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第三章 十九話 赤い残光

 ニコラ・ル・デリエは走る。


 徐々に徐々にと陽光が西に沈み行くゾクリュを走る。

 衆目を集めるペストマスクを着けながら、走り続ける。


 大通りを走り、小径を行き、時には他人の庭を突っ切り――

 とにかく恥も外聞も無く駆け抜け続けた。


 ただいまニコラが行くは、建物と建物の間を走る狭い路地。

 大小問わずのゴミが散乱し、時には薦被りが寝転ぶような、そんな裏道。


 そんな道を、彼は一人で走っているのではない。

 初老に差し掛かったものの、それでも老いを感じさせない立派な彼の手。

 そんな手は、白く細く儚げな手をしかと握っていた。

 女性の手を握っていた。


 離さないように、慎重に、けれどもしっかりと手を引いて。

 彼が持つ器用さを存分に発揮して、ゾクリュの街を駆け続けた。


 男が女を手を引いて、ひたすら駆ける逃避行。

 さながら演劇のようなシチュエーション。

 舞台の上ではロマンチックな状況。

 しかし、今の二人にはそんな雰囲気に浸る余裕はなかった。


「――座長さん」


 ニコラに手を引かれる誰かが彼を呼ぶ。

 マスクのせいで、その声はいささかくぐもってしまっている。

 だが、それでも心配しきっているとわかる声色であった。


「大丈夫だ、ファリエールさん」


 だからニコラは、努めて落ち着いた声を作って。

 その人、ルネ・ファリエールに語りかける。


 大丈夫だ、心配ない、と。


 ニコラはちらと彼女の顔をうかがう。

 マスクのせいで表情は読み取ることはできない。


 が、どうやら彼女は未だ不安を感じているらしい。

 そうニコラは悟った。


 まあ、心配するのも無理はないな、と彼は思った。


 なにせ、この逃亡劇。

 逃げおおせるためには、もう奇跡が起こることを期待するほかにないのだから。


 自分たち歌劇座の凶行を止めんとやって来た、あの赤毛の男。

 あの男は直前に自分たちに挨拶をしていた。


 "こんにちわ(ボンジュール)紳士諸君(ムシュース)"、と。


 自分たち歌劇座の母国語、共和国の言葉でもって。


 それはつまり、自分たちが共和国の生まれであることを知られているということ。

 顔を隠したものの、正体は知られてしまっていると見るべきだろう。


 だとすれば、である。


 例えこの街から逃げおおせたとしても、その後の見通しは極めて悪いと言わざるを得なかった。

 すぐさま自分たちの顔写真が王国中でばらまかれ、お尋ね者となるはずだ。


 まさに絶望的な状況。

 どうせ捕まるのならば、自ら身を差し出す方が利口と言えよう。


 だが、ニコラはそうはしなかった。


「大丈夫だ。逃がしてみますよ。貴女を絶対に」


 静かに、けれども意思を込めてルネに語りかける。


 彼がこうして無謀にも逃走を続ける理由。

 それはたった今も手を引くルネ・ファリエールの存在が故であった。


 ニコラは大きな後悔を抱いていた。

 自分がこの暴挙に彼女を巻き込んでしまったことに。


 ハドリー・ロングフェローが乱心したあのとき。

 彼女がこの暴動に参加すると意思表明をしたとき。

 自分が強引にでも彼女を止めるべきであった、という後悔だ。


 彼女は自分たちと違って、ハドリーとの直接的な関係は持っていない。

 だからこんな無謀な真似に、必ずや参加しなければならない義務はなかったはずである。


 ハドリーほど先鋭的で、極端になかったにせよ、だ。

 彼女も自分たちと同じく、今の世界の姿に少なからず疑問を覚えているといえど、である。

 この公演にあたらなければ、彼女は種族主義の片棒を担ぐことなんてなかったはずだ。


(そうだ。すべては私のせいだ。私が彼女に共演の話を持ちかけなければ、彼女は)


 社会の裏側に首を突っ込むことはなかったはずである。

 後ろ暗いものが何一つない、世界的大女優、ルネ・ファリエールのままであったはずである。


 そんな彼女から、自分は清廉さを奪ってしまった。

 世界中から糾弾されて然りの大罪人だろう。

 だから、なんとしてでも。


「貴女を逃がす。絶対に」


「……でも。ここで私が逃げたところとて。手配されてしまえば――」


「そうでしょうな。私たち歌劇座はまずそうなるでしょう。ですが、貴女はそうならないかも知れない。守備隊は歌劇座とロングフェローのつながりを重点的に調べたはず。だから……」


「ロングフェローとの関係が見られない私であれば。もしかしたら、マークされていないのかもしれない?」


「ええ。それに貴女が泊まるホテルは、私たちのところとは違いますしね。希望を捨てないで。貴女ならまだ、間に合う」


 それは結局のところ、誤魔化しであるのかもしれない。

 先日ハドリーの言っていたことを思い出す。

 今の言葉は彼が言うところの、都合のいい現実解釈であるのかもしれない。


 だが、例えそうであるにしても。

 ほんの一縷でも彼女が逃げおおせる可能性があるのであれば。

 ニコラはそれに縋るざるを得なかった。


 彼が足を動かし続けたその理由。

 自分の優柔不断でルネ・ファリエールという稀代の大女優の輝きを奪ってしまうかもしれない。

 そんな負い目も当然あった。


 だが、それ以上に彼女をどうにか逃がそうとする、その大きな動機とは。


(共和国が生んだ大スターを。全共和国人の誇りを。失うわけにはいかないっ)


 亡国となり、世界に散り散りとなってしまった同胞。

 悲劇的な境遇に心が折れそうになっている、同郷の者たち。

 そんな彼らの心の拠り所となっているのが、ルネ・ファリエールであれば。


 いかなることがあっても、彼女を逃がさなければ。

 そうニコラが強い決意を抱くのも当然と言えよう。


 同胞のために。

 心の拠りどころとなる存在を奪ってはならない。

 だから、なにがあっても逃がす。


 幸いなことに、その必死の決意は天に通じたか。

 ここまで守備隊に追いかけられている気配はない。


 あともう一歩でルネが宿泊するホテルへとたどり着く。

 ホテルの従業員に見られることなく、外に出ることに成功したと彼女は言っていた。

 アリバイとしては成立しないけれど。


(再び気付かれずに部屋に戻ることが出来たのならばっ。捜査を誤魔化せる可能性が――)


 ――生まれるはずだ。


 口内にて独りごちるはずだったその台詞は。

 しかし悲しいかな。

 都合の悪い現実が目の前に現れたことで、あっさりとかき消されてしまった。


 路地の出口。

 大通りへと繋がる交差点。

 そこににわかに影が生じた。

 壁が生じた。

 がつんという、衝突音と共に。


 出口が、塞がれた。


 ニコラは思わず舌打ちをした。


 壁の正体はオートモービルであった。

 きっと、交差する大通りを走っていたやつ。


 恐らく運転操作を誤ったのだろう。

 路地の壁となっていた建物に、鼻っ面から突っ込んでいた。


「あ゛っ……ぶ、ぶつけちゃった……ああー……予算下りにくい状況だってのに。嫌になるなあ。不器用だと、ねえ?」


 随分と勢いよく突っ込んだが、どうやら運転していた人間は無事であったらしい。


 やっちまった、どうしよう。

 そんな情けない顔を浮かべつつ、車から降りてきたのは一人の軍人、いや守備隊員であった。


 三十半ばといったところの男であった。

 その茶色い髪は櫛が通ってないために、どことなくだらしなさを感じさせる、そんな男。

 軍人特有の威厳がなく、それ故、軽薄な印象も受ける。

 だから一見すれば、出し抜くのに容易そうに思われる。


 だが、しかし。


「ま、いいか。退路防げたみたいだし。結果オーライってことでいいかな?」


 独り言か、それともニコラに語りかけているのか。

 一歩、と距離を詰めながら男は喋る。


 目尻がわずかに垂れた目は、やはり威厳なんてまったくなく、むしろ親しみやすさを覚える。


 そう、その印象でいけば、この男に恐怖を感じる要素なんて一つもないのに。


 ニコラの背筋にはつうと冷たい汗が伝う。

 先ほどまで走っていたからではない。

 この汗は恐怖が由来の汗であった。


 その原因は、親しみすら覚える男の目にあった。

 険しさとはとんと無縁なその目。

 そのずっとずっと奥底には、強烈な意思の光を湛えていたのだ。


 ――絶対に逃がさない。

 地の果てまで追いかけてやる。

 どこまでも。


 その眼光はそう語っていた。


 それは柔らかい目付きとは正反対の質のもので。

 目付きと眼光が矛盾していて。

 だからこそ、ニコラは恐怖を覚えたのだ。


「――こっちだ! 引き返す!」


 この場に居てはまずい。


 直感がそう判断した。

 ルネの手を強く引いて、ニコラは来た道を戻ろうとした。


 だが。

 くるりと踵を返したその瞬間。


 紅の残光が空から降ってきた。

 さらに都合の悪い現実が彼らに降りかかった。


「ねえ、ウィリアムさん」


 独り言か否か。

 その判別に困った男の言葉は独り言ではなかったらしい。


 どうやら先ほどの言葉の送り相手とは。

 たった今空から降ってきた。

 あの悪魔染みた強さを誇った。


「ええ。まったくもってその通りです。結果よければなんとやら、ってやつです。大佐」


 くすんだ赤髪の、あの男であるようであった。


 はさみうち。

 ニコラの退路は断たれた。

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