どんな声色で語りかけたらいいか。
それを探る逡巡があったのちに、彼は俺の名を呼んだ。
「なんだ?」
「気に病む心配はねえと思うぞ。こう言っちゃあ、なんだがな。きっとお前が強化魔法ですっ飛んで行っても、殉職者数に大した差はなかったはずだ」
「そんなはずはない。きっと――」
「いいや。そんなはずだね。お前んところに遣いを出した直後に、フェーズスリーに移行だ。どうやったって間に合わん。結果は変わんねえよ」
そんなはずはない、と反論したかった。
けれども、言葉が見つからない。
勢いに任せて口を開くも、結局吐くべき言葉がなくて、何度もはくり、はくり。
口をぱくぱくとするだけに終わる。
呼吸を噛み潰すだけに終わる。
目の前で眠る彼らは、みな、街中で発見された。
邪神を街の外へ誘導する際に出た犠牲者たちだ。
俺が戦場にたどり着いたとき、もう守備隊は街の外で戦っていた。
つまりは、眠る彼らはその時点にはもう。
ならば、俺はどうやっても――
「どだい無理な話なんだよ。犠牲者なしで邪神の群れと戦うのは。言っちゃあ悪いが、この程度の犠牲で済んでラッキーって思ってもいいくらいだぞ」
「他人の命を。数の問題で考えろ、と? コストパフォーマンスで考えろって言うのかっ」
「少なくとも軍人の命は、な。お前だってそいつはわかっていただろう?」
人の命を数で処理するな。
本能がそう言いたくて、声を荒げるけれど、クロードのぴしゃりとした言葉によって、トーンダウン。
軍人の命は安い。
軍人の命は消費するものだ。
なぜなら、命を消費するものと割り切っていなければ、いざというとき、命を捨てて戦うことができないからだ。
この時代を生きる軍人として、当たり前の心構え。
正論。
それを言われてしまえば、俺はもう反論することなんてできなかった。
「……わかってはいたんだ。たしかに、一年前なら割り切れていた。でも、今では……割り切ることすら難しくなってしまった。きっとここ最近の生活で、なまけてしまったから。心に贅肉がついてしまったから」
「いや。他人事だから言わせて貰うがな。その変化は好ましいもんだぜ?」
「……なんだって?」
「考えても見ろよ。粗末に扱ってもいい命がある、って思う方がイカれてるし、非日常的だぜ? たとえ軍人の命でも、数の問題にすることに忌避感を覚えるってことはだ。それはお前が日常的な価値観に戻れている証なんだからよ」
だから気にするなよ、と言わんばかりのクロードの口調。
だが、待って欲しい。
このタイミングで、日常に戻れていることを自覚するなんて。
それをいいことと見なすのは、あまりにも人でなしでは――
「今、こんな事件のせいで人が死んだのに、自分が日常に戻っていることを自覚していいのか、って思っただろう」
「……わかりやすいか? 俺」
「ああ、わかりやすいね」
俺の心中を見透かすような、クロードの一言。
さっきのセンチメンタルと違って、こっちは隠そうと努力したのだが……
どうやら元隊長殿は俺の思うことなんて、ある程度はお見通しのようだった。
「いいんだよ。日常に戻って。お前の悪いところはな。とかく自罰的なところだ。お前一人が日常に、そして幸福に生きたところで、誰も文句は言わねえさ。むしろ、喜ぶ人間がいることを知るべきだぜ」
だからといって、あっさりとその言葉を受け取っていいものか。
それに迷っていると、クロードの方からなんだか呆れた音色のため息。
やれやれ。
世話のやける元部下だ。
言いたいことはきっと、こんなものだろう。
彼がある程度、俺の心中を見通せるように、俺もまた、彼の胸の内を推し量ることができるのだ。
「だが、もし。それでもなお、この結果に罪悪感を覚えるのであれば――」
くいっと親指で差す。
彼の背中越しにあるものを指し示す。
野戦病院と化した広場と道路のその境目。
怪我が軽かったり、傷を負わなかった守備隊員たちが、そこにたむろしていた。
集まっている彼らには見覚えがあった。
街の外で猿人級と戦い、拘束砲撃による殉職を覚悟していた隊員たちであった。
仲間の死をああして悼んでいるのだろうか。
いや、それにしては彼らの雰囲気がどこか穏やかだ。
湿っぽいのはたしかだが、しかし、悲しみよりもむしろ、懐かしさが目立つような。
そんな空気の中に彼らは居るように見えた。
「彼らとコーヒーを一杯くみ交わしておけ。そして話に混ざりに行ってこい。死んじまった奴らの思い出話をな」
「彼らは話してくれるかな。俺なんかに」
「話してくれるさ。なにせこいつは、故人の延命処置なんだからな。一日でも長く故人を生き延びさせられるのならば、拒む理由なんてどこにもねえだろ」
「延命処置?」
「そうさ」
クロードはゆったりと頷いた。
「故人のことをいつまでも胸に留めておけば、だ。そうすれば、思い出すごとに、俺たちは心の中に、故人を呼び戻すことができる。故人の存在は、俺たちの心にて生き続ける。で、あれば、それは間違いなく故人の延命処置だ。忘却こそが本当の死だからな」
「忘却こそが、本当の死」
「そうだ。誰にも存在を思い出されねえようになっちまったら、それこそ端っから居ないようなもんだろう? そいつは死よりも恐ろしい。なにせ存在そのものが、なかったことになっちまうんだからな」
「つまり。俺が。いや俺たちが、今日死んでしまった人たちを覚えておけば。故人を救うことができる?」
「そうさ。故人が無の世界に入らせることを防げるはずさ。彼らの存在を、より長く生き延びさせることができる。延命処置って表現。なかなか正鵠を得ていると思わねえか?」
「結構いいセンスで腹が立つよ。いつもは粗暴な言葉遣いのくせしてさ」
「へーへー。北部生まれはどーせカッペで、育ちは悪うござんすよ」
俺に軽口を言う余裕が生まれたこと。
それを認めて、クロードも真面目に語りかける真似をやめることにしたようだ。
いつものバカ話をするような、口調に戻して。
「ったく。ガラでもねえこと言わせやがって。貸し、一つだぜ。無国籍亭が再開したら、ビールを一ガロンは奢ってもらうからな」
彼は、少しは立ち直ったよな? ほらしっかりしろ、と言わんばかりに、俺の肩を軽く叩いた。
それに対して俺は返事を返さない。
かわりにあぐらをくずして。
冷たい石畳から腰を上げて。
今日死んでしまった者たちが、しかとここに存在したという証。
それを一年、一月、一日、一秒でも永く遺すために。
隊員達の方たちへと、歩みを進めた。
故人たちとの思い出話を聞くために。
クロードに教えられた通りに動くこと。
それがさきのジェスチャーに対する答えであった。