第三章 二十八話 貴方にとっての優しい世界
柔らかな日差しが庭を照す。
さわやかな風は膨らみはじめた庭のつぼみを揺らす。
穏やかな昼下がりだ。
野点としゃれ込むにはこれ以上にない天気。
そんなわけで俺は東屋にてティータイム。
つぼみをお茶請けに、こうしてティーカップを傾けているわけだけど。
どうしたわけだろうか。
お茶を楽しむのに、絶好のコンディションだというのに。
香りも味も、どこかぼやけていて、きちんと味わうことができなかった。
「……香り。結構強いお茶っ葉のはずなんだけどな」
ぽつり独りごちる。
イチゴのフレーバーと、ロゼワインのような口当たり。
今日のお茶はとても強い個性を持つはずなのに。
かすかにイチゴの甘い香りを覚えるだけで。
白湯もかくやというほどの、薄味しか感じられなかった。
だから、粉砂糖をスプーン一杯、二杯と追加で入れたけど。
それでもわずかに甘みを感じるのみ。
どうして、ここまで嗅覚と味覚が鈍ってしまったのか。
その原因はきちんと自覚していた。
心労が原因だ。
先日の無国籍亭襲撃事件。
その顛末のせいで、最近の俺はまったくブルーとなってしまった。
彼らがどうしてあんな暴挙に及んでしまったか。
それを知って、どうしようもないほどのやるせなさを覚えてしまった。
ふうとため息をつく。
開花一歩手前の庭の花を見ても。
涼やかな噴水の音を聞いても。
そんな平穏そのものを見聞きしても。
少しも心のもやもやは晴れなかった。
我ながら重症であると思った。
「ウィリアムさん……大丈夫ですか?」
東屋に俺を心配する声が響く。
背中の方から響く。
声の持ち主はアリスだ。
はじめはそっとしておいてくれたアリスだけど。
立ち直る気配のない俺に、不安を募らせる一方だったのだろう。
だから、俺がなにに心を痛めているのか。
それが知りたくて、つい聞いてしまったという感じだ。
けれども、そのタイミングはとても絶妙で。
俺もそろそろ、誰かに胸の内を明らかにしたい。
そう思っていたところだった。
だからもう一度深くため息をついて。
俺は彼女と向き合った。
「先日の事件。それをどうしても思い出してしまってね」
「はい。頬に傷がついてしまったあの事件ですね。お傷の具合。今はどうでしょうか? 痛みますか?」
「ううん。こっちの傷は大丈夫だよ。もう塞がったし、全然問題ない。ただ……ちょっとね、あの事件。思うところがあって」
「思うところ……ですか?」
「うん。今の世界がさ。本当にいい方向へ向かっているのか。その自信がなくなってしまったんだ」
一度言葉をそこで区切る。
ティーカップに手を伸ばす。
口を湿らせる。
そして再び口を開く。
「戦争のおかげで皮肉にも種族間の緊張が解けて。そして戦争が終わって。世界は一つになると思っていたんだ。統合主義は人類に平和をもたらすもの。種族間の対立を煽る種族主義なんてなくなってしまえばいい。俺はずっとそう思ってた。でも……」
ファリエール女史の言葉が今でも耳の奥にこびりついている。
他の国と一緒くたになるのは嫌だ。
無国籍な時代を生きるのは嫌だ。
悲壮な顔で、悲痛な声で言い放ったあの言葉が耳から離れない。
「でも、その考えは傲慢なんだってことを知った。考えてみるまでもなかった。国を亡くしてしまって、どうにかして蘇らせたいと願っている人たち。そんな彼らに世界は一つになるべきだ、と唱えることってさ。それって残酷なことだって気がついたんだ。それが、先鋭的な統合主義でなくてもね」
実家は無事ではなかったものの。
俺の母国はきちんと健在。
いわば恵まれた環境に居る者なのだ。
それなのに、故国を失った人たちにこう言っていたのである。
世界を一つにしてみよう。
それが人類の平和を実現するための良きことだと。
墨塗りの国を蘇らせることよりも。
そっちのほうが人類にとって有益なことなのだから、と。
俺にはそのつもりはなかったけれど、そう聞こえたはずだ。
傷口に塩を塗るとはまさにこのこと。
俺が正しいと思うことが、誰かを傷つけてしまっていた。
そのことに今まで気がつかなかった、自分の鈍感さに嫌気が差す。
自分の無神経さにほとほとあきれ果てる。
また深くため息を吐く。
胸もじくじくと痛んだ。
「人の思想は十人十色。誰かの理想を実現しようとすれば、他の誰かの理想が成り立たず、それを考慮すれば、実現できたはずの理想が消え去ってしまう。でも強引に実現しようとすれば反発を生み、それが争いの種となる……平和とはほど遠くなる」
このまま統合主義でいくのか。
はたまた種族主義が一挙に拡大していくのか。
今後世界の思潮がどちらになるのかは、まだ予測できない。
だが一つだけ言えることがある。
どちらになるにせよ、反対の思想を持つ人たちは、ひどく世界を恨むだろうということだ。
これはもう、避けようのない事態であろう。
「……難問だよ。これは。人類が真の平和を摑むためには。この二律背反をどうにかしなくちゃいけない。相互理解を深めなきゃならないのに。その解決の糸口がとんと見えてこないのだから」
また、ティーカップに口を付ける。
暗い未来を想像してしまった影響か。
僅かに感じていた味も、香りもすっかりと消え失せてしまっていた。
「……その難問。今すぐに答えを得なくてもいいのでは?」
俺の告白にひとくさりがついたこと。
それを認めてからアリスが口を開いた。
控え目な、けれどためらいのない、静かな口調で。
「なにも私たちの世代で、片付ける必要はないように思えます。私たちで解決できなかったら、後の世代に任せればいいのではないでしょうか?」
「でも、それってあまりにも無責任すぎないかい? だってそれは、子供たちのこの難問を押しつけるってわけで。それは大人の責務を果たしていないことにならない?」
「難問だからですよ。ウィリアムさん。だからこそ、時間をかけて答えを見つけなければなりません。テストでもそうでしょう? 難しい問題ほどじっくり考えた方が、正解を求めやすくなるものです」
「そういうもの……なのかな」
「ええ、そういうものです。世の中には、むしろゆっくりと進めた方がいいものがあるのですから。例えば――」
アリスはおもむろにティーポットに手を伸ばす。
俺の手つきのティーカップを見て。
そしてお茶を注ぎ始めた。
ゆっくり、じっくりと。
時間をかけて、丁寧に。
「お茶を注ぐことがそうです。乱暴にやってしまえば、折角のお茶があちらこちらに飛び散ってしまいます」
ゆったりと時間をかけた甲斐あって。
彼女が注いだお茶は一切零れることはなかった。
ゆらゆら、静かに、真っ赤な液面が揺らぐだけ。
「世の中を変えることも、同じことです。種族主義者も統合主義者も。先鋭化してしまった人たちは、皆焦っているのです。自分がいち早く世の中を変えなければ、という風に。他人を慮るようでは、理想は実現できないと思い込み……そして、軋轢を生んでしまうのです」
「つまり。余裕がないってこと? 彼らは自分のことで精一杯で、他人を思いやる気持ちが持つことができてないってこと?」
「ええ。私にはそう見えます。兵は拙速を尊ぶと言いますが、こと相互理解においては、遅巧であることが重要でしょう。互いの言い分を理解し合い、妥協し合うためには、やはり、どう考えても時間は必要ですから」
「そして今の世界であるならば。ゆっくりと物事を考える余裕があるはず。何故ならもう戦争は終わったから?」
「その通りです」
俺の答えにアリスはにっこりと笑って肯んじた。
「今は時間はたっぷりあるんです。邪神に追い詰められていたときと違って、人類の存亡を脅かすものが存在しないのです。即断しなければならない理由はありません」
「でもさ。出来るだけ早く決着しておきたいとも思うんだ。そうすれば人類はより長く平和を謳歌できるから。後世のためにも、俺らが一層の努力をしなくちゃならないと思うんだ。例え苦しくとも、傷付こうとも。でも……これが焦りなのかな?」
「ええ。差し出がましいですけれど、それが焦りですよ、ウィリアムさん。誰も傷付かない道があるはずですよ。時間をかけて、じっくり探していけば、必ずあるはずです」
「……そっか」
「平時だろうと危急の秋だろうと、焦りは良い結果を生みません。排他性たっぷりの先鋭思想を生んでしまったり。あるいは、その逆に……自分を……」
「あるいは?」
これまで澱みがなかったのに。
どういうわけか、アリスの歯切れが急に悪くなって。
そして。
「……ウィリアムさん」
「アリス?」
アリスはかき抱く。
優しくかき抱く。
俺を、俺の頭を。
その胸にかき抱いた。
本当に唐突に。
花の香がふわりと香る。
アリスの香水の香りだ。
さらさらとした肌触りのいい感触。
アリスのエプロンドレスの感触だ。
日だまりのような心地良い温さが、俺を包み込む。
アリスの体温だ。
それらを感じて。
彼女にこうして優しく抱きしめられて。
この歳にもなって、とても恥ずかしいことだけれども。
俺はどうしようもない心地よさを抱いた。
母にあやされているような。
そんな懐かさを感じる心地よさを。
ほっとする安心感を。
「もう急ぐ必要は無いんです。もう、貴方が傷付く必要はないんです。誰かが犠牲になる必要は、もうないんです。だから……」
耳元で。
甘く優しい声で。
俺に言い聞かせるように。
彼女はそう囁いた。
何度も何度も俺の頭を撫でながら。
「だから、ゆっくり生きていきましょう。のんびり見つけていきましょう。貴方が心を痛めなくても済む、そんな優しい世界を」
アリスの声は本当に優しくて。
俺の心の隅々にまで染み渡っていきそうだった。
まるでからから砂地に水を落としたかのように。
じわじわと、けれども速やかに広がっていって。
胸の痛みがなくなっていった。
それはとある穏やかな昼下がり。
屋敷の庭の小さな東屋での出来事だった。




