第一章 五話 消えない勲章
今夜、嵐が来る――
この屋敷に時々訪れて野菜を売ってくれる年老いた農家から、そんな情報をもたらされた。
伝えられた時の空は、雲一つない素晴らしき晴天。
冗談はよしてくれ、と言いたくなるくらいの晴れ空であったけど、しかし俺は彼の言うことを信じることにした。
なにせ、俺よりもずっと長くこの地に住んでいる人の言葉だ。
きっと地元の人間でしか観測しえない、そんな微妙な兆候を感じ取ったのだろう。
聞き流すにはあまりに勿体ないように感じたのだ。
日の高い内に窓ガラスが割れないように戸板を用意したり、植木鉢を屋内に引っ込めたりしたのだけど、これが大正解。
日が傾いてくると共にドス黒い雲が何処かよりやって来て、徐々に空を覆って、そして日没前にしてぽつりと雨が降り始めたのだ。
強い風を伴いながら。
「なんとか本格的になる前に片付けられたけど。いや、それでもすごい雨風だ」
なんとか軒下にたどり着いて、ため息と共に独りごちる。
敷地が広いだけに嵐の対策は思いのほか手間取り、雨が降り始める前に作業を終わらせることが出来なかった。
雨中の作業時間はそんなに長くはなかったけれども、それでも俺を濡れ鼠にするには十分だった。
一歩歩く度ぽたぽたと体から水がしたたり落ちるまで、びしょびしょとなってしまった。
時間を追う毎に雨は、風は、強くなっていく。
作業していた時には、まだ十分に前が見えていた。
しかし今では手を伸ばした先も、真っ白に煙って見えなくなるほどの土砂降りだ。
もし早い時間から作業が出来てなかったら、まだあの雨の中に居たわけだ。
あんな中で作業するとなると……その時を想像をしてみて、思わずぞっとした。
「お疲れ様でした。まずは、これで体を拭いて下さい」
「ん。ありがと」
屋敷に入ればアリスが出迎えてくれた。
その手には綺麗に畳まれたタオル。
ありがたく受け取って、まずは顔と髪をさっと拭き上げ、ほっと一息をついた。
「お風呂も沸いています。体が冷え切ってしまう前に、どうぞお入り下さい」
「うん。そうする」
すでに指先が、自分でもわかるくらいに冷えていた。
このままでは体の芯まで冷えてしまい、風邪をひきかねない。
そうなれば、アリスにさらなる迷惑をかけることだろう。
だから、素直に彼女の好意に甘えることにした。
まあ、アリスに看病されるのも、きっと悪くはないのだろうけど。
タオルに身を包みながらクラシカルに燭台で照らされた、薄暗い廊下を二人で歩く。
元は貴族のカントリーハウスなだけあってこの屋敷は広い。
それはもう、二人で暮らすには過分なほどに。
そのためエントランスから浴室にたどり着くまで、それなりに歩く必要がある。
一応体を拭き上げたとはいえ、肌に張り付くまでに濡れた衣服のまま、とことこ呑気に歩くとなると――
「くしゅっ」
がんがん体温が下がっていって、こうしてくしゃみをする羽目となるわけだ。
「大丈夫ですか?」
「ん。平気平気。ちょっと寒いけど、まあ、ちょっと我慢すれば浴場だし」
「我慢出来なくなったら、いつでも申して下さいね。暖めますから」
「うん? ありがたいけど、どうやって?」
そう聞くと、アリスはおもむろに両手を広げて。
「人肌で、です。ぬくもりなら、ここにありますから」
ニコニコしながらそう言う。
つまり人肌で暖めるから、私に抱きついてきて、と言いたいのだろうか。
きっと冗談なのだろうけど、こういう時、いつもアリスはニコニコしていてるから冗談か否かの判断に困る。
「それはアリスが濡れるだろうから、遠慮しておく」
「そうですか。それは残念」
丁重に断るとアリスは少しばかりトーンを落として答える。
ちょっとがっかりしたようにも見える。
本気、であったのだろうか?
やはりよくわからなかった。
さて、そんな戯れを経て、ようやく浴室の脱衣所にたどり着いたその時だ。
風呂に入る直前で、少しばかりの足踏みをする羽目となる。
脱衣所にてちょっと困った問題が発生したのだ。
「……あのさ、アリス」
「はい」
その問題解決を図るべく、アリスに話しかける。
「ここ、脱衣所なんだけど」
「ええ。そうですね」
ただし、扉越しで、ではない。
脱衣所の中心で、しかも面と向かってアリスに話しかける。
つまりはそういうことだ。
にわかに発生した問題とは。
どういうわけか、アリスも一緒に脱衣所に入ってしまっていることであった。
「……服、脱ぎたいんだけど」
「どうぞ。脱いだ服は私に手渡して下さい」
しかも、頑として動こうとしない。
それどころか、ここに居るのはさも当然だ、と言わんばかりの態度である。
いや、確かに洗濯物の処理はメイドの仕事かもしれないけれども。
「アリスの前で脱がなきゃ、駄目かな?」
いくらなんだって、アリスも目の前で着替えられるのは嫌だろう?
というか、いくら小僧と言える年齢ではなくなったとはいえ、俺とて彼女の眼前で着替えるのは、なんだか気まずい。
「……? ああ、なるほど」
一瞬きょとんとしつつも、納得したのか。
ああ、わかってくれた。良かったと、思うのも束の間。
「お気になさらず。私はメイドですから」
濡れた服を受け取ること、それがメイドの義務、と言わんばかりになおそこで立ち続ける。
例によって、冗談かどうかの見分けの付かない、ニコニコとした笑顔を浮かべながら。
今度は正真正銘の本気だと思う。
どうにも、梃子でも動く気はないらしい。
「くしゅっ」
そうこうしている内にも体は冷える。
また一つ、くしゃみをしてしまう。
このままでは埒があかない。
本当に風邪をひいてしまう。
それにまごまごしてると、暖めるため、とか言いながらアリスが抱きついてきそうだし。
背に腹は代えられん。
「ええい。ままよっ」
覚悟を決めてシャツを脱ぎ捨てる。
野郎の肌が露わになる。
息を呑む気配がした。
アリスの方から。
今更ながら、目の前で野郎に脱がれることに臆したのだろうか。
もしかしたらならば、彼女を説得する最後のチャンスかもしれない。
そんな望みを抱いて、彼女を見てみれば。
抱いた望みをすぐさま打ち砕かれる。
他ならぬ彼女の様子によって。
結論から言えば、彼女は臆してなんかいなかった。
さっきのニコニコは何処へやら。
アリスは悲しげな表情で俺をじっと見ていた。
「……傷」
「うん?」
「やっぱり、傷、消えませんね」
「まあね。結構深い傷もあったから」
どうして彼女は息を呑んだのか。
どうして彼女は悲しげな顔しているのか。
それは俺の体に原因があった。
シャツに隠された上半身には無数の傷があった。
無論、すべてがあの戦争によって刻まれた傷だ。
戦争が終わってもう一年経つ。
にも関わらず、それらは一向に薄くなる気配を見せず、いつまでも強烈に自己主張をし続けている。
我ながら痛々しいこと甚だしいと思う。
その痛々しさが、一瞬にして彼女の笑みを奪ったのだ。
「本当に。たくさんの、傷」
「十年も戦場に居たからなあ。どの時にやられた傷だか、わからなくなってしまったやつもある」
俺は十二で入隊して、二十二で終戦を迎えた。
丸十年戦場で過ごしたことになる。
その間に負傷した回数なんてそれこそ星の数。
負傷がもはや日常の一シーンとなってしまって、新たに傷を負っても感情を動かされることがなくなってしまった。
だから印象に残っていない傷というものが、俺の体には山ほどある。
そしてそういった傷ほど、どのような経緯で付いたのか、今ではすっかり忘れてしまっていた。
「まあ、必死に戦った勲章、と見ることも出来るじゃないかな? サボってたんじゃこんな傷出来ないんだしさ。平和に貢献した証ってことで」
傷が露わになって以来、場の空気は湿っぽいものになってしまった。
こんな空気が許されるのは、葬式ぐらいだ。
だから努めて明るくそう言い放つも、どうにも空気を振り払うその期を逃したようだ。
「……そうですよ。ウイリアムさんは」
彼女は真っ直ぐに俺を見る。
俺の傷を見る。
潤んだ目で。
何かの感情を必死に押しとどめているのか。
きゅっと下唇を噛んでいた。
「……こんなに頑張ったのに」
アリスが一歩詰め寄る。
ぼそりと、感情を押し殺した声で呟きながら。
真っ白で綺麗な指がそっと俺の傷跡に触れる。
体が冷えているためだろう。
彼女の体温がとても熱く感じた。
「こんなに危ない目にあったのに」
アリスの声量がわずかに上がる。
感情がこもり始める。
またアリスは一歩詰め寄って。
いまや彼女の熱い吐息を感じるまでの距離に居る。
「折角生き残ったのにっ」
そして彼女の感情が溢れた。
声は上ずり、ほとんど泣き声。
じっと傷を見ていた目は、見ていられぬ、とばかりに伏し目となって。
そして乾いた床にはぽつり、ぽつりと雫が落ちる。
「どうしてっ、こんな目に」
堰を切ったように、とはまさにこのこと。
今の言葉を最後に、さめざめと泣き始めた。
俺の胸板にこつりと額をつけて。
小さなその肩を上下に震わせて。
彼女は何に泣いているのか。
何に情を動かされているのか。
その答えとは。
つまりは、彼女は一連の追放劇に未だ納得していないのだ。
ゆるくはあるけれど、俺の軟禁生活は不当と感じ続けてくれているのだ。
その事実を受けて俺は――
(こう感じるのは不謹慎、かもしれないけど)
今、ここに俺のために泣いてくれる人が居る。
静かに泣いてくれる人が居る。
それがなんだかとても嬉しかった。