第四章 十話 観察会のお誘い
空は王国らしい、どんより雲に覆われていた。
見上げるだけで息が詰まるような鈍色。
長く眺めていると、それだけで気分が落ち込んでくる。
そんな天気であった。
だがしかし、今この時に限っては、スッキリとしない王国名物に大感謝。
分厚い雲が陽を隠してくれたおかげで、初夏の暑さを感じられずに済んだから。
肉体労働に勤しむ俺には、まったくもって恵みの空模様。
今、俺はゾクリュの街に居た。
より厳密に言うのであれば、飲み屋が立ち並ぶ夜店通りに居た。
真っ昼間であることもあって、開いている店は皆無に近い。
夜の下世話な空気とは一転、通りは閑散としていた。
そんな森閑空気を叩き破る、音が断続的に、そして律動的に響く。
音の正体はハンマーが釘を打つ音だ。
大工仕事に勤しむ音とも言う。
そんな音たちが湧き出すのは、夜店通りの一角に佇む、パブリックハウス無国籍亭。
俺はそんな音の源泉の、すぐそばに居た。
穴だらけになってしまった、掛け看板。
そいつを固定するために脚立に登って、とんてんかん、とんてんかん。
静かな通りの空気を、文字通り打っ叩いて、打ち払う手伝いをしていた。
「おう、ウィリアム。すまないな。手伝わせちまって」
騒々しいハンマーの音に負けないくらいの、力強い男の声が聞こえる。
一度手を止めて、目を声の方へ。
いささか艶を欠いた黒髪に、よく鍛えられた分厚い胸板。
この無国籍亭の共同店主の一人である、ギルトベルトが声の主であった。
「いや、構わないよ。正直、最近暇でね。やるべきことがなさすぎて、辟易してたところなんだ」
「そいつあ、なんとも羨ましいことで。いや、失礼。今のお前は、羨む境遇じゃなかったな」
「いいや、気にしてない。と、言うか、俺も俺で人が不幸からの復興を、暇潰しに使ってしまっているから、人のことは言えないさ」
「そう言ってくれると助かるぜ。お互い様ってことにしておくか」
「ああ。持ちず持たれつ、ってやつさ」
そうして笑い合う。
女性のそれに比べれば、ずっと無骨で品のない笑声を飛ばしあった。
ひとしきり笑い終えると、きっと大工仕事をするためだろう。
ギルトベルトは足早に店内へと消えていった。
無国籍亭にて、大工音曲が奏でられているその原因。
言うまでもなくらそれは、先日の襲撃事件にあった。
幸いにも人的被害は皆無であったとはいえだ。
下手人たちが、遠慮なく銃をぶっ放したお陰で、店は蜂の巣ばりの穴だらけ。
そのままの営業が困難な状況に追い込まれてしまった。
だから無国籍亭はただいま、不本意の改装閉店中。
俺がこうしてハンマーを握っているのは、その休業期間が、一秒でも早くなれば、と思ってのことだ。
そして、同じ志を抱いたのは俺だけではない。
脚立から降りて、入り口から店内を覗いてみれば、雇われた大工ではない影がちらほら見える。
例えば弾痕痛々しい壁板を、えっちらおっちら裏に運び足すのは、隻眼のエルフであるフェナー。
襲撃事件のときに、ギルトベルトと共に戦い、そして先日ヘッセニアと共に、公園で酒狂と化したヘビィドランカーだ。
バーカウンターのそばでしゃがみ込むのは、女ドワーフのセナイだ。
どうやら、ドワーフご自慢の冶金知識でもって、大工道具のメンテナンスをしているらしい。
彼女もまた、歌劇座の暴走の際、この場所で防衛線を築いていた。
そのカウンターで、新たに納入されたグラスのチェックを行うのも、また同志である。
魔族の少女、フェリシア。
しかし、大工仕事のせいで、なにかと埃っぽい室内。
そこでグラスを引っ張り出すのは、如何なものだろうか。
グラスが埃まみれなる、と、その内誰かに怒られそうだ。
ほどなくして案、そんなところでグラスのチェックをするな、と雷を落とされる。
雷雲はバックヤードから出てきたレナだ。
かなりきついことを言われたのか。
フェリシアは目に見えてしょんぼり。
とぼとぼとグラスの入った木箱を抱えて、バックヤードへと引っ込んでいった。
「ふふふ」
怒られたフェリシアには悪いが、目の前の光景は自然と口角が上がるものであった。
弾痕痛ましい店内は、確かに物騒極まりない光景である。
だが、そこで大工仕事に勤しむ人々の表情には、暗さは一切感じられない。
せわしなくも、どこか楽しげであった。
命は助かったのだから、よしとしよう。
さっさと店を直して、また忙しくて騒がしい日常に戻ってしまおう。
そんな前向きな空気が見て取れる光景だ。
全員が一つの方を、つまりは明るい未来へ目指して歩んでいる光景、と換言してもいい。
それは間違いなく、俺がこうあって欲しいと願った戦後の姿であって。
こうして頬が緩むのは、致し方のないことであった。
しかし、理想の世界の一端。
こいつを眺めていたせいで、俺は気がつくことができなかった。
背後より迫ってくる一つの人影に。
「おおう。賑やかで楽しそうですねえ」
「わっ」
気がついたのは、声を掛けられてから。
ぽんと肩を叩かれてから。
本当に意表を突かれてしまったが故に総毛立つ。
後悔と緊張が心を支配する。
不覚を取られた。
これが戦場であったらやられていた。
なんてことだ。
平和ボケに過ぎたか。
僅かに強化を施し、くるりと振り返ってみれば。
たった今抱いた緊張が、まったくもって杞憂であったことを知る。
「フ、フィリップス大佐ですか」
背中から声を掛けてきたのは、フィリップス大佐であった。
いつも通り気だるげで、威厳の光に欠くその両目は、今は大きく見開いている。
強化魔法を用いてまで振り返ったことに、驚いているようだ。
つまりは俺が驚いたことに、大佐が驚いたってこと。
「おっと。びっくりさせちゃいました? いやあ、ごめんなさいね」
「いえ。こちらこそオーバーなリアクションで驚かせてしまったようで」
そして、互いに互いを驚かせてしまったことを詫びる、奇妙な光景がここに爆誕した。
頭もお互いに下げ合っている。
その様は皇国人同士が、道端でばったり出会ったときのよう。
そんなオリエンタルな仕草を、王国人同士がやるとなると、やっぱりシュールだ。
あまりのシュールさに、俺も大佐も、しばし言葉が出なくなるほど。
とはいえ、ずっとこの場で黙りこくっているわけにもいくまい。
「ん。んん」
妙な空気を追い払うためにも、一度咳払い。
謝罪合戦と化した話題を変えるためにも、俺は大佐に問いかける。
「あー。大佐はどうしてここに? 無国籍亭になにか御用ですか?」
なにゆえ大佐がここにやって来たのかを。
「もし、そうであるならば、ギルトベルトを呼びましょうか? さっき店に入ったばかりなので、すぐ捕まると思います」
「ああ、いや。お店の人には用はないんですよ。今、こうしてここに来たのはね。ウィリアムさん。貴方にちょーとだけ、お願いがありまして」
「俺に、ですか?」
「ええそうです。ま、単刀直入にいいますとね、手伝って欲しいことがあるんですよ」
が、どうにも用があるのは無国籍亭ではなく俺にらしい。
はて、何だろうか。
少なくとも、怒られるようなことはした覚えはない。
それにここ最近はヘッセニアも大人しい。
だから奴の尻拭いをさせられる謂われもないはず。
思いつく限りでは、大佐がこうして改まって、用を告げに来る理由が見当たらなかった。
「ああ、すみません。やって欲しことってのはね。観察なんですよ観察。真夜中のね」
まったく見当がつかぬ。
予想がつかぬ。
そう、首を傾げていると、大佐は言葉足らずだったことを詫びてきた。
「観察? 真夜中?」
「ええ、そう観察です。ただ恐縮なのはですね、その対象がちと厄介なもんでしてね。綺麗な草木でもなくて、可愛い動物でもなくて――」
言葉を句切って、息継ぎして。
二回、三回。
居心地悪げに頭を掻いて。
「種族主義団体。綺麗でもなくて、可愛くもない奴ら。そんな社会の夜行性な連中を、一晩見てもらいたいのです」
ちょっとした社会貢献を、いや治安維持を手伝って貰いたい。
大佐は一息にそう告げた。