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第四章 一話 いつか痛みも消えるはず

 サルビアの花がぽつりぽつり咲き始めた、そんな初夏の昼下がり。

 彩り鮮やかとなってきた庭を、東屋から眺めながら、俺はティーカップに口を付けた。


 桃の甘酸っぱい香り。

 東洋産茶葉特有の、ほのかに感じる甘さ。

 以前ギルトベルトとムウニスにも振る舞った、あのフレーバーティーだ。


 温度、色合い、浸出具合、蒸らし時間、いずれもパーフェクト。

 最高の一杯と言って差し支えない出来であった。


 だから、俺は小さく、そして深く息を吐く。

 落胆ではなく、充足のため息をつく。

 そして感謝する。

 この素晴らしい一杯を注いでくれた彼女に。


「うん。美味しい」


「ありがとうございます」


 パーフェクトなお茶を作ってくれた彼女、アリスはにっこりと微笑んでそう言った。


 次いで彼女は、傍らに侍らしたワゴンの上でなにやらかちゃかちゃ。

 先ほどまでクロッシュに隠されていた、ケーキを切り分けているのだ。


 彼女は慣れた手つきで、真っ白な磁器の皿にケーキをのせて。

 皿と同じく純白のテーブルに、そっと置いてくれた。


「どうぞ。ご賞味下さい」


 ケーキはチェリーケーキであった。

 真っ白なクリームの上に、ふんだんにチェリーが乗ったやつ。

 ご多分に漏れず、アリス謹製だろう。


 でも不思議なことに、今日のケーキはいささか不格好であるように見えた。


 特にクリームがそうだ。

 なんというか、塗られ方がぴたっと均されておらず、いささかでこぼこしていた。


「そのケーキはですね。アンジェリカさんが作ったものですよ」


「ん? そうなの?」


 アリスにしては珍しい仕事だな、とケーキを眺めている様子から、俺がなにを思っているか。

 それを読み取ったらしい。


 アリスは俺に告げる。

 抱いた疑問の答えを。

 そのケーキの作り主はアリスではなく、アンジェリカであると。


「ええ。最近アンジェリカさん、お料理を覚えたいとよく訴えてきまして。少しずつですけど、教えている最中なのです」


「……ふーん」


「ちなみに、ケーキを作るのは初めてだったそうです。にも関わらずこの出来です。私も驚いてしまいました。ここまで手先が器用だとは予想だにしていなかったもので」


「……へー」


 じっと、件のケーキに目を落とす。

 確かにクリームはならされておらず、ケーキの表面はがたがたしている。

 アリスのように売り物として成立するレベルとは、とてもではないが言えない。


 だが、しかし、ホームメイドのケーキとしてなら話は別だ。


 すでに身内のパーティーに出しても恥ずかしくないレベルに仕上がっている。

 目に見える範囲でのこのケーキの欠点は、クリーム以外に見当たらなかった。


 チェリーの飾り付け方は実に整然としてるし、デコレーションクリームの絞り方は実に見事。

 スポンジに均等にクリームを塗ることさえできたら、普通に売り物になりそうであった。


 それだけになんだか悔しかった。

 彼女はまだ十一才なのにこんな見事なケーキを作れてしまうことに。

 大人げないのは重々承知なれど、嫉妬してしまった。


 時折、俺もアリスの料理の手ほどきを受けているだけに悔しさは程々に強い。

 俺の料理の腕が一向に上達しないこともあって、ことさらだ。


 だから、極めて性格の悪いことこの上ないけど。

 実際食べてみて、このケーキの粗を探すためにぱくりと一口。

 良く味わって食してみる。


 さて、お味は如何に。


「むう」


 ……結果としては余計悔しさを引き立たせるだけに終わった。

 俺の大人げなさをより、強調させるだけに終わった。


 まあ、つまり、だ。

 単純に言えばこのケーキは。


「……美味しい」


「ええ。そうでしょう? アンジェリカさん、かなりセンスあるんですよ。場数さえ踏めば、一流の料理人になれるでしょう。それくらいに飲み込みが早いのですよ」


「……へえ、そう」


 敗北を認めざるを得なかった。

 それも完全敗北だ。


 前に作ってくれた、サンドウィッチであるならば、まだ俺にも勝機があった。

 適当な肉を見繕ってパンに挟めば、それなりの戦力が整うからだ。


 だが、こうまで見事なケーキを作られてしまっては、である。


 料理の腕では俺がアンジェリカに敵う可能性。

 これはまったくもってなくなってしまった。

 そう、断言しなければならない。


 ここはアンジェリカの料理の上達を、素直に喜ぶべきだけど。

 十一歳の子供に料理の腕で完敗してしまった事実が、とても悔しくて。

 嫉妬を覚える俺自身が、とても恥ずかしく思えて。


 そんな暗い気持ちを誤魔化すように、また一口、アンジェリカのケーキを頬張った。


「……うん。美味しい。悔しいくらいに美味しい」


 半ば憮然とした表情で、美味い、美味い、とぼそぼそ言いながらケーキを啄んでいる野郎。

 今の俺の姿を客観視すればこのようなものになる。


 それは間違いなくシュール極まる姿であって。

 現に俺の姿を眺めていたアリスは、ふわりと静かに笑い声を漏らした。


「笑うなら笑ってよ。自分でも十分に情けなさを実感してるからさ」


「でもお気になさる必要はないと思いますよ? 人間誰にだって、得手不得手があるものですから。苦手なものがあって然るべきなのですから」


「……それってさ。暗に俺にはまったく料理の才能がないから、諦めろって言ってない? もう、どうしようもないレベルだって言ってない?」


「……あっ」


 俺に指摘されて、自分が言ったことの意味に気がついたのか。


 しまった。

 迂闊にもやってしまった。


 アリスは口を押さえる仕草をみせて、それを表現して。

 そしてぷいとそっぽを向いて、俺から目を逸らした。


 ……この無自覚系腹黒メイドめ。

 彼女に厳しくものを言った記憶はないけど、これはちょっと折檻が必要かな?


 頑なに目を逸らし続けるアリスをじっと見る。

 わりかし険しい目付きで眺める。


 俺のそんな視線に気がついたか。

 あらぬ方向を向いていた彼女の碧眼は、おずおずといった具合でこっちに戻ってきて。


 そして交錯。

 俺の視線と交わる。


 一拍。

 二拍。

 三拍。


 無言の間がにわかに生まれて。

 その間じっとアリスと見つめ合って。

 でも、その沈黙がなんだか可笑しくって。


 どちらからとでもなく。

 ははは、うふふ。

 お互いに破顔した。

 ひとしきり笑い合った。


「良かったです。最近、ウィリアムさんの調子が元に戻ってきたみたいで」


「ん。心配かけたね」


 心底ほっとした声色のアリスの一言。


 確かに、先日の無国籍亭襲撃事件に関わってから、なにかと気分が沈みがちだった。

 今みたいに笑ったことも、あまりなかったような気がする。


 あの事件で受けた痛み。

 それを完全に克服出来たかと言えば、そうではない。


 優柔不断なことを言ってしまい、ファリエール女史に悲壮な決意を抱かせてしまったこと。

 これに対する罪悪感は未だ持ったままだ。

 彼女を止められたかもという後悔は抱いたままだ。

 この傷は、一生残るものだと思う。

 痛みがとても軽くなるのには、多分時間がかかると思う。


 でも。


 今の穏やかな生活を少し続けたのならば、いつかきっと痛みは消えるはず。

 アリスと一緒に日々を過ごせば日に日に和らいでいくはず。


 いずれは消える痛み。

 それを引き摺ってしまうのは、良くないことだと思った。

 俺の精神衛生上はもとより。

 こうして俺に気にかけてくれるアリスのためにも。


 今はこうして目の前にある平穏な日常。

 それを楽しむ振りだけでもいいからしなくては。


 さっき見せてくれた彼女の笑顔のためにも。


 今、俺が出来ることの一つはきっとそれだと信じ込むことにした。

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