第三章 二十一話 悲壮な覚悟
状況が一気に悪化した。
さきほどまで、こちらが有利だったのに。
あっという間に、こちらが不利となってしまった。
薄暗く、狭い路地。
俺と大佐に挟まれるよう佇む二人の似非ペスト医師。
一見すれば挟み撃ちに成功しているように見える。
状況はまだこちらが有利であるように見える。
だが、さにあらず。
何故であるならば、彼らの手中には。
恐怖に震える魔族の家なき少年と。
そんな彼を害せんと突きつけている白刃。
その二つがあったからだ。
「……通していただこうか。大佐殿」
そして彼らは要求する。
少年の命を利用する。
この場から逃げるために。
人質。
彼らが用いた手段はこれだ。
「……大佐」
大佐に言葉を投げかける。
短い一言。
――これは要求を聞かざるを得ない。
そんな意味を込めた一言だ。
もし、このまま彼らの要求を無視したのならば。
あの少年の身が危ない。
何故であるならば――見よ。
少年の首に寄せた刃は、これっぽっちも揺らいではいない。
人を殺すこと。
それに対する躊躇いの雰囲気は、まだ感じ取ることが出来るけれど。
でも、その時が来てしまったら仕方がない。
そんな覚悟を決めてしまった空気も、彼は身に纏っていた。
そんな一種悲壮な覚悟を決めてしまった相手に、もはや説得は通じない。
そしてこちらが彼に手をかけるその前に、あの刃が少年に届いてしまうのであれば。
俺らに出来ることは、もう一つしかない。
「ええ」
フィリップス大佐は、心底悔しそうに頷いてそう答えた。
彼もまた、ペストマスクの悲壮な覚悟を感じ取っていたらしい。
無辜の民、それも子供の命を散らすこと。
それを厭った俺は、そして大佐は。
静かに、そして仕方がなく、壁際に身を寄せて。
通せんぼしていた道を開通させた。
「懸命なご判断、感謝する……本当に、心から」
「っ……」
剣を握った彼がぽそりと呟く。
その言葉には心からの感謝の念が感じ取れた。
結果としてこの少年を殺さずに済んだ。
ありがとう。
そんな謝意があの呟きには込められていた。
だからこそ、俺はいたたまれなくなった。
何故と大声で問いたくなった。
どうして悪事を厭う心があるのに!
そうすることが悪事だと自覚できるのに!
それでもなお、悪に墜ちようと決意してしまったのか!
と。
彼らは慎重に歩み始める。
じっとこちらに注意を払いつつ。
万が一の保険のために少年を引き連れて。
壁に突っ込んだオートモービルの脇を抜けて。
光の差す大通りへと抜けていった。
「行きましょう、ウィリアムさん」
「ええ」
だが、こちらとて彼らを逃がすわけにはいかない。
いつまでもあの少年に、怖い思いをさせるわけにはいかない。
だから、彼らの後を追うように。
大通りへと踊る出る。
ガス灯立ち並ぶ大通り。
馬車がひっきりなしに走る、ゾクリュの目抜き通りの一つ。
人の往来激しいその場所に一歩踏み出すと。
銀色の突風が襲いかかってきた。
「っ!」
「げ」
同じく大通りに出ようとしていた大佐を、ほとんど反射で路地に押し込む。
突風の正体は刺突だ。
白刃の突進だ。
それを上体を反らすことで躱して。
強化魔法で下半身の筋力を水増しして。
そして横っ飛び。
距離を作る。
白昼、往来での突然のヤットウ。
当然道行く人々は呆気にとられ。
恐怖に駆られ。
悲鳴を残して、俺達のそばから遠ざかる。
次の現場へ向かおうとしていたのか。
気だるげに大通りを歩いていた、とある掃除夫は仕事道具を置いていってしまうほどの慌てぶりであった。
「これに反応するとは。やはり、げに恐ろしき反射神経をお持ちのようだ」
くぐもった声がする。
いかにも感心した声色。
声の主は今更考える必要はあるまい。
今さっき、あの刺突を繰り出した者だ。
あの路地で少年を人質に取り、退路を強引に拓いたあのペストマスクだ。
彼の背中には、今や片割れが居ない。
人質にとった少年も居ない。
きっと、先んじて逃げているのだろう。
つまり、彼は俺らを倒した後、追いつこうという腹づもりか。
いや、違うか。
彼がその身に纏う雰囲気はそんな楽観的なものではない。
とても悲劇的なものだ。
覚悟を決めた者が発する雰囲気だ。
先程の殺人もやむなしの覚悟よりも、ずっとずっと悲壮な覚悟。
それをしてしまったことが、容易にうかがえた。
「一人残らず確保したい。そう思っているようだが、そうはさせない。申し訳ないが」
そして、彼の覚悟の気配には身に覚えがあった。
これは戦時中、よく戦場で見かけたものであった。
特に撤退不可避な絶望的な戦場において、度々見られるものだった。
だから自然とわかってしまう。
彼が何を思って、俺と大佐の前に立ちはだかったのか。
その目的を。
「しばし、私とお付き合い頂こうか。ご心配なく。退屈はさせない。スリルに満ちた一時をご提供いたしましょう」
ひどく芝居ががった声でそう告げる。
やはりか。
推測が的中する。
――つまりは、しんがりだ。
彼はここでしんがりの役を演じ切らんとしている。
もう一人を逃がすために。
彼はここで大立ち回りを演じようというのだ。
だが、しかしこれに付き合う理由は俺らにはない。
付き合えばもう一人を逃がしてしまうからだ。
「……申し訳ないが。付き合っている暇はない。だから、中座を希望したいのだけれども……駄目かな?」
「これはこれは。随分とマナーがなっていないお客様だ。途中の離席はご勘弁を」
「これは失礼。ですが、あまりにも退屈で、かつ貴方の身の丈に合わぬ演目であるならば。中座も致し方がないのでは」
「何、心配することはない。これでもいい役者である自信があるのでね。緞帳が下りるそのときまで、私はこの場に貴方がたを釘付けにしてみせましょう。我が全身全霊の熱演でもってね」
「生憎と飽き性なもので。カーテンコールまでじっとして居られた試しが……ないんでねっ!」
ここでずっと言葉を交わせば交わすほど時間を稼がれる。
で、あるならば、俺がやることは一つ。
先手必勝。
機先を制す。
剣を構える彼に向かって、一歩を踏み出す。
未強化の一歩だ。
二歩。
三歩と刻み。
距離を縮めて。
そして四歩目。
彼の間合いの一歩手前。
ここで強化魔法を使う。
これまでとは桁違いの速度を得る。
真横に飛ぶ。
彼の視界から一度外れるために。
突然の変速。
向こうからすれば、文字通り俺が消えたように見えたはず。
一時的にではあるが、俺を見失っているはず。
この機を逃さない。
五歩目で力一杯跳躍して。
彼の背後に躍り出る。
眼前には、がら空きの背中。
軽く握りしめていた手を開いて、伸ばして、手刀の形にして。
強化魔法を解除して、延髄目指して振り下ろす。
かくして手刀はうなじに吸い込まれ。
彼の意識を刈り取る――
はずであった。
「そこかっ」
「うそっ」
信じられないことに。
彼はこちらに気付いている素振りはなかったのに。
手刀を振り下ろそうとしたその刹那。
彼がにわかに反応する。
振り向きざまに鋭い薙ぎを繰り出す。
未強化のままの手刀は間に合わない。
手刀が当たる前に、俺が斬られる。
「くっ」
緊急回避。
強化魔法を用いて、力任せに後ろ飛び。
かくして白刃は空を切る。
なんとか、彼のカウンターを躱すことが出来た。
「……外したか」
俺が手刀で彼を仕留めたと確信していたように、彼もまた確信していたのか。
先の横薙ぎで俺を斬れるということを。
実に小さく、そして不満そうに囁いた。
(……どうして反応できた?)
タイミングは完璧なはずだった。
手刀を振り下ろすその直前まで、彼は俺を見失っているはずだった。
なのに、彼は反応してきた。
そればかりか逆襲してきた。
本当に直前までその気配がなかったのに。
わけもなく一閃を振るってきた。
(……強化が甘かったのか?)
殺さずを意識しすぎて、強化魔法をなおざりに使ってしまったのか。
ひとまずそれに原因を求めるとして。
二の轍は踏まぬとばかりに、今回は意識して強化。
かなりの高強度の強化。
石畳にひびが入るほどに力を込めて。
今度は彼の右真横へ飛ぶ。
視認性の悪いペストマスクでは、ここは死角のはず。
再び彼の視界の外からの意識を奪おうと試みるも。
「……!?」
カウンター再び。
尖鋭な一閃、来る。
俺も先と同じく、緊急回避を試みるも。
向こうの狙いがどうにも正確になったらしい。
わずかに逃げ遅れ。
切っ先が頬かすめ、薄皮が斬られる。
ほんのり、じんわり。
血がにじむ。
「……今度はわずかにかすめたか。しかし、いやはや。今ので捕らえきれぬとは、とんでもない運動能力だ」
今度はわずかとはいえ、俺を捕らえることが出来たからか。
やや上機嫌に彼は独り言つ。
対して俺は戸惑う。
今のもまた完璧な位置取りであったはずだ。
攻撃のタイミングも。
それなのに、またしても彼は反撃してきた。
しかも正確性を上げて。
「ただの劇団員にしては、あまりにも動きが……」
「ただの劇団員、ね。ふむ、やはり私たちの正体はバレているか。ならば、もうこのマスクは必要あるまい。見えにくいし、何よりも蒸れる」
俺が思わず呟いてしまった言葉を、彼は拾う。
身の上が劇団員と割れていることを知り、もはや不要となったマスクを脱ぎ捨てる。
マスクの下は初老の顔であった。
けれども、その目は爛々と生命力を放っており、老いを感じさせない。
そしてその顔はブロマイドなどで見覚えのある顔であった。
確か――
「……ニコラ・ル・テリエ」
その名を呟く。
歌劇座の座長を務める男。
だが俺が知っているのはそれだけだ。
どうして彼がこうまで剣術に秀でているのか。
その理由はまったくもってわからない。
歌劇座のコアなファンならば、それを知っているのだろうか?
自分の演劇への関心がさほど強くないこと。
今、この時ほどそれを呪ったことはなかった。
今回から思いきって文体変えてみましたが、いかがでしょう?




