第四章 十二話 無心への渇望
黄昏の陽が赤光を放つであるならば、払暁のそれは白光か。
柔らかさの欠いた陽光に眉をしかめつつも、前を見る。
切り出した石を、丁寧に積んだ石段。
大きくせり出したポーチの下にある、上部にガラスがはめ込まれた、黒塗りのドア。
朝日に照らされる、シンプルで品のいい門構えは、数時間前、ここよりずっとずっと高所から眺めていたものだ。
テーラー・紳士の髭。
夜更け、種族主義者らがこそこそ密会を開いていた、かの商店であり。
そして俺とソフィーが動静を見守っていた物件であった。
「いやあ……それにしても。ふわっ……失礼。逃げ足の速い人たちですねえ」
「ええ、まったく」
大きなあくびをかましたのは、未だ眠気まなこのフィリップス大佐である。
叩き起こしてしまったことに、いささかの罪悪感を抱きつつも、俺は彼のぼやきに首肯した。
目の前の階段から銃撃を受けて、とんずらをかましたあの後、俺たちはすぐさま隊舎に事の次第を、報告しに戻った。
監視中、銃撃を受けた――
眠気と戦い、どこかぼんやりとしていた当直の男は、その報告を受けるや否や、一気に覚醒。
彼は仮眠を取る兵を叩き起こして回り。
そして平行して大佐の下へ使いを送って、あっという間に即応の体勢を作り上げたのだった。
もちろん、彼のその行動はソフィーの指示によるものだ。
その手際やるや、もはや一端の将校のもので、フレッシュさを感じるものではなかった。
緊張でガチガチになっていた、乙種襲撃時とは見違えるほどに。
さて、かくして考え得る限り、最速の手際でで逆撃を開始したゾクリュ守備隊。
しかし、結果はご覧の通り。
再び俺とソフィーがこの場所に戻ってきたころには、奴らはすでにお暇した後。
つまりはもぬけの殻であったあったのだ。
先の大佐の、逃げ足の速い、との言はそういうこと。
しかもその上、姿を消したのは、なにも種族主義者だけの話ではなかった。
「失礼します。大佐、よろしいでしょうか」
「ん。ディスペンサー軍曹。どう?」
野太い男の声、きたる。
声の主は乙種騒動の際、そして無国籍亭襲撃事件のときに再会した、あの軍曹であった。
「駄目ですね。今、店舗の中を隅から隅までひっくり返したんですが、やはり、奴らに関連する書類はとんと出てきません」
「うーん。やっぱり持ち逃げかあ。残念」
がっくりと、大佐は肩を落とした。
そう。
現場から姿を消したもう一つの存在。
それが彼らが持っているであろう、種族主義団体同士の繋がりを示す資料だ。
ハドリー・ロングフェローの件もそうであったが、動向自体は簡単に漏れるくらいに杜撰なのに、いざ捕まえようとなると、途端に対応力が激増させて逃げ切ってしまう。
間抜けなのか、やり手なのか。
いまいちその判断に困る特徴を、ゾクリュの種族主義団体は有しているらしい。
「いかがいたしましょうか。引きましょうか?」
「うーん。そうしたいけど。でも、折角ここまで来たんだし、もうちょっと調べてみようか。もうさ、天井とか床とか。引っぺがしちゃってもいいからさ」
「はっ。では、そのように。しかし、そこまでしたとして、見つかりますかね?」
「どうだろうねえ。でも、ここにないことを確かめるのにも、やんなきゃいけないと思うんだよ。面倒だけれどもね」
「仰るとおりですな。ま、爽やかな朝には、ぴったりの運動でしょう。美味い朝飯を食うために、一汗かくとしますよ」
「まったくもって健康的な朝を送らせてしまって、申し訳ないね」
「申し訳ないと思ってるなら、誠意を示して貰いたいですな。よりより朝飯のために、食堂のコックを共和国人に変えていただければ、それだけで万々歳です」
「うん、それは無理。雇ったら雇ったで、王都に引っこ抜かれる。陸軍省の食堂は常在戦場な代物だから」
「それは残念」
鼻笑いを置いて、軍曹は再び店舗の中へ。
軽口の応酬は、二人がそれなりの経験を重ねたことを意味する証。
市民が見たら、任務中にジョークを言うなんて、なんと不真面目な、と目くじらをたてるかもしれない。
だが、従軍した者が見たのならば、抱く感想は異なるはず。
ああ、なんて頼もしい、といったものになる。
軽口を叩けるということは、十分に余裕を持っているということ。
それはつまり、冷静な判断が下せる余地、それが十分にあることを意味しているのだ。
兵が命を預けるのにあたって、これほど心強い要素はない。
店舗の中は、良好な作業環境が広がっているに違いない。
だから、俺の足はふらっと階段を上ろうとする。
彼ら守備隊の手伝いをしたくなる。
乗りかかった船だから、ということも当然ある。
だが、それ以上に、今は仕事で無心になって、身体を動かしたい気持ちなのだ。
じっとしていれば、深く考え込んでしまいそうだから。
なにについて思案してしまいそうになるのか。
それは他でもない。
つい数時間前、俺とソフィーに鉛玉をぶっ放した、あの外套についてだ。
思うところが、多々あった。
「ああ、ちょっと」
階段の一段目を上がったところで、大佐が慌てた様子で先回り。
二段目、三段目と登って、そこでくるり。
彼は踵を返した。
身体の正中を俺に向けて、つまりは通せんぼする形で立ち止まる。
どうやら、彼は俺を店内に上がらせたくないらしい。
「ウィリアムさん。ご協力ありがとうございました。ここからは僕たちがやりますので、どうかウィリアムさんは屋敷にお戻りを」
「いえ。どうせ乗りかかった船です。最後までお付き合いしますよ」
「その気持ちは有り難いんですけれどね。でも」
俺の目を見ていた、大佐の視線。
それがふと、右にずれて。
背中に横たわる、細い路地を見て。
一言。
「どうやらいいタイミングで、お迎えが来たみたいですし」
直後、背中から物音。
がたり、がたり。
硬くて重いなにかが転がるような、そんな感じ。
大佐の視線につられて、振り返る。
音の正体は、蒸気をもうもうと吐く、オートモービルであった。
真っ白に塗装された、馬車みたいに客車を引いた立派なやつ。
直前の大佐の言から察するに、あれに乗って帰れ、ということだろう。
しかし、はて。
それはそれで不思議であった。
なにせ件のオートモービルは純白という目立つ色。
とてもではないが、軍の持ち物には見えず、誰かの私有物に見える。
だからどうやって、あのオートモービルをここまで手配したのか。
その見当がまったくもってつかなかった。
まさか民間からの、徴発でらあるまい。
いや、徴発なら徴発で断る口実が出来るので、それはそれでいいが。
しかし、わずかに抱いた俺の希望。
それは無残にも打ち砕かれた。
あの目立つオートモービルを、ここまで動かしてきた人間。
彼の者の正体を知ったことによって。
「ウィリアム」
聞き覚えのある声がする。
その主はやっぱりというか、なんというか。
きっちりと見覚えのある者であった。
栄えあるレッドコートを着込んだ、金のくせ毛の美丈夫。
我らが独立精鋭遊撃分隊が元・隊長、クロード・プリムローズが主である。
「やあ、プリムローズ大尉。ナイスタイミングだ。じゃあ、ウィリアムさんを屋敷まで送って欲しい」
「はっ、大佐」
なるほど。
あの馬鹿に目立つ車はどうやら、クロードの私物であるらしい。
だから、大佐はここまであいつを回すことができたってわけだ。
そして、再度なるほど。
こうしてわざわざクロードの私物を投入してまで、俺を帰らせようとしているってことはだ。
中の調査には関わって欲しくはない、ということか。
まあ、それも当然だろう。
なにせ、俺の身の上は政治的に危ういものなのだから。
本来こうして調査に協力すること自体、異常なのだから。
なにかと世話になっている、大佐の身を守るためにもだ。
ここで俺が取るべきは。
「……では、お言葉に甘えさせていただきましょう。大佐、お先に失礼します」
「はいはい。こちらこそすいませんでしたね。徹夜させちゃって」
それは退くことに他ならない。
身体に染みこんだ敬礼の動きを大佐に捧げて、クロードのオートモービルへ。
徹夜した影響だろうか。
敷石のちかちかとした朝日の反射が、嫌に眩しかった。
「わお。こりゃすごい」
間近で見ると、このオートモービル、随分と贅を尽くしていることがわかった。
真っ白の塗装はぴかぴかに研磨され、まるで鏡のよう。
幌は布加工が得意な北部の代物だろう。縫い目が美術品のように美しい。
そしてなによりも驚いたのは、牽引されてる車のベンチシートだ。
艶やかな黒革にふっくらとした座面。
明らかにスプリング入りとわかる、上質な逸品であった。
これ一台で、片田舎のカントリーハウス並みの値はするはずだ。
自慢のベンチシートに腰掛けると、一拍後にクロードも運転席へ。
前輪に繋がったレバーを握って。
ごとりがたり。
機関音を響かせながら、ゆっくりと車は動き出した。
「おっと、そうだ。屋敷に向かう前にヘッセニアを拾っておきたい。今、奴も街に居るんだ。道案内するから、ちょっと寄り道して欲しい。目貫通りを右。あとはしばらく道なりだ」
「はいよ」
ヘッセニアはソフィー宅にて子守りをしている。
帰る場所も一緒だし、ソフィーも流石に帰宅している(大佐が帰らせたのだ)時間だろうし、拾ってやった方がいいだろう。
俺の頼みに答えて、彼はレバーを右に傾ける。
車は静かに右に回頭。
まだ馬車も人も居ない、凪のような目貫通りをオートモービルは往く。
さて、道案内をするとは言ったが、本当にしばらくずっと真っ直ぐを進むだけ。
話すことがなくなってしまい、沈黙が訪れる。
耳が捉えるのは、車の走行音と風切りの音だけ。
言葉がなくなってしまうと、たちまち思考は良くない傾向へ。
あの外套の正体を考察してしまうことになる。
ため息と共にシートに深く座り直す。
そのことを考えちゃいけない、と自分に言い聞かせるも。
言うことも、やることもないから、自然と考えは望まぬ方向へ進んでしまう。
あのパーカッションリボルバーのカスタム。
あの距離で柵を当ててきた腕前。
まさかとは思うが、あれは――
「なにかあったのか?」
「え?」
「暗い顔をしている」
「しているのか」
「ああ。正確には暗い顔を、必死に隠そうとしているって感じだな」
こっちを一切見ないで、クロードはそう言う。
きっと車に乗る前から、明るくない顔色を見せてしまっていたのだろう。
自分では隠していたつもりだけど、どうにも誤魔化し方が下手であったらしい。
クロードには、こうしてしっかりバレてしまっていた。
直接は言ってこなかったけど、彼の言わんとしていることはこうだろう。
一人で抱え込まなくてもいい。
誰かに話した方が楽になるから、と。
果たして、それに甘えていいのだろうか。
それとも、心の奥底にしまっておくべきだろうか。
二つの思いが頭の中でがっぷり四つに組んで。
押し合って。
押し合って。
押し合って。
長い長い揉み合いのあと。
勝敗決す。
もう一度、小さくため息をついて。
下した結論を口にする。
「クロード」
「なんだ?」
「朝食はまだ?」
「ああ」
「今日、時間があったら、で、いいんだけどさ。ちょっと相談したいことがあるんだ。朝食を食べながら、さ」
「時間はあるわけじゃねえが、問題ない。元・隊長として、いくらでも時間を作ってやるよ。久しぶりに、アリスの飯も食いたいしな」
「ごめん。ありがとう」
「なに、気にするな」
帰ってきたのは気のない口調。
やる気なさげに、ひらひらと右手を振るおまけ付きだ。
常であるならば、真面目に聞いているのか、と問い詰めたくなる仕草。
けれど、今の俺には、その態度がありがたかった。
努めて作ってくれたその素振りが、嬉しかった。
彼のそんな不器用な気遣いのおかげで、ちょっとは気が軽くなったから。
真珠のように真っ白なオートモービルは、ゾクリュを往く。
寝ぼけた街の空気を切り裂きながら。