第四章 二十六話 ガンスリンガー・エルフ
意表をついた石飛ばし。
それは自分でも思った以上にうまく決めることができた。
蹴飛ばした石はアーサーの手にも当たらず、ただリボルバーを突き飛ばしただけに終わった。
レミィへの発砲も行われてもいない。
誰も大きな怪我をしたわけでもなく、ことは俺の思い通りに運んだこととなる。
すなわち俺の完全勝利、と換言してもいいだろう。
だが、しかし。
そうだというのに、アーサーは。
今も俺が地面に押しつけている、この貴族の男は。
相も変わらず、にたりにたり。
人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ続けていた。
それは本来勝者が浮かべるべき表情だ。
今の彼の状況にはあまりにもミスマッチすぎる。
「不快。なにが可笑しい」
まだ、体が痛むのであろう。
ふらり、といったオノマトペがしっくりくる動きで起き上がった、レミィがアーサーに問う。
今のアーサーを見て、とにかく苛立ちを隠せない。
声から察するに、彼女の心中はそんなものであろう。
「どうやら君たちは、私の切り札に気がついていないようなのでね。失礼は重々承知だが、ついつい笑ってしまったのだよ」
「切り札だって? そんなもの、切る余裕すら与えない。あんたにこの拘束。ほどくことができるのか?」
「スウィンバーン君。私は強化魔法の才には恵まれていなくてね。君を振りほどくことは不可能だよ」
「……この自信。口から出まかせ、ではなさそうだ。動かなくとも、切り札を使うことはできる、と言いたいのか?」
「ああ。その通りさ」
ニタニタを一層強めながら、アーサーはそう言った。
「考えてもみたまえ。さきほど私は、大局的に見れば、劣勢である、と言った。つまり換言すれば、余裕がないということだ。しかし、だと言うのにその時の私は、これっぽっちも焦りを見せていなかったろう?」
「ならば、どうだと?」
「一秒でもおしい。そんな態度が、全身からにじみ出てもおかしくはなかった状況ではなかったか。にも関わらず私は、君に質問すら許可した。時間がおしいはずであるのに」
「だからっ。それがどうしたっていうんだっ」
勿体ぶってなかなか本題に入らない。
クロードもよくやる貴族の悪癖に、レミィだけではなく俺も苛立ちを覚える。
意図せず言葉に力がこもる。
それは威圧的な雰囲気をまとう言葉であったけれど。
しかし、のれんに腕押しとはまさにこのこと。
組み敷くアーサーはまったくもって威圧された気配をみせなかった。
未だにいやらしい笑みを浮かべてすらいた。
「つまりだね。あの時点で私は、タイムロスを恐れてはいなかったのだよ。むしろのその逆。時間を稼ぎたかったのさ。今、このときにおいても。なぜならば――」
アーサーが一度そこで口を閉ざす。
そして、再び彼が口を開くよりも前に、地下空間にけたたましい音が反響した。
風にも似ていて、しかし、風にしてはいくらかの湿り気を感じる、そんな音。
この音は、まさか。
「すでに切り札は切っておいたのだよ。私がここにやってくるその前に、ね」
音の正体に気付いたのと、アーサーが笑声混じりの粘っこい一言を紡いだのは、ほとんど同時であった。
蒸気が抜ける音。
これが音の正体。
それはすなわち、蒸気機関が動く音。
やられた。
つまりアーサーは待っていたのだ。
さきの交渉もきっと時間稼ぎであったのだ。
作動に足る蒸気がたまるまでの。
「やれやれ。小さなボイラーは存在を悟られにくいのはいいが……しかし、圧が出るようになるまで時間がかかりすぎるな。まったく、間に合わないのではないかと、ずっとヒヤヒヤしていたよ」
「なにを……なにを動かしたっ!」
「私が言わずとも、すぐに答えは出てくるさ。私たちの頭上を見れば、ね」
「頭上?」
「ウィリアム! あれを!」
焦りの色濃いレミィの声。
それに促されて、彼女を見ると、戦友のエルフは細長い指を天井へと向けていた。
視線を再び動かす。
レミィの指先が示すものとは――
「天井が――」
まず目に飛び込んだのは雲だ。
蒸気が生んだ雲。
しかしその寿命は短く、あっという間に消え去って。
次いで見えたのは、ぱらぱらと落ちてくる、細やかな小石。
真っ暗闇であった天井から、わずかに光が差し込むようになってきた。
しかも差し込む光は、時を負う毎に、みるみるそのその勢力を増してゆく。
一筋が紙の厚さほどの光であったのに。
あれよあれよのうちに、百科事典ほどに、本棚ほどに、そして最後には。
「――天井が、開いた……」
隠されていた鈍色の空が露わとなった。
風も入る。
地下故に澱んだ空気も、たちまち吹き飛ばされ、外と変わらぬ澄んだものとなる。
それだけであれば、アーサーがもたらした変化は好ましいものであろう。
しかし現実はさにあらず。
彼の望み通り、そしてこちらが望まぬ、たちの悪い事態へと移っていた。
「――――!!」
背筋を凍らせるに足る、おぞましいほどの絶叫が曇天の空に響く。
鉄格子に囚われていた、翼竜級のものだ。
奴らもまた、気付いたのだ。
天井が開け放たれたことに。
それが意味すること、すなわち逃げ道が現れたことに。
邪神も気がついてしまった。
「畜生。翼竜級どもがっ」
心底まずいと思っていることを、想像させるレミィの声。
その声をよそに、鉄格子の向こう側の我らが天敵は、自慢の翼を大きく広げて。
ばさり。
ばさり。
力強く羽ばたいて、飛翔を開始。
にわかに現れた出口を目指しはじめた。
それは血の気が失せる光景だ。
この状況下で翼竜級が街に降り立つというのは、絶対に避けなければならない、最悪の事態であったからだ。
「守備隊は歩兵が主だ。魔法兵は少ない。そんな状況で翼竜級を解き放てば……さぞ愉快な光景が産み出さられると思わないか?」
ざまあみろ、と言わんばかりのアーサーの声。
悔しいが奴の言う通りだ。
翼竜級と歩兵との相性は極めて悪い。
人類最大の死角である、頭上をあっさりと取られてしまうからだ。
歩兵単独でも倒せないことはないが、多大な犠牲を必要とする。
スマートな倒し方は歩兵で足止めして、その間に魔法兵が空から引きずり下ろしてトドメを刺す、といったもの。
だが、アーサーの言う通り、守備隊ではその戦い方をすることができない。
それでなくとも、今の守備隊は邪神騒動で疲労困憊の体なのだ。
片手で数えること能わぬの翼竜級を倒しきるのに、一体どれだけの隊員の命を消費するというのか。
まったくもって見当はつかないが、十や二十ではきっと済まないだろう。
その事態を防ぐためにも。
翼竜級たちが街へと飛び立つその前に、この場で始末しなければ。
「さて、どうする? スウィンバーン君。翼竜級を片付けなければなるまい。今の状況ならまだ、君であればやれるだろう。私の拘束を解いて、強化魔法を用いて奴らに飛び乗れば、あっという間に終わるのではないのかね?」
言い終わるや否や、またアーサーは喉の奥をくつくつと鳴らす。
もっとも、その間に私は逃げさせてもらうが。
今の笑いに意味があるとするならば、こんな感じだろう。
「性悪。本当にっ。極めてっ。比類なきほどっ。性悪っ」
その態度に、俺以上にとさかに来ていたのはレミィであったようだ。
彼女はぎりりと歯を噛みしめながら、俺の下で動きを封じられているアーサーを睨んだ。
悔しいが、彼の言う通りだ。
地下から飛び立たれると、俺はすべての翼竜級に干渉することが難しくなってしまう。
街のためには、今すぐこの男の拘束を解いて、空飛ぶヘビを片付けなければならない。
それがこの問題の解決策の一つであるのは、紛うことのない事実であった。
だが、しかし。
「……あんた。一つ勘違いしてるよ」
「なに?」
「この状況を解決する最適解。それは俺が動くことじゃないってことさ」
「……どういうことかね?」
正解は。
模範解答は、他に存在した。
「レミィ」
「何っ?」
「俺のウェストコートの内側にね。銃とバレットポーチを忍ばせている。訳あって手に入れた、試作品の後装リボルバーと、その専用弾丸だ」
焦り、慌ての色が目立っていたレミィの目の色。
その色がにわかに変わった。
落ち着きを欠いた雰囲気は綺麗に取り払われて。
レミィは目を瞑って、一度深呼吸。
そして再び目を開けたとき。
「レミィ。頼む」
「了解。問題ない」
「撃ち漏らさないように。一匹でも逃がしたら、それだけで街は大混乱だ」
「愚問。言われなくとも」
彼女の目には剣呑で、けれども頼もしげな鋭い光を湛えていた。
それは狩人の目であった。
獲物は絶対に外さない。
彼女の今の目は、そんな自信に満ちていた。
この状況を解決する最適解とは。
俺が知る限り、最高のガンスリンガーである、この戦友にすべてを任せることであった。
彼女は俺の胸元に手を突っ込み、手早く銃とポーチを取り出して。
「全部。墜とす」
ぽそり短く、呟いたその声には。
やはり強烈な自信の音に満ち満ちていた。