第二章 十八話 本性と胃痛の予感
ここしばらくは本当に晴天に恵まれている。
青空に浮雲、そして柔らかい日差しと絵に描いたような穏やかな昼下がり。
こんな日はのんびりゆったりと時の流れに身を任せるのが、一番贅沢な時間の使い方ではないだろうか。
思い立ったらすぐ実行。
そんなわけで只今俺は丘の下の小川で釣り竿を握っていた。
ブリキのバケツの中にはまだ魚は入っていない。
が、今日に限って言えば、別に釣果がなくてもまったく構わなかった。
ここ数日久々に慌ただしい時間を送っていた。
そのせいだろうか、ちょっと疲れ気味でもあった。
心は確実に静かな時間を欲しているのだ。
この生活が始まった当初は暇をどう潰すかを必死に考えていたのに、いざその暇が潰れるとなると、途端に疲労を覚えてしまうとは。
戦時中とは比べものにならないくらいの、あんな小さな騒動にもあっぷあっぷになってしまうあたり、俺は確実にこの穏やかな生活に順応しつつあるようであった。
怠けが過ぎる生活とも言えるかもしれない。
こんな生活を続けていたのならば、十二才のときから培ってきた身体の動かし方を忘れてしまうのでは、という危惧はある。
ダラダラ日々を無為に過ごしていいのだろうか、という思いは確かにあるのだ。
が、それと同時にやっと戦争のにおいを忘れつつあっていいではないか、とプラスに捕らえる心も俺の胸にまた存在していた。
十二から二十二まで戦争に奪われた穏やかな時間を、ここに来てようやく取り戻している感もある。
十年の間出来なかったことを今、すべきであるとも思っていた。
その一つの例が、今まさに俺がしている釣りだ。
釣り自体は戦時中もやっていたのだが、それはあくまで食料調達という実利的な目的でしかやってこなかった。
ただ時間を潰すための釣りなんてのやってこなかった。
なにせ戦時中はぼうと時間を過ごすだけで、それが死因となりかねなかったのだ。
そう考えると、今やっていることが、如何に贅沢なことであるかが解るだろう。
「へえ。中々良いところに住んでいるのね」
小川の水音、そよ風が生む優しい葉擦れの音に混じって、一人の女性の声が聞こえてきた。
視線をきらきら光る水面から声の方に向けてみると、そこには灰色の髪を持つ戦友がいた。
ヘッセニアである。
「なんたって元は貴族のカントリーハウスだからね。いい場所に決まってるさ。空き家とはいえ、こんなところを都合してくれた殿下には頭が上がらないよ。それはそうと解放されたんだ」
爆発騒動を引き起こしたことと、牢からの脱走を実行したことで、生体兵器を討伐した後も彼女は守備隊に拘束されたいたはずだ。
それがこうして外に出られているということは、既に拘留は終えたとみるべきだろう。
「ん。まあね。やっぱりノーブルなお人とのコネは持つべきね。クロードに一働きさせて勅令をもぎ取って貰ったら、一発で自由の身よ」
どうやら彼女が牢から出されたのは王女殿下の鶴の一声によるものらしい。
戦友が解放されるのは本来は喜ばしいことではある。
が、今回に関しては素直に喜べない事情もあった。
「……クロード。また胃痛が酷くなりそうだ」
乙種騒ぎの時に俺の拘束解除の勅令を取り付けたのもクロードであった。
ゾクリュ守備隊からすれば、既に一発横槍を入れられている形である。
そうであるのに、またしてもこうして王族の意向が横から飛んできたのだ。
ゾクリュ守備隊からすればまったく面白くないことが二回も続いことになる。
それだけにクロードのゾクリュでの居心地が悪くなりそうである。
場合によっては、また謝罪行脚に出る必要もあろう。
戦後になったというのに、またしても神経を使う仕事をせざるを得なくなってしまったクロードに心から同情する。
「ま、クロードは胃痛には慣れているから、そこまで心配しなくて良いでしょ。それはそうとウィリアム」
「ん?」
「ありがとう。君のお陰で楽にカタを付けることが出来た」
「ん」
非情にもクロードの胃壁の危急をとあっさり流して、何を話すと思えば、だ。
彼女は謝意を露わにした。
何に対してとは今更聞き返すことはあるまい。
彼女の宿命を完遂する、その手伝いをしことに対する礼だ。
しかし、こうして戦友に面と向かって感謝の念を伝えられると、何だかこそばゆいものである。
お陰で気の利いたことを言えず、言葉ともうなり声とも取れぬ奇妙な音を喉から出してしまった。
「でも、最後の吶喊だけは頂けなかった。あれのお陰できちんと討伐できたから、私が文句言うのもおかしいけどさ。あんなことやってると、その内アリスに首輪させられて、鎖で繋がれて徹底管理されちゃうよ?」
「ん。確かに最後のアレはちょっと無茶したなあ。ま、アリスに鎖で繋がれるのも悪くなさそうだけど」
アリスが俺に首輪と鎖……ねえ。
中々良い冗談を口にしてくれる。
彼女のジョークにケラケラと笑いながらそう答えた。
「いやあ……冗談じゃないんだけどなあ……まあ、いいや。それよりもウィリアム」
どうにも先の言葉は本気の言葉であったらしい。
釈然としない様子を見せつつも、これ以上話題を引っ張ることに無駄を感じたか。
彼女はおもむろに話題を変えてきた。
「釣果が随分と寂しいじゃない」
バケツの中を覗き込みながらヘッセニアはそう言った。
中には川から汲んだ水が入っているだけで、魚は影も形も見当たらない。
「いやあ、これでいいんだ。暇を潰してるだけなんだから。ま、釣れることに越したことはないけどさ。時の流れに身を任せるってのも、中々いいものなんでね」
「ふうん。ねえ、手伝ってあげようか」
「うん? 手伝うたって。残念ながら一本しか竿がなくて……」
「いや、いい。竿なんて必要ない。私にはね」
はて、竿もなくてどうやって魚を捕らえようというのだ。
まさかカワセミみたいに、直接川に潜って捕まえるつもりなのか。
どうするつもりなのだろう、と怪しんでいる俺を尻目に、ヘッセニアはポケットから小石のような何かを取り出して。
水面に向けてぽんと軽く放り投げた。
水音が鳴って、水面に波紋を生んで。
そして投げ入れた何かは静かに水底へ沈んでいく。
「なあ、ヘッセ……ニア?」
一体、何を投げ入れたのだろう。
それを聞こうと、彼女の顔を見て問おうとするも――
しかし、質問は口から飛び出ることはなかった。
それは何故か。
答えは簡単。
今、戦友が浮かべている表情があまりに不穏なものであったからだ。
一見すれば穏やかに笑っているようである。
が、それはあくまで口元を見た場合の話。
目を見てみると、彼女が微笑んでいるとは口が裂けても言えなくなるはずだ。
肝心要のその目であるが、何だかとてもイっちゃってらっしゃる。
極めてマッドな光を湛えてらっしゃる。
ま、まさか。
今投げ入れたのって。
「さん。に。いち……」
にわかにカウントダウンを開始するヘッセニア。
右手を高く上げて薬指、中指、人指し指の三つを突き立てている。
声に合わせて、三本指、二本指、一本指、と突き立てる指を減らしていって。
平行して、指を折る度にどんどん目に宿る狂気は増していって。
そしてゼロになる瞬間。
残った人差し指で水面に指すと。
「どかーん!!!!」
ヘッセニアは子供っぽい歓声を上げた。
同時ににわかに水面が膨れ上がった。
やかましい爆発音と共に。
水柱が生まれる。
巻き上げられた川の水が、重力に従って地面に落ちゆく。
大雨のような勢いで辺りを濡らしていく。
当然、俺とヘッセニアも巻き込んで。
「良い爆発……ああ、これよ、これ。爆発はやっぱこうでなくちゃ。くっそ真面目に爆発を手段として使うんじゃなくて、爆発起こすことを楽しむべきよ。娯楽として」
やはり投げ入れたアレは彼女が定着魔法で産み出した小型爆弾であったらしい。
びしょびしょになりながらも、ヘッセニアは恍惚の表情で嘯いた。
ああ、いい爆発であった、と。
狂気と屈託のなさを両立したとんでもない笑顔でげらげら笑う。
そんな彼女を見て俺は戸惑う。
おかしい。
今のヘッセニアはまるっきり、戦時中に見た、俺にとってはお馴染みのヘッセニアだ。
ここ最近の宿命の達成にすべてをかけた、シリアスなヘッセニアはどこに行ったのだろうか。
あのシリアスなヘッセニアが彼女の本性ではなかったのか。
そう判断していただけに、俺の混乱はそれなりに強いものであった。
まさか……
まさかと思うが、ヘッセニアの本性とは。
あのシリアスな姿じゃなくて。
「あ、あの? ヘッセニア? 君が爆発に拘泥していたのって、あの兵器を倒すからなんじゃ? もう爆発にこだわる理由はないんじゃ?」
「うん。爆発を研究しだしたその切っ掛けはまさしくそれ。でも、爆発を愛ではじめた理由はそうじゃなくって。単純に爆発の豪快さに魅せられたわけで。つまり宿命を達成したからって、爆発を追求するのをやめる必要はないってわけ。趣味は別腹ってやつ」
……なんということだろう。
先日の俺の判断は、ただの見誤りであったようだ。
どうにもヘッセニアはこっちが素であるらしい。
「これからは重苦しい宿命から解放されたわけで! 思う存分、私の琴線に触れる爆発を追い求めれるわけ! この場所でね!」
爆弾魔だ。
ここに爆弾魔が居る。
それもさらりと爆破宣言を公表するあたり、大分頭がイってしまっている爆弾魔だ。
こんな危ない奴が近くに居るなんて、ゾクリュに住む人々はなんと運がない――
……って、ちょっと待て。
今、ヘッセニアは何て言った?
大胆な爆破宣言の後に何を言った?
俺の耳が確かなら、爆破宣言よりも、もっととんでもない爆弾発言をしなかったか?
もしかしたら聞き間違いかも知れない。
だから本人に聞いてみよう。
是非とも聞き間違いであって欲しいが、果たして。
「……おい。今なんて言った? この場所で爆発を追求するって? それって……ま、まさか」
「そのまさかよ! 解放されるついでにね、君の屋敷にしばらく厄介になる許可を得たんだ!」
誠に残念なことに聞き間違いではなかったようだ。
流刑の俺にさらなる同居人を認めるという狂った許可が、何を間違えたか下りてしまっているらしい。
一体どこのどいつがそんな狂った判断をしやがったのか。
「誰の許可よ、それ……? ああ、うん。クロード? でもここは俺の軟禁場所でもあるわけで。高度な政治判断を得ないで同居人が増えるのはマズくて。流石に大尉程度の権限じゃ……」
「心配ご無用! きちんと殿下から頂いたわ! はい、これ勅令書! いやあ、ロイヤルパワーって素晴らしいね! 多少の無理はねじ伏せられるから!」
しかもさらに残念なことに、横紙破りが趣味な例のあの人が下した判断らしい。
これが証拠だぞ、と、彼女は懐から自慢げに勅令書を俺に突き出してきた。
急な水中爆発以来、離すタイミングを失っていた竿からようやく手を離す。
勅令書が入った封筒を受け取る。
王室御用紙特有の上質な手触り。
ああ、畜生。
どうにもこの勅令書も本物であるらしい。
あんまりな現実に思わず頭を抱えてしまった。
だって、そうだろう?
分隊一のトラブルメーカーと、何を間違ってか同じ屋根の下で暮らす羽目になってしまったのだから。
何かとやかましい日常になるのは目に見えていた。
しかも戦場を彷彿させる爆発音付きで。
なんたる悲劇だろうか。
「その魚は私からのプレゼントよ! そうね、敷金として受け取って頂戴! 家主様! うわっはっはっはっ!」
爆発による振動で失神してしまい、次々と水面に浮かび上がる魚たち。
そんな彼らを指さして、これが敷金だと胸を張って宣う爆発魔。
この小川で穏やかに生きてきたのに、突然の爆発により魚生を滅茶苦茶にされてしまった哀れな魚たち。
今後しょっちゅう起こりそうな、ヘッセニアの爆発騒ぎに日常を荒らされる俺の未来を見ているようだ。
ぷかぷか浮かぶ彼らを直視できなかった。
「ウィリアムさん? こ、この騒ぎは一体……?」
突然の爆発音を聞いてだろう。
慌てた様子で丘の上からアリスが駆け下りてきた。
「ああ……アリス」
そんな彼女に目を向けて呟く。
半ば助けを求めるような声色で。
今の俺の顔付きはとても情けないものであろう。
だが、そうなっても仕方が無いだろう。
家主ということで奴がなにかしでかしたとき、保護者代わりに街に呼ばれるかもしれないのだ。
そんなことが頻発してしまったのならば。
「……俺、もしかしたらクロードみたいに胃が痛くなるかも知れない」
クロードみたいに胃薬と友達となってしまう未来がきっと待っているだろう。
そんな未来は断固として拒否したいというのに、だ。
俺の心持ちとは正反対に穏やかな空が広がる。
ついでに空高くヘッセニアの笑い声が響く。
多分、この場で心の底から楽しんでいるのは彼女だけであろうと俺は確信していた。