第三章 二話 強化魔法の無駄遣い
窓から屋敷に入る日差しは、もう随分と濃いオレンジ色となっていた。
あと少しで夕方から夜に移ろうかという頃合い、この生活に入ってからは珍しいことに、これから外出しようというところ。
今の俺は外出の準備を終え、一人大広間に居た。
もちろん、準備をしていたのは俺一人だけではない。
アリスもアンジェリカも、そして誠に不服ながら先日より同居する羽目となってしまったヘッセニアもまた、準備のため各々の部屋に籠もっている。
普段であれば外出は白昼のみに限られているのに、今日に限ってどうして夜に外に出ることとなったのか。
その発端は数日前に遡る必要があった。
アリスの買い物を手伝うべく、街に下りたある日のことだ。
俺は市場でいつかの戦場で生死を共にした戦友と、本当にばったりと再会した。
お互いよく生きていたなと、再会の挨拶もそこそこに、俺は彼からとある招待を受けた。
どうやら今、彼は戦友たちと共にゾクリュで飲食店を経営しているらしい。
時間が空いている時で構わないので、一度来て欲しいと誘われたのである。
本来なら即答したいところだったが、何分只今法的な制裁を受けている身。
その場はなんとか受け流して、ダメ元で大佐に話してみたところ、クロード同席なら構わないという、なんとも温情に溢れる許可を貰うことが出来たのだ。
ゾクリュ守備隊の隊長からのお許しを得たと言うことで、満を持して本日屋敷に住まう一同で戦友の店に繰り出すことになったのである。
「ウィリアムさん、早いですね」
広間に響く幼い声。
アンジェリカの声だ。
どうやら、女性陣一番乗りは彼女であるようだ。
「ま、男の身繕いなんてこんなもんさ」
着衣の容易さという点では、男物衣服は女物それに比べると各段に優れている。
ドレスなんかが良い例だろう。
あれは元々貴族の令嬢が着るものであっただけに、使用人が着せることを前提にして作っている場合が多々ある。
蒸気機関の出現で紡績技術が向上し、民衆でもおしゃれが楽しめる時代が到来し。昔に比べれば随分と着衣が楽な婦人服が出てきたとはいえ、だ。
それはあくまで過去との比較の話であって、やはり紳士物に比べると未だ着衣が煩雑である、と言わざるを得ないだろう。
アンジェリカの準備を終えたのが一番早かったのも、そこに理由を求めることが出来る。
彼女はそこまで複雑な服を持っておらず、洗い立ての衣服を着るだけでおめかしが済んでしまうのだ。
着替えが早く済むという利点はあるも、しかし、一張羅を持っていないという事実はちょっと可哀相なのも事実。
いずれ彼女にもきちんとした服を買い与える必要があるだろう。
「お待たせしました、ウィリアムさん」
次いでやって来たのはアリスだ。
その出で立ちはいつものメイド服ではない。
クリノリンのないタイトな黒のロングスカートと、白のボタンフリルブラウスに、胸元には青のリボン。
当世風でありながらシンプルなコーディネイト、といったところだろう。
アリスの元の造りの良さも相まって、とても様になっている。
少なくとも、俺の言葉を奪うくらいには。
「どうなされたのです? ぼうとして?」
言葉を失った俺を見て、訝しみの声をかけるアリス。
「あ、ああ。いや、さ。何というか――」
――アリスのそんな姿見るのは初めてだから、なんだか新鮮で。
そう感想を述べようとしたのだけれども、どういうわけか意図せず台詞をはくりと飲み込んでしまった俺が居た。
「……?」
言葉を急に途切れさせてしまった俺を見て、ますます不思議な顔をするアリス。
だからさっき言おうとした言葉をかけようとするも、またしても何故か声となって出てこない。
声が喉にある壁に阻まれて、口から出てこない感じだ。
これは一体どういうことか。
一体何に阻まれて声が出ないというのか。
言葉にしようとすると、胸にもやもやが走って躊躇ってしまうこの感覚の正体は――
(これは。違和感、か?)
そう、違和感。
これは違和感だ。
学校で自信を持って答えを記したはいいものの、何か腑に落ちない感覚を放っておいたら、案の定点数を落としてしまった時にこんな感じの違和感を覚えた。
そんな感覚を今覚えたということは、だ。
(俺はこの姿のアリスを見たことがある、ということか?)
その考えに至ると、さっきまで抱いていた違和感が綺麗に消えてなくなった。
代わりに心に溢れるのは、ああ、この答えで間違いない、という安心感。
一連の心の動きから察するに、この服を着たアリスを俺は以前見たということで間違いはなさそうだ。
(だが、いつだ? いつアリスのこの姿を見た? この生活に入ってからではないのは確かだ。なら、戦時中ということになるのだけれども……)
記憶を掘り返してみる。
戦時中のこんなアリスを見た、ということは、束の間の休暇を彼女と過ごしたということ意味しているはずだ。
だけどいくら必死に思い返してみても。
そんな記憶を掘り当てることができない。
アリスと休暇を一緒に過ごす。
それは絶対に素敵な思い出なはずなのに。
まったくもって、思い出すことができなかった。
「……本当にどうかされたのですか? 顔色、悪いですよ? 体調がよろしくなければ、外出を取りやめた方が……」
必死に思い出そうとしている俺の顔付きは、きっとかなり深刻なものだったのろう。
アリスが心配そうに見つめてくる。
「いや、大丈夫だよ。なんでもないから」
「本当ですか?」
アリスを心配させたくなくて、大丈夫だと答える。
なんとか笑顔を作って、健在であることをアピールする。
でも綺麗に笑いを作れなかったからだろうか。
彼女はなおも不安げに眉をひそめ続ける。
まあ、人から心配された人間の言う、自分は大丈夫って台詞は往々にしてアテにならないもの。
だからアリスの反応はもっともなものと言えるのだけど、さて、どうやって彼女に俺は大丈夫ということを伝えようか。
胸に抱く悩みの質が、ほんの少し柔らかくなった頃合いだ。
本当に良いタイミングで、最後の一人が大きな声を響かせながら広間にやってきた。
「やあやあやあ。ごめんごめんごめん。ちょーっと趣味に熱中しすぎてね。気付いたらこんな時間になっちゃった。待った?」
俺が突然深刻な顔色したせいで、場の空気はすっかりと重苦しくなっていた。
が、ヘッセニアのお気楽な声によって、空気は僅かに弛緩。
この一瞬を逃してはならない。
すぐさまヘッセニアの台詞を返すべく、彼女の姿を見る。
そして絶句した。
今度の絶句は先のような、見つからない記憶による気味悪さからではない。
その原因は今のヘッセニアの格好だ。
もうすぐ出かけるというのに。
アンジェリカもアリスもちゃんと綺麗な服に着替えたというのに。
どうしてこの魔族は――
「なあ、ヘッセニア」
「何よ、ウィリアム」
「……何だって君は白衣姿なんだ」
――白衣から着替えていないのか。
しかも薄汚れた白衣だ。
きっと爆薬作りで汚れた手を、横着にも白衣で拭ったためだろう。
ところどころ黒ずみが見られた。
息を呑む気配が伝わる。
アリスとアンジェリカのものだ。
彼女たちも今のヘッセニアの格好に仰天しているらしい。
「だって、今日行くのパブでしょ? 仰々しいドレスコードなんか存在しないんだしぃ。別にこれでもいいかなー、と。着替えるのめんどくさいし」
「いや、まあ、確かにそうかもしれないけど。でもいくら何でもその格好はまずい」
「どうしてよ。確かに汚れはあるけど、出禁食らうよな汚なさじゃないよ。まだ。出禁食らった時はもっと汚かったから、これはまだまだセーフ」
「何が恐ろしいというとな。君が出禁食らうような酷い格好で飲食店行った経験があるってことだよ」
……一緒に日常生活を送るようになってわかったことがある。
それはヘッセニア・アルッフテルという人間は、とんでもなくものぐさであるということだ。
趣味の爆発と爆薬の研究に没頭すると、部屋から一切出てこなくなる。
風呂はおろか食事すら取らなくなるほどだ。
故に今の彼女に対して、俺は一つの懸念を抱いていた。
アリスも同じ事を思っていたのか。
そっとヘッセニアの下へと歩み寄った。
「ヘッセニア。一つ聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「……君、最後に風呂入ったのはいつだ?」
「失礼ね。昨日はきちんと入ったよ」
「昨日は、なんだな……」
口ではなんとでも言える。
果たしてそれが本当かどうか。
それを確かめるためにアリスを見る。
「ヘッセニアさんの言っていることは本当のようです。その……そういう臭いがしませんから」
「あっ! そんなこと確かめるために、ウィリアムの傍から離れて私のところに来たんだな! ひどい! いつそんな悪い娘になったんだ!」
アリスが移動した目的を知り、例によって両腕を振り回しながら抗議の声をヘッセニアはあげた。
そんな彼女はひとまずおいておくとして、やれやれ、まずは一安心。
取りあえず今の彼女は外出させるに足る状況らしい。
が、俺の安堵とは対照的にアリスの顔は何故か渋い。
言うべきか、言わざるべきか。
それを散々悩む姿を見せた後。
「ですが……その。やはりその白衣は脱いだ方がいいかと」
おずおずとアリスはそう口にした。
「なんでさ! 私にとっての正装とはこの真っ白な白衣だ! 正装で出かけて何が悪いんだ! きちんと礼儀に適っているじゃない!」
それに対してやはりヘッセニアは大反発。
相当着替えるのが面倒くさいのか、今日一番の大声で意味のわからぬ言葉を紡ぐ始末。
「真っ白な白衣って……薄汚れてる……」
「黙れ! 心の目で見るのだ、お嬢ちゃん! この白衣は輝かんばかりに白いだろう!」
ぼそりと小さく呟いたアンジェリカの突っ込みにも過剰に反応するヘッセニア。
故郷の言語をぽろりと出してしまうあたりから察するに、結構興奮しているらしい。
なんというか、その姿はあまりにもみっともない。
「その……非常に言いにくいのですが」
控え目ながら、興奮したヘッセニアに冷や水を浴びせかけるタイミングでアリスが話す。
そして一度言葉を句切る。
次に来る言葉を強調するために。
「火薬の原料の……その、硫黄の臭いが。白衣に染み付いていて……多分今回も出入り禁止にされるかと」
その言葉を受けて俺が動く。
とても情けないことに、強化魔法を用いながら。
その目的も同じくらいに情けない。
まさかこんな目的のために、強化魔法を使うことになるとは思わなかった。
ヘッセニアをただただ捕獲するために使いたくはなかった。
こんな暴漢みたいな目的のために、強化魔法は使いたくなかった。
無理にでも白衣は屋敷においていかねばならない。
だって、そうだろう?
戦友が折角好意で招待してくれたのに。
腐った卵の臭いを漂わせる奴を店の中に入れるなんて、営業妨害もいいところなのだから。