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第一章 四話 百合の花

 そこは僻地と呼ばれた地であった。

 流刑地として選ばれるほどと言えば、そこがどれほどの辺境にあるかを端的に表現できるほどに。。

 

 辺境。だからこそ田舎。

 昔から、ゾクリュという地の評価はそういったものであった。


 そう、かつてのゾクリュはそうだった。

 戦争があるまではそうだった。


 邪神という未知の敵の前に、人類は敗走に敗走を重ねていた戦争初期のことだ。

 一つ、また一つと国が消えていき、それどころか世界帝国であった王国でさえも敗北を積み重ね、人類に絶望が蔓延していたころ。

 その地で一つの奇跡が起こった。

 戦い始めて三十年、負け続けてきた人類が初めて、ゾクリュで勝利を手にしたのである。

 邪神の侵攻を食い止めることができたのである。


 大勝利と言うべき戦果であった。

 ゾクリュを防衛することに成功したどころか、わずかばかりの陥落地を奪回したのだから。


 その瞬間から、人々のゾクリュに向ける眼差しが変質した。

 取るに足らない片田舎から、邪神戦争の最前線の地、ゾクリュ。

 そして失った土地を取り戻すために重要な、橋頭堡となる地、ゾクリュ。

 そう記憶されるようになった。

 

 街自体も変貌した。

 数百年もの間ずっとそのままであった、古くさく垢抜けなかった街並みは、瞬く間に堅牢な城塞都市に姿を変えたのだった。


 そして変わったのは、きっと街並みだけではない。

 街に留まる空気も変化したはずだ、とウィリアムは思った。


「昔は、こんなにおい。しなかったろうに」


 ぼそりと呟いた声に、返す者は居ない。

 皆、自分のことで精一杯で、彼の独り言を聞いてもいない。

 唯一耳に入っていそうな者は、ウィリアムが背負う兵士ぐらいだろうか。


 しかし、彼も返事をする素振りも見せず、だらりとウィリアムに負ぶさっているだけ。

 ぴくりとも動かない


 返事はないのも、動きがないのも当然だ。

 彼はずっと前に事切れてしまっているのだから。

 

「本当に、嫌なにおいだ」


 それでも構わず彼は独りごちつづける。

 確かに、彼が嫌ったにおいは異様なものであった。


 死んでいった者に捧げる百合の香と、誰かしらから流れる血の臭いが合わさった、強烈な臭い。

 それが街に満ちていた。


 異様なのはなにも、においだけではない。

 音もまた尋常ならざるものであった。


 怪我人の苦痛にうめく声。

 瀕死の戦友に、死ぬな死ぬなと、必死になって呼びかける激励の声。

 そして家族の死に嘆き悲しむ、大きな泣き声。


 あまりに悲しい大合奏が、街中に響き続けている。


 そんな中をウィリアムは歩き続ける。

 もちろん、気分は重い。

 街に溢れる悲しい音にあてられたのもある。

 しかしそれを抜きにしても、これから彼が向かう場所のことを考えると、どうやっても気分が沈んでしまう。

 それほどまでに、そこはもの悲しい場所であった。


 ウィリアムが目指す場所とは、身柄情報速報所。

 この街の最も悲しい情報が集合する場所であった。


 速報所にウィリアムが足を踏み入れる。

 表よりも一層重たい空気をかき分けて、陰気な顔をして事務に勤しむ女性職員に声をかけた。


「やあ。帰還者を連れてきた。家族に会わせてあげて欲しい」


「認識票はありますか?」


「うん。ここに」


 皮で拵えた認識票を彼女に手渡す。

 認識票には名前、生年月日、所属部隊、出生国と出生地といった情報が刻まれている。

 部隊の壊滅すら珍しくないこの戦争中に生まれた、戦死者を特定しやすくするための一種の工夫であった。


 認識票をちらちら眺めながら、職員は手元の行方不明者の名簿をぱらぱらとめくる。

 そしてしばらくして、ページをめくる手が止まる。

 それはこの戦争による行方不明者が一人この世から消えて、代わりに戦死者が一人増えたことを意味していた。


「確かに、行方不明者であったようです。では掲示板に行ってきます。三番霊安室が空いています。お手数ですが、彼の移動をお願いします」


「わかった」


 職員が口にした掲示板とは、この速報所の入り口に誂えた、行方不明者を通知する掲示板のことだ。

 行方不明者の戦死が判明した際、まず始めに、掲示板の情報を書き換えるのが手筈となっている。

 職員が席を立ったのは、書き換えをするためだ。


 ウィリアムは職員に促された通り、三番霊安室へ。

 霊安室は街のそれよりも濃厚な血と百合のにおいが出迎える。

 きっと壁に染みついてしまったのだろうな、とウィリアムは漠然と思った。


「こちらに」


 ウィリアムが乱れていた彼の着衣を整え、寝台に献花の百合を置こうとした頃合いであった。

 先ほどの職員の声が、背中から聞こえたのは。


 家族を連れてきたらしい。

 ウィリアムは戦死した彼は認識票から、ゾクリュの生まれであることは知ってはいた。

 しかしいくら地元にしたって、ここにやってくるのが速いと思った。

 どうにも書き換えのタイミングで、たまたま家族が速報所に訪れていたようだ。


 家族は一人だけだった。

 年老いた女性だけ。


「……確かに。息子です」


 静かに寝台に歩み寄って、ぽつりと老母は呟いた。

 少なくとも表面的には悲しみは見られない。

 とても冷静に事実を受け入れているように見えた。


「貴方が、息子をここまで連れてきてくれたのですね」


「はい。私が彼を見つけたときには、もう」


「そうですか。息子は……立派に戦ったのでしょうか」


「それは間違いないでしょう。彼の周りには、何体もの邪神の死骸が、折り重なっていましたから」


 寝台に横たわる息子を眺めながら問うた老母に、ウィリアムは背筋を伸ばして答えた。

 

「彼は、勇敢な男です」


 それは本心からの言葉だった。


 邪神の死骸から察するに、たった一人で多くの邪神と戦わざるをえない状況に陥っても、彼は逃げようとしなかったのだろう。

 もし、逃げながら戦っていたのならば、死骸が積み重なることはない。

 道しるべのように、ぽつぽつと筋状に死骸が転がるはずだからだ。


 逃げてもおかしくはない恐怖心に駆られたはずである。

 けれども、彼は逃げなかった。

 これを立派だ、勇敢だと讃えずに、なにを讃えたら良いのだろうか。


「なら、良かった」


 老母はほっと安心したような一息を吐いた。


 息子はきちんと役目を果たしてから死んだ。

 多くの邪神を道連れにし、おかげでその邪神に襲われて、死ぬかも知れなかった人々の命を救った。


 なら、息子の死は無駄ではなかったに違いない。

 老母の安堵はそう結論づけられたことのものに、ウィリアムは見えた。


「申し訳ないのですが。息子を焼き場にまで連れて行ってくれませんか? もう、この子の家族は私だけなのです。私の力では、とても」


「はい。お手伝いします」


 この老母のように、未亡人になるどころか、家族全員を亡くしてしまった女性は珍しくない。

 もう百年近くも戦争を続けているし、家族の誰かしらが戦死している時代である以上、特別な悲劇ではない。

 この時代に生まれてしまった者は、それを割り切らねばならないのだ。


 けれどもやはりその現場を生で見てしまうと、どうしようもないほどのいたたまれなさを抱くもの。

 同情のため息が漏れるのを、ひたすらに我慢しながらウイリアムは、出棺のために再び寝台へと歩み寄る。


「襟が……」


 その動きを遮るように、老母の手が横たわる息子の首もとに伸びた。


 はて、とウイリアムは思った。

 彼の衣服は簡単にだけど、さきほど自分が正したはず。


 それに今、見返してみても、特に老母の言ったように襟が乱れた様子はない。 

 襟を直す必要が見当たらない。


 何を?


 そう問おうとした空気を、陰気な職員は感じ取ったか。

 すっと、静かに制止の手を差し出す。

 そして、あの母親をよく見て、と言わんばかりに目で促す。


 ウィリアムが促されたとおりにしてみれば。

 年老いた小さな背中が、小さく小さく震えていた。


 襟を直すためには過剰なくらいに、彼に顔を近づけて。

 冷たい頬を何度も何度も撫でていた。


「最期くらい、きちっとしないと。この子はいつだってだらしなくて……だらしなくて……」 


 最後の方はなにを言っているのか、それをウィリアムは聞き取ることが出来なかった。

 彼女のすすり泣く声が、彼女自身の声を潰してしまったから。


 そしてウィリアム自身、もうこんな声を聞くのは、もうたくさんだと悲痛に潰されかかってしまったから。


 だからウィリアムは思った。

 強く思った。

 はやく戦争を終わらせなくては。

 そう、心の底から。


 ◇◇◇


 アリスの買い物を手伝うために、久しぶりにゾクリュに訪れた。

 流罪となったのに外出可能とはなんとも緩い話ではある。


 もっともいつでも自由に、というわけではなく、申請が必要となるし、出られる範囲もゾクリュの街周囲に限られる。

 それによくよく集中してみれば、俺らに刺すような視線が遠慮なく集まっていることがわかる。

 十中八九、見張りの連中だろう。


 とは言え規制される自由はその程度であるのだから、やはり緩い流罪と言わざるをえまい。


「ずいぶんと角がとれてきたね。なんというか、もう普通の街だ」


 さて、ゾクリュの変貌は、驚くべきものであった。


 前線基地としての機能を、極限まで高めたおかげで、没個性的だったかつての街並み。

 それがすっかりと装いを新たにしていた。


 今のゾクリュに目立つような軍事施設はない。

 どうやら終戦と同時に多くを破壊して、民間に土地を払い下げたのであろう。

 かつてそれらがあった場所には、まったく別の建物が建っていることも珍しくなかった。


 それはカフェであったり、本屋であったり、そして緑が目に優しい広場であったり。

 どれもこれも、戦中のゾクリュには見られなかったものだ。


 街行く人々もそうだ。

 全員が全員、血の臭いが染みついた軍服なんて着ていない。

 思い思いに、身の丈と好みにあった衣服と帽子を身につけて、のんびり街を出歩いている。


「……でも、前の街も嫌いじゃなかったんだけどな。覚えやすくて」


 これはきっと、職業病、ってやつだろう。

 店の名前や場所を思えるよりも、防衛施設の場所のほうが、悲しいくらいに覚えがいいのは。


 昔なら居眠りしながらでも目的地にたどり着けたゾクリュも、今ではアリスに必死について行かないと、間違いなく迷子になるだろう。

 流石に齢、二十を超えて迷子ってのは、なんとしてでも避けたい事態だ。


 だから思わず前のままの方が良かった、なんて軽率なことをうそぶいてしまった。

 それを受けて、アリスが真剣な顔をして俺を見た。

 そして窘める。


「そんなの駄目ですよ。折角ここが前線基地じゃなくなったんですから。戦争のにおいなんて、みんな嫌いなんですから。それに」


「それに?」


「前線基地だったころのこの街は、ひたすら悲しい空気に包まれてましたから。みんな、思い出したくないんですよ。あのころを」


 その言葉に思い出す。

 戦争の頃にこの街に充満していたあのにおいを。

 あの空気を。


「……確かにそうだ。俺が間違っていたよ」


 そうだ。

 あんな空気の中に身を置くのは、もううんざりだ。

 毎日知ってる誰かの葬式があるような日々なんて、もう絶対に送りたくない。

 アリスの言うとおりだ。

 思い出したくもない。


 その残り香を消し去りたいと願うのは、正しいことなのだ。


「おや」


 食品を買い求めに商店まで歩いている途中、どこからか花の香りが漂ってきた。

 かつての街に漂っていた百合の香りではない。

 色んな花の香が混ざった、複雑なものだ。


 その香りの源を突き止めることが出来た。

 真っ白で真新しい三階建ての建物、その一階部の花屋がそれである。


 この場所も確か、元は軍の施設があったところ。

 そうだ。ここは。


 あの速報所があった場所だ。


「へえ、ここ花屋になったんだ。いいね」


「この場所は特に悲しい声に満ちていましたからね。でも、今はほら」


 アリスが指し示した方を見れば、小さな女の子と母親が、家に飾る花を選んでいる光景があった。

 あれでもない、これでもないと、悩みながら花を見て回っていた。

 でも、その悩むことすら楽しいのだろう。

 二人に笑顔が絶えることはなかった。


 やがて女の子の方が、気に入った花を見つけたのか。

 きゃっきゃっと喜びながら、一つの花を指さす。

 そして母親がニコニコしながら、それをお買い上げ。


 店員から花を受け取ったとき、親子の顔はまぶしいくらいの笑顔に満ちていた。


 それは、かつてのこの場所では、絶対に見られなかった顔だ。


「うん。本当にいい」


 その親子の顔を見て、微笑ましい気分になる。

 自然と頬が緩む。

 そして僅かばかりの達成感も覚えることが出来た。

 あの戦いの日々の果てに、こんな平凡な日常を手入れることが出来て良かった、と。


 ああ、俺やアリスが命をかけて戦ってきたことは、決して無駄ではなかったのだ。

 戦地で散っていった人々の死は決して無駄ではなかったのだ。

 改めてそう実感することが出来た。


「アリス」


「はい」


「あの花屋で百合の花束を買おう」


「百合の花、ですか?」


「そう、百合の花」


 その言葉にアリスが驚く。

 無理もない。

 どうしても、死んだ人達のことを連想してしまうから、俺が百合の花を好んでいないことを、彼女は知っていたからだ。


 その好みは今だって変わったわけではない。

 いつもであれば、買うことなんてない。


 でも、今日に限っては。

 買わなくちゃいけないと思った。


「買い物に付き合うって言った手前、とても悪いんだけどさ。ちょっと寄りたいところが出来ちゃってね」


「私は構いませんけど。何処に行かれたいのです?」


「戦没者墓地」


 そこでどうして俺が百合の花を急に欲しがったのか、アリスは悟ったようだ。


「思えばゾクリュに来たのに、まだ彼らに挨拶が済んでいなかった。こんな無礼、いつまでも許されるはずがないなって思ったんだ」


「……そうですね。貴方の言うとおりです。戦争が終わったことを、皆さんにお伝えしなければなりませんね」


「悪いね。まだ買い物すら終わっていないのに」


「いいえ。お気になさらず。わたしは貴方のメイドです。貴方のなさいたいことが、私のしたいことでもあるのですから」


「本当に悪いね。ありがとう」


 足は目の前の花屋に向けて動き出す。

 苦手な百合の花を買うために。


 戦時中は売る側も事情を察して、沈痛な顔していたものの。

 平和となった今では、察する必要なんて何もなく、店員は屈託のない笑顔で百合の花を渡してくれた。


 そうだ。

 これこそが本来花屋であるべき光景なのだ。

 花を買う度、暗い顔にならざるを得なかった時代の方が異常だったのだ。


 でも、それがすっかり消え失せてくれた今では――


 ああ、これからはいい時代になりそうだ。

 今は亡き戦友達に語る、いい土産話が出来た。


 早くそのことを話したい――

 きっとそう思っているお陰だろう。

 俺達の歩みは、墓地に向かう者のそれにしては、少しだけ軽やかなものであった。

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