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第一章 六話 未帰還の手先

 戦時中のとある夕暮れ時のことだ。


 アリスは後悔した。

 とても深く後悔した。 

 どうして。

 なんでこうなってしまったのか。

 内心で深く嘆息した。


 後悔の原因は、彼女の目の前に鎮座するスープ皿にあった。

 中身は熱々のスープである。

 湯気が立ち上るスープ。

 遠目から見れば、食欲を刺激する光景と言えるだろう。


 ただし、それは本当に遠目から見た場合の話だ。

 スープ皿を上から覗き込んで見れば、沸き起こった食欲はすぐさま減退してしまうことだろう。

 それだけおぞましいナニかが、そこには、なみなみとよそわれていたのである。


「あの。ウィリアムさん」


 あまりの衝撃的な光景に、アリスは思わず料理人に問う。

 きちんと目を見て問う。


「なに?」


「……これ、食べられるんですよね?」


 本当に食べ物であるか否かを。


「もちろん」


「……あはは」


 しかし恐ろしいことに、その料理人、ウィリアム・スウィンバーンは頷くのだ。

 これはれっきとした食べ物であると。

 さらに具合の悪いことにその出来に自信を抱いているようだった。


 アリスの口から乾いた笑いが漏れる。

 そして、視線をもう一度スープ皿へ。

 混沌はそこにあった。


 スープ皿に注がれたもの。それは到底食物には見えなかった。

 雨の後のたくさんの青葉が沈んだドブ。

 例えるならそんな汚らしい液体を、ウィリアムはスープと言い張るらしい。


 どうしてそんな汚物一歩手前のナニかが、アリスに饗されることとなったのか。

 その発端はアリスの好奇心からの一言にあった。


 分隊の食糧事情は、現在アリスが掌握している。

 炊事兵が着いていないため、隊員がそのまま飯を作らねばならぬ状況に彼らはあった。

 良い待遇とは言えないものの、それでも料理上手なアリスのおかげで、食事に関して隊員から不満の声が漏れることはない。

 

 ただ、アリス着任以前は悲惨だったらしい。

 料理の心得がない隊員たちが輪番で、適当に調味料を突っ込んだ、可食のナニかを作っては突く日々が続いていたという。

 そこかしこから連合軍最高級の飼料が饗される部隊であると、皮肉交じりの同情が寄せられていたほどであった。


 かつての分隊の食事はどれほどひどいものであったのか。

 それが気になって、どんなものだったのか、と聞いてしまったのが彼女の運の尽きであった。


 その言葉にウィリアムがやる気を出してしまったのだ。

 思い立ってからの彼の行動は本当に迅速で、あれよあれよの内にこのスープが出来上がってしまったのである。


「ちなみにこれ。何のスープなんです?」


「キノコとその辺の野草」


「そ、その辺の野草、ですか」


「そう野草。ああ、安心して。きちんと食べられるやつしか入れてないから。ほら」


 具材を聞いて、ますます雨後のドブの風情が強くなってしまったそれを、ウィリアムは躊躇いなく口にする。


「問題なく食べれるだろう?」


 ウィリアムが食べてしまった以上、アリスも口にしない訳にはいかない。 


 覚悟を決めなければならぬ時が、来たようだ。

 アリスは一つ深い呼吸。


 とうとう意を決して、スプーンを皿に沈める。

 汚褐色の液体が、波打ち、スプーンの腹に溜まって、掬い上げて。

 躊躇いがちに口に運ぶ。


 その際、アリスはこのナニかに一つだけ救いを見出した。

 においは悪くはない。

 もっとも、それだけでマイナスは打ち消すことは出来ないくらい、ちっぽけな点であったが。


「どう?」


 ウィリアムに味を問われる。


 さて、問題の味である。

 結論から言えば、極端に悪いものではなかった。

 可食の範疇にきちんと味は調ってはいた。


「……キノコ由来なんですかね。不思議な香りと、意外と深みを感じる味ですね」


「だろう?」


 特に味のベースになっているであろう、キノコの風味にアリスは驚かせられた。

 鶏や牛、豚とは違う、すっきりとしながらも深いコクは、もはや一流の素材と言っても過言ではない。

 今度ウィリアムにそのキノコの同定のコツを教えて貰おうと、アリスに思わせるほどには優秀な食材であった。


 とはいえ、だ。


「でも」


「どうした?」


 アリスはスプーンを置く。

 渋い顔と共に。

 二口目は、ない。


 その様子にウィリアムは訝しげに、アリスの顔を眺める。

 そして彼女が渋っ面を作ってることに気づいて、ようやく悟る。


「ま、まさか」


 ウィリアムの声が心なしか震える。

 やはり、このスープに結構な自信を持っていたらしい。


 だが、アリスにとっても誠に心苦しい事実なのだが、このスープは。


「……不味いのか?」


「その、えっと、うーん。有り体に言えば……そうなるかと」


「……そうか」


 そう、いくらキノコが思いのほか優秀な食材であったとはいえだ。

 このスープが美味いか不味いかで問われれば、やはり不味いと言わざるを得なかった。


 問題はいくつかあるが、何よりも問題なのは、キノコ以外の具材にあった。


 例えば野草。

 

 火を通しすぎて、原形を留めないほどにクタクタになってしまい、食感は勿論、野草そのものの味が消滅してしまっていた。

 おかげで、ぶよぶよにふやけた緑色の紙切れを口にしている気分になる。


 しかし、味がないということは、逆に言えば、スープの味をよく吸ってくれるということ。

 ならスープさえしっかりしていれば、及第点の料理にはなりそうである。


 だが、悲しいかな。

 肝心要のスープの味もよろしくない。

 きっと塩で味付けされているのだろうけど、ほんの少しにしか入れていないらしく、僅かに塩味を感じるのみ。


 キノコの風味は確かに素晴らしいけど、それ一つで主役を張るには実力が不足しているのだ。

 おかげで薄味と言い張るにもしてもなお不足している、風味のあるお湯に成り下がってしまっている。


「で、でも。悪いところばっかりじゃないですよ。ちゃんと料理を教えて貰えば、もっと美味しく作れると思いますよ。ウィリアムさんなら、きっと」


 ただ、救いを見出すなら、極端に薄味ということは、後でいくらでも誤魔化しが利くという点であろうか。

 それに灰汁もきちんと取ってあるし、変な味付けもしていないから、ウィリアムが致命的に料理のセンスがない、というわけではあるまい。


 矯正はきっと可能だ、とアリスは思った。

 ただ、それなりに時間はかかるだろうが。


「ええっと、でも……ごめんなさい。私が教えて差し上げたいですけど……流石に現状、そんな余裕がなくて。でも、安心して下さい。これまで通り、私が毎日お料理しますから」


 そして長い時間をかけてウィリアムに料理を教えるほど、戦況に余裕があるわけではない。

 その上料理の味が如実に士気に影響することを鑑みれば。


 遠回しに、戦場に居る間は二度と料理をするな、と、戦力外通告をするほかになかった。


「いい出来だと、思ってたんだけどな」


 がっくし、と音が聞こえてきそうなほどに、ウィリアムは露骨に肩を落とす。

 自ら作った料理もどきを、ぱくりともう一口。

 そしてうつむき加減に納得いかぬ、と僅かに首を傾けた。


 相当自信を持っていたのか。

 ウィリアムの落ち込みようは、見ていて気の毒になるほどだった。


 ◇◇◇


 二人で住むにはやはり過分なサイズの厨房に、アリスと共に俺は居た。

 俺らの視線は一カ所に注がれていた。

 視線の先は調理台の上のスープ皿。

 色とりどりの野菜が浮かんだ、綺麗な琥珀色のスープが皿の内で静かに揺蕩う。 


 これは俺が作ったものだ。

 特にやることもないし、戦中に遠回しにアリスに酷評されたことを思い出して、また作ってみたのだ。


 もちろん、あの時と違って具材はきちんとした野菜だ。

 だから、見た目はとても美味しそうである。

 匂いだっていい。

 これは味に期待できると、わくわくしながらスプーンで掬って。

 まずはスープだけを口に入れた。


「む……うむむむ?」


 しかしどうしたことだろう。

 いくらスープを舌の上で留めても。

 いくら口の中でころころ転がしても。


「味が……しない」


 一向に味がやってくる気配はなかった。


 その言葉を受けて、アリスも俺の動きに追従。

 スープを口へ。

 わずかに考えるような動きを見せて。


「ちょっと塩の量が少なかったようですね」


 すぐさま的確な分析をはじき出した。


「戦場帰りは、どうしても塩をどばどば入れてしまう、って聞いたから、気にしたんだけど……ビビリすぎたか」


「薄い分には問題ないですよ。あとでいくらでも調節出来ますし。それに元々ウィリアムさんは、味を薄くする癖があるみたいなので、そんな注意は必要ないかと」


 戦場ではどうしても高強度の運動を強いられ、多量の汗をかくためか、兵士は案外塩辛いものが好きであったりする。

 だから戦場から帰ってくると、下界の料理がどうしても物足りなく感じて、塩をばかばか入れてしまうと聞いたことがあったのだが……

 どうにも俺の場合は要らぬ心配であったようだ。


「あと……なんだろう。きちんと火の通った具材もあれば、生でかたいやつが混ざってて……青臭いわ、やたら食い辛いわで……」


 見てくれはこんなにマシなのだ。

 きっとこのスープの何処かしらに美味しい部分があるはずだ。

 そう勇んで具材に手を出す。


 が、がりりと生かたい歯ごたえが、容赦なくそんな楽観的な考えを打ち壊した。

 妙に青臭いにおいも鼻に抜けてくる。


「カットしたお野菜の大きさがまちまちでしたからね。それで、火の通りが不均一になってしまったんです。あとは、具材を入れる順番でしょうか」


「入れる順番?」


「ええ。火の通りにくいものほど早く入れて、通りやすいほど後に入れるんです。根菜は先に、葉物は後に、といった具合に」


「戦場で作ったときは、大きさまちまちでも、全部一緒に鍋にぶっ込んでも、火がちゃんと通ってたんだけど」


「あれは火を通しすぎです。みんなクタクタになってしまってて、具材の味もスカスカでしたし」


 俺に料理を教えてくれた人は、兎に角食べ物には火を通せとしか教えてくれなかった。


 塩と鍋と水と火さえあればどんなものでも料理になる、と、したり顔で説くような人であった。

 サバイバルに慣れていなかった俺はそれを真に受けた。

 だから、俺は料理にはしつこい位に火を通すのが信条になったのだ。


 だが、よくよく考えてみれば、店とか家庭とかの料理にクタクタの野菜なんて滅多に出てこない。

 そのことを踏まえてみると、あの人の料理観は間違っていたのだと、今更ながら悟る。


「難しいなあ。料理」


「最初は誰だってこんなものです。みんな経験して上手になっていくんですから」


「初めてじゃないんだけどなあ。料理。アリスも食べたことあるじゃん」


「え? ……あ。ま、まあ、それはそうなんですけど」


 この反応。

 さてはあの時の特製ディナーを、料理として認めてなかったな?

 ただの毒抜きした食材と思ってたな?

 元々全部無毒な食材だったというのに。


 いや、確かにアリスの料理とは、比べることすらおこがましい出来だったけどさ。

 その反応はちょっとだけ傷付く。


「一応アリスが来る前は、分隊では一番の料理上手で通ってたんだけどな」


「……その、凄かったんですね。昔の分隊って」


 アリスの言う通りだ。

 本当に彼女が来る前は凄まじかった。

 何せ、曲がりなりとも調理をしたことがあったのが、俺だけという有様だったのだから。


 直火で焼いて、半ば炭と化した野菜だけが皿の上に乗っかっていたという、衝撃的な夕食の日もあった。

 そんなこともままあったものだから、一応は食べ物の体裁を整えられる俺の当番日は、とてもありがたがられたものであった。


 本当に悲惨な食生活だったと思う。

 今では考えられないことだが、評判が極めて悪い堅パンの支給に、泣きながら大喜びしたこともあったのだから。

 塩を振って焼くだけできちんと料理になる肉を手に入れるために、戦闘で死んだ馬を、なんとかして手に入れようとしたこともあった。


 改めて考えてみると、どれもこれも、戦中という異常時だからこそ発生していた事柄ばかりである。

 平時なら見事に全部ありえないことばかりだ。


 それらと同じように、戦時ならまだしも平和が訪れた今、なんとか食べることの出来る代物だけ作れる者を、料理が出来る人とは呼ばないだろう。


「ちょっと、悲しくなるな。あの時から全然変わってない」


 今日のコレだって、可食のナニカと言うべき代物だろう。

 つまり、あの時作ったスープと本質的には、なにも変わらない。

 変わったのは俺の味覚だ。

 アリスの料理を食べ続けたおかげで、舌がようやく真っ当になれて、自分の料理の酷さに気付くことが出来た。


 だから、少しだけ寂しくなる。

 アリスにやんわりと料理禁止を食らってから、今日に到るまで料理らしい料理をやってこなかったにしてもだ。


 戦時のそれと、大して変わらないものをまた作ってしまったということは。

 俺の中の料理に対する考え方が、未だ戦時のままであるということの証明でしかあるまい。


 今の俺は、こんな穏やかな日常を過ごしているというのに。

 戦場のにおいが色濃い料理しか作れない。

 ありふれた料理が作れない。


 味覚は戻ってきたというのに。

 俺の手先は未だに戦場から帰って来れていない。


 つまり、俺はまだ日常を取り戻せていないのだ。

 その事実をまざまざ見せつけられたようで、気分が沈んだ。


「ロクに料理も出来ないとは。情けない」


「大丈夫ですよ。これから作れるようになりますから」


 声色にも憂鬱さがにじみ出てしまった。

 アリスが励ましの声をかけてくれる。

 彼女は俺が、まともな料理が作れるようになると言ってくれている。


 けれど本当だろうか?

 終戦から一年経ったというのに、まだこんなものを作ってしまうというのに。


「この惨状でも本当に?」


「ええ。時間をかければ、絶対に」


 自信たっぷりに彼女は言う。


「今は時間はたっぷりあるんです。あの時と違って。だから、のんびりと、気長に上手になっていきましょう」


 時間は確かにある。

 それはわかっている。

 にも関わらず、こうも気持ちが下がっているその原因は。


 それはひとえに自信がないからだ。

 俺は人生のほとんど半分を戦場で過ごしている。

 日常的で、平穏な生活を送った記憶が希薄なのだ。


 だから時々不安に思うのだ。

 俺は、きちんと平和な日々にふさわしい生活が出来ているのか、と。


「私がずっと隣で教えますから、ね?」


 そんな俺の胸中を慮ってか。

 アリスは静かに一歩、詰め寄って。

 すぐ隣に寄り添う。

 そして、彼女は優しく微笑んだ。


 その笑顔の効果は覿面であった。

 多分、彼女と一緒なら日常を取り戻せることが出来るはず。

 そう思うことができた。

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