第三章 二十七話 私は帰りたい
先鋭的な統合主義者はこう言う。
これまでの国という概念を捨てよ。
諍いの種となる国境を放棄せよ。
争いの根源である文化の差異を破棄せよ。
全人類が画一的な文化を持て。
そうすれば全世界が一つになる。
世界が一つの国となる。
争いのない、美しい世界となる、と。
個人的に統合主義には共感するところは多い。
種族による区別、差別の撤廃は大いに頷ける。
それが実現できれば、よりよい世界が生み出されると信じている。
だが、そんな俺から見ても、だ。
先鋭的な統合主義者の言う国境のない世界ってやつは、ただの絵空事でしかない思う。
いや、人類分断の危険性すら孕んでいるとすら思った。
その考えは、その地、その国が培ってきた文化の否定でしかないからだ。
文化を否定するということ。
これはその文化に育まれてきた人たちをも、否定することと同義だ。
多くの人々にとって、これは許容できることではない。
文化を捨てよ。
拒否する。
捨てよ。
拒否する。
捨てよ。
拒否する。
そんなやり取りはいつしか、争いの火種となり――
文化の廃棄と文化の保護という旗をそれぞれ抱えた、人類同志の戦争へと発展するだろう。
平和を志向した思想、統合主義が闘争を生むのだ。
こんな悲しい矛盾あってはならない。
故に先鋭的な統合主義的主張とやらに、俺は首を縦に振ることができなかった。
「統合主義は! 世界を小さくしようとしている! それは構わない! でも、でも! それが私の共和国を忘却の彼方に追いやるのであれば! 私は拒絶する! 断固拒否する! 絶対に認めてやるものか!」
「ルネさん。そいつは違いますよ。極端な統合主義はともかく、今世界の主流となっているものは、そこまで先鋭的ではありません。だから、何処の国も何処の首脳陣も。国という概念の否定することは――」
窘めるような音色の大佐の台詞。
しかしその効果は認められず。
ヒステリックな声で女史が遮る。
「じゃあ、どうして! どうして共和国の復興は進まない!? どうして私の同胞達は共和国に帰りたいと願わない!? どうして避難先に帰化しようとする!? どうして……どうして……荒れ果てた国に帰って、やりなおそうとは思わない!?」
その叫びは悲痛なものだった。
俺と大佐の言葉が奪われるくらいに。
そして同時に悟ってしまった。
彼女のこの激情。
それを鎮める手段が俺達にないことを。
何故なら彼女の怒りの根本は、ただいまの世界が抱える問題であったから。
個人の力ではどうしようもない問題であったから。
「……帰還問題、か」
「ええ……」
俺の口から流れ出て、大佐が静かに頷いたその言葉。
帰還問題というワード。
彼女の平静さを奪っている問題とはこれであった。
「国を失った人たちが、避難先で帰化して、永住を望む問題です」
故に人員が集まらず、復興が遅々として進まない。
地図上の墨塗りされた国名が減っていかない。
故郷に帰りたい。
そう願う人々が思いのほか少ないから。
蘇る国が一向にして現れない。
それは今の世界が直面する問題の一つであった。
戦前、列強の一つとして数えられた共和国とて例外ではない。
考えてみれば当然だ。
邪神の侵攻により、焦土と化し文明が粉砕された故郷と。
侵攻を受けず、しかと文明を残す避難先。
その二つを並べてみて、さて、真に住みよい場所はどちらであろうか。
そんなこと、わざわざ問う必要もあるまい。
被害を受けなかった方へ居続けたいと思うのが道理であろう。
「どうして帰化した共和国人は口々に統合主義を唱えるの!? それもほとんどが貴方の言うところの先鋭的な統合主義だ! 国なんて、国境なんて消え去ってしまえと言っている! 共和国の復興を願う同胞を白眼視すらしている! 人類平和を妨げる愚行だと口ずさみながら! 心底嫌悪している!」
そして帰化した者たちが、過激な統合主義者となること。
これもまた、今の世界が抱える社会問題の一つであった。
自分は故郷を捨ててしまった。
故郷の復興のために同胞と力を合わせないといけないのに。
困難が少ない道を選んでしまった。
帰化した彼らは、往々にしてそんな負い目を背負ってしまうのだ。
そんな負い目を抱いている最中、過激な統合主義と出会ったのならば。
あれは国なる概念に執着している者ぞ。
彼らは世界平和を妨げる存在ぞ、と囁かれてしまったのならば。
国を捨てたことへの罪悪感なぞ感じる必要がないと認めるならば。
あっさりと先鋭的な統合主義に転ぶのも頷ける話だろう。
人間という生き物は、自らを肯定してくれる存在に弱いから。
思い悩む必要なんてない、と囁く言葉に弱いから。
むしろ自然なことなのだろう。
「じゃあ……貴女がこの暴挙に、種族主義に賛同したのは。今の世界が間違っているというのは」
「そうよ、赤毛くん! 極端な統合主義者に教えてやるためよ! 奴らの理想を到底受け入れることが出来ない人間が居る事実を! 奴らが唾棄した国という概念を、大事に思っている人たちが居ることを! 全人類が等しく幸福を追求する。統合主義のその理念がまやかしでしかないことを! すでに統合主義は国を大事に思う人たちを踏みにじっていることを! 取り返しのない代償でもって!」
狼煙。
大佐が隊舎で言っていたことを思い出す。
あの人攫いは種族主義者が、他の種族主義者に自らの存在を示す狼煙であると。
そして、今、女史の叫びを聞けば。
なるほど、狼煙という表現はまったくぴったりだと思った。
無国籍亭の襲撃は狼煙であったのだ。
種族主義者が同志の奮起を促すものではなく。
人々に統合主義の矛盾を知らせる狼煙であったのだ。
統合主義は全人類は兄弟だ、家族だと謳っているのに。
それを認めぬ者は敵として侮蔑し、排除する。
そんな狭量な思想であることを、彼女らは喧伝したかったのだ。
そのためにあの無国籍亭を襲ったのだ。
「そんなこと……! そんなことのために! 今の平和を享受する人たちを襲おうとしたのか! 襲ったのか! そんなことのために! そんなことのために!」
だからこそ許せなかった。
自分の意思表示のために誰かを犠牲にしようとするなんて。
そんなことは絶対に許してはならない。
絶対に。
絶対に!
許してはならない!
再び頭に血が上る。
役者の彼女に負けないくらいの大声でがなりたてる。
「じゃあどうしろって言うの!? このまま統合主義の拡大を指をくわえたままでいろ、というの!? 国という概念がなくなるのを見てろと!? 故郷が国として蘇る機会を失うところ、それを黙って眺めていろと!? 共和国が死ぬことを黙認しろと!?」
しかし彼女はさらに逆上。
窓を、ランプの傘を割らんばかりの大声で叫ぶ。
「そんなこと……そんなことって! あまりに残酷すぎるじゃない!」
いや、叫び声と呼ぶのは語弊があるか。
もはやそれは悲鳴に近かった。
心がくじけて砕けてしまう前の、最期の断末魔。
現に叫び終わるや否や、彼女はぷつん。
怒りと絶望のあまりぺたん。
床に力なく腰を下ろして。
顔中を皺だらけにして、嗚咽。
今の女史は、いつもの自信に満ちたものではなくて。
その姿を見た俺の怒りは急速に萎んでいって。
代わりに胸一杯のやるせなさを抱いてしまった。
「貴方たちは世の中が、統合主義的な世の中が……先鋭化しないと言うけれど。そんな保障なんて、どこにもないじゃない……未来のことは……誰にもわからないじゃない……」
先ほどの気迫と声量はどこへやら。
ファリエール女史はさめざめと泣きながら、囁くようにそう言った。
そんなことはない。
世界は貴女が言うようにはならない――
そう声をかけようとするも、その言葉が口から出ることはなかった。
「……帰りたい」
彼女が呟いた、本当に小さな声によって。
俺が彼女に慰めの言葉をかけるタイミング。
それを失ってしまった。
そして俺の心は叫んだ。
聞くなと。
これ以上彼女の言葉を聞くな。
きっとこれ以上聞いてしまったのならば。
その言葉が刃となって、傷ついてしまうと。
(でも、だからこそ)
俺は聞かなければならない。
俺は傷つかねばならない。
ほんの少しでも彼女の背中を押してしまったかもしれないから。
傷ついて、罰せられなければならない。
そう思った。
「私は……帰りたい……帰りたいだけなの……共和国に。青い空と、温かい日差しと、一面のブドウと麦畑が広がる……あの共和国に。平和な、共和国に……」
悪夢にうなされるように。
うわ言のように。
心ここにあらずといった声色で、ぽつりぽつり。
ルネ・ファリエールはひたすらに望郷の言葉を紡ぎ続ける。
抵抗する余裕を失ったことを認めたからか。
渋っ面を浮かべた大佐が一歩を刻む。
女史を確保するために。
静かに近づいた。
大佐の懐から取り出した手枷が、彼女の両手に填められる。
女史は抵抗する素振りを一切見せなかった。
「貴方だって……わかるでしょう? 故郷をなくした貴方なら……選択肢を前に心が揺らぐ貴方なら……私の気持ちが……」
俯いたまま彼女が俺に問いかける。
共感を求める。
郷里に帰りたいと願う心に語りかけた。
その言葉に俺の心は確かに反応した。
心はしっかりと肯んじた。
でも、やっぱり他人を犠牲にしてまで、帰ろうとは思えなくて。
だから、俺は共感を表には出すことはなく。
結局彼女の問いかけに答えることはなかった。
彼女に共感できるはずなのにしなかった。
それはつまり女史の心をを見捨てているのと同義で。
他人を見捨てたこと。
それに対して俺の心は。
ずきんと鈍い痛みを覚えた。




