第二章 十一話 彼女の覚悟
街は夜半にも関わらず、道を見失うことがないほどに明るかった。
街灯として設置された、ガス灯のお陰だ。
そのため街の外とは違い、俺を乗せた馬車はすいすいと軽快に前に進んでいく。
ゾクリュと同じくガス灯のある街の、王都ではこうはいくまい。
工場の蒸気機関の蒸気が、それらが夜更けの闇に冷やされ、月明かりを拒むまでの濃霧となって、人々の視界を奪うからだ。
よって、前方をより注視して前に進まざるを得なくなる。
速度を犠牲にすることが強要されるのだ。
「人口の違いもあるだろうけど。でも、ゾクリュの方が王都よりも犯罪率が低いってのも納得するな。ここまで明るいと泥棒も動き辛いだろうから」
そんな俺の独り言に答える声も、また頷く気配すらない。
当然だ。
このクーペに乗るのは御者席に居る守備隊員と、ベンチシートに座る俺しか居ないのだから。
今、俺は守備隊の隊舎に急行していた。
夜中にも関わらずに、だ。
こうなるのに至った全ての始まりは、屋敷が寝静まってしばらく経ってのことだった。
本当に突然屋敷の扉が叩き鳴らされたのだ。
文字通りに叩き起こされた俺たちであったが、寝ぼけ眼に浮かべていた思いは、全員同じものであった。
こんな夜更けに、来客なんてはて奇妙な――
というものだ。
しかもその扉の叩きたるや、尋常なものではない。
乱雑で、力任せ。
如何にも切迫した事情を抱いているのが、容易に窺わせるほどのもの。
無視するのもまずかろうし、押し入り泥棒の可能性も否定出来ず、迂闊に扉を開けるのも考え物。
そういった判断の下、仮に強盗だとしても、腕力で押し返せる俺が扉をあけることとなった。
が、結論から言えば、扉を必死に叩いていたのは強盗ではなかった。
ゾクリュの守備隊員であった。
彼は血相を変えて、焦りを存分ににじませた早口で、こう告げたのだった。
「よ、夜更けに大変失礼しますっ。ウィリアム・スウィンバーンさん。大佐がお呼びです。ご同行お願いします。ヘッセニア・アルッフテル氏が逃げ出しましたっ」
と。
はじめはまさかと思った。
あの日、フィリップス大佐にヘッセニアは目的のためなら、脱走を厭わない人間だと確かに俺は言った。
が、クロードの的確な進言によって、簡単に逃げ出すことが出来なくなったはずだった。
だから寝ぼけが原因で何か別のことを、彼女が逃げ出したと聞き間違えてしまったのかと思った。
だが、振り返ってアリスの顔を見れば、それが俺の聞き間違いではないことを知った。
アリスの顔は驚きを隠せないものであったのだ。
彼女の顔は不言に語っていた。
そんなまさか、と。
俺と全く同じ感想を抱いていたのだ。
ヘッセニアが逃げ出した。
それが間違いのない事実だと知った俺は、アリスに屋敷を任せて馬車に乗り込んだのであった。
「まったく、本当にアイツは……何やってるんだか」
ヘッセニアが捕まってより、数え切れないほど呟いた台詞を、今一度吐く。
勿論、その言葉に返す声はない。
そうと知りつつも彼女の破天荒な振る舞いには、呆れに満ちた独り言を呟かざるを得ない。
ぐぐぐ、と静かに前に押し出されるような感覚がした。
馬車が減速を始めたのだ。
がたがたと夜更けに相応しくない騒音そのものな、車輪の音も徐々に徐々に小さくなり。
そして、馬車はぴたりと止まった。
到着。
御者席の彼が扉を開けるのを待たずして下車。
出迎えの兵に促されながら、レンガ作りで質実剛健を地で行く隊舎へと歩みを進めた。
行き先は俺が、そしてヘッセニアが捕らえられていたあの牢だ。
そこに大佐が居るらしい。
脱走発生という緊急事態だけあって、夜中にも関わらず兵舎には慌ただしさが充満していた。
彼女の捜索状況を問う声、どこそこの地区は空振りに終わったという報告の声。
緊張感と焦りに満ちた声が、そこかしこから聞こえてきた。
「ウィリアム」
途中、クロードが呼び止めてくる。
彼も寝入っている中、突然叩き起こされてここまでやって来たのだろう。
髪の毛が整いきれてなくて、彼のいつもの癖っ毛とは別の癖にが所々見られた。
「クロードか。その様子を見ると……」
「ああ、今来たところだ。ウィリアムは……」
「うん。俺もついさっき。だから、詳しい話をまだ聞いてない。営倉にフィリップス大佐が居るそうだから、話を聞きに行くところだ」
「ああ。そいつはツイてる。丁度良かった。俺も大佐を探していたところだったんだ。一緒に行こう」
ほっと安堵の息をクロードは吐いて、大佐が待つ牢へと歩み出した。
大佐の居場所をクロードに伝達出来ていないところを見るに、今のゾクリュ守備隊は相当混乱しているらしい。
報告の声以外に、恐らく下士官のものだろう。時折怒号が耳に届いてくる。
どうにも、不手際が連発しているらしい。
戦場経験のない兵らがばかりである故に、こうした異常事態への対応能力がいまいちとなっているようだ。
「……こういうの見ると、もうちっとベテランの割り振り。考えた方がいいな、こりゃ。先日の乙種騒動もそうだが、守備隊が満足に対応出来ねえのはマズいことこの上ない」
「確かに。理想は内地と旧陥落地、同程度に割り振れれば万歳だけど……その辺りの人員は充足してるのか? 今の軍は」
「実のところ足りてない。あんな戦争の後なんだ。もう二度と軍隊生活はごめんだって、かなりの数が退役しちまっている。今、軍はそんな連中で特に軍歴が長かった者たちに、復帰してくれと頭を下げているところだ」
「退役した人間としては耳の痛い話だ。残ってる人間でどうにかやりくり出来ないのか?」
「それも難しいな。旧陥落地に派遣しているベテランは、ほとんどがその地が郷里だ。故郷の復興のために派遣されているから、軍に残っているに過ぎん。そんな連中を無理に動かせば、退役されちまうよ」
「そうか……ままならないな」
「まったくだよ」
隣国の共和国の様に、国土の全てを邪神に制圧されずに済み、比較的穏やかな戦後を送れいる王国とて、戦後期お決まりの混乱と無縁ではなかった。
今、クロードが話してくれた退役問題と、軍人の質が配属地によって著しく偏りを見せている問題がそれだ。
ただでさえ未曾有の大戦争を経験し、厭戦感情が極めて強くなった影響で退役者が続出して人手不足なのだ。
地元を復興させる力になれるのならば、と思って軍に残っている者まで退役されてしまったら、軍が機能不全を起こしかねない。
故に、そういった思いを抱いた歴戦の者を辞めさせないためにも、軍はどうしてもベテランを旧陥落地に重点的に置かざるを得なくなってしまったのだ。
邪神に侵攻されなかった土地、即ち内地なら、未だに活動を続ける突然変異型が出現する可能性は極めて低い。
ならば、ある程度なら質を偏らせても、問題あるまい。
軍にはそのような算段があったのだろう。
しかし、その判断のお陰で貧乏くじを引く羽目となった土地が存在する。
「つくづく運がないな。このゾクリュは」
「ああ」
半ば独り言めいた俺の呟きに、クロードは頷く。
そう、その割を食った土地とはつまりはここ、ゾクリュだ。
内地か旧陥落地か。
ゾクリュはその二つに分類することが出来ない。
その性質こそが、貧乏くじを引く羽目となった最大の原因なのだ。
まず、ゾクリュを内地と呼ぶことは出来ない。
かつてこの地が何度も戦場になったからだ。
幾度もこの地は侵攻を受けている。
かと言えば、旧陥落地でもない。
いわゆるゾクリュの奇蹟から、戦争が終結する最後の瞬間まで、この地は軍事基地としての機能を保持し続けた。
危機的状況に何度も陥るも、その都度逆境を跳ね返し、一度たりともこの地は邪神の手に落ちることはなかったのだ。
ここを内地としてしまうと、ゾクリュの近所にある陥落地の復興支援が、内地に近いからとの理由で、後回しにされてしまう。
とはいえ旧陥落地としまえば、他の落とされた土地と比べて、あまりにも被害が小さすぎることが問題となる。
限りある支援の割り振りを巡って、争いになりかねない。
他に手を差し伸べるべき地があるだろうと、茶々を入れられるのだ。
故にゾクリュに対する国の支援は、他の土地との兼ね合いを鑑みなければならなくなる。
時には内地扱い、時には旧陥落地扱いと、その都度ころころ変わる不安定なものにならざるを得ないのだ。
そして、守備隊のフレッシュな空気を見る限りでは、どうにも兵員の割り振りでは前者と見なされているようである。
前回といい、今回といい、軍のその判断は完全に裏目に出たと言ってもいい。
これを貧乏くじと言わずして、何を言えばいいのか。
「まあ、一番運がないのはここの責任者やってる、フィリップス大佐だろうぜ」
「違いない」
ため息と共に出てきたクロードの言に、心からの同意を示す。
本人の失態であろうとなかろうと、こういった場合、責任者というものは、何らかの形で責任を取るのが仕事であるからだ。
特にクロードは不祥事の報告を幾度となくこなしてきただけに、今の大佐の心模様が、容易に想像出来ていることだろう。
そう話している最中も休まずに歩みを進める。
やがて、数日前に訪れたばかりの、営倉へとたどり着いた。
きっと、この場もそれなりに騒がしいだろうと踏んでいたのだが、意に反して静かである。
営倉に居るのが、フィリップス大佐一人だけだからだろう。
この様子から察するに、どうやら大雑把な調査は終えているようである。
「大佐。スウィンバーン氏と……プリムローズ大尉をお連れしました」
「うん。ご苦労さん。じゃ、戻っていいよ」
案内をしてくれた彼は、敬礼を捧げるや、そそくさと退散。
かくして営倉には、大佐とクロードと俺の三人だけとなった。
ふう、と小さなため息の後に、大佐の目が俺らに向く。
流石にいつものお気楽な様子は鳴りを潜め、少しばかり険しい目つきであった。
「いやあ、大尉、ウィリアムさん。どうにも僕ら、ヘッセニアさんの覚悟の程を見誤っていたようです」
「と、言いますと?」
「まず、見て下さい。この格子を」
俺の問いに大佐はまず指し示したのは、外界と牢屋を仕切る鉄格子だ。
本来であれば鉄棒は、人が通れない間隔で床から天井まで伸びているはず。
が、目の前にあるそれは、幾つかは切断され、人があっさりとすり抜けられる程度の隙間が生まれてしまっていた。
「手に取っても?」
「どうぞ」
許可を得てから、切断され、床に転がっていた鉄棒を手に取る。
断面を見る。
綺麗な断面であった。
まるで、初めから手に取れるサイズの鉄棒として、拵えられたかのように。
強引に断ち切ったとか、熱で焼き切ったのならばこうはなるまい。
十中八九これは。
「魔道具でなければこうは出来きないが……」
「奴は一体何に定着魔法を使ったんだ? 牢には魔法をかけられる物はなかったはずだ。ウィリアム、見当着くか?」
「いや、さっぱり」
「それらしきものは既に回収してあります。こいつです」
二人揃って首を傾げていると、大佐が静かに手のひらを差しだしてきた。
何かを手のひらに乗せている。
俺とクロードはその何かを見て。
「……っ」
ほとんど同時に息を呑んだ。
そして、遅まきながら同意した。
ヘッセニアの覚悟を見誤っていた――
先ほど大佐が口にしていた言葉に。
フィリップス大佐の手のひらにあったもの。
それは。
「……爪。ですか。親指の」
「ええ。どうにも彼女、自分の爪を自らの手で引っこ抜いたみたいで。自分の手を摑むくらいの自由は与えてましたから、後ろ手のまま引き抜いたのでしょう」
それは爪だ。
かなり強引に引き剥がしたのだろう。
スコップの歯に似た形のそれには、彼女の皮膚と、少しの肉が今も生々しくへばりついている。
拷問の一種として成立しただけあって、爪剥ぎは大変な苦痛を伴う。
それも自らの意思で剥がすとなれば、相当の勇気が居ることだろう。
想像を絶する痛みと恐怖。
彼女が胸の内に抱いていた宿命に対する覚悟は、それすら超越するほどに強烈なものであったのだ。
「しかし、看守はどうしたのです? 仮に爪をバレずに引き抜き、定着魔法を施せたとしても、格子を切断するなんて大作業は、どうやっても看守の目に着くはずです」
「それが……居眠りした隙にやられたみたいで。職務怠慢。なんとも情けない……と見れば簡単なんだけど、それはそれで、とても奇妙な点があるんだよね」
「奇妙、でありますか?」
「うん。一日中彼女を見張ってたのなら兎も角、居眠りしてしまうその直前に、引き継ぎしたばかりなんだよ。仕事を受け渡した方の話を聞くに、睡眠はきちんと取れた風で、とても居眠りするとは思えなかったらしくてね」
この営倉に収監されていたから、少なくとも看守の役を担っていた兵達は皆優秀であったことを、俺は身をもって知っている。
だから彼らが勤務中に居眠りをするとは、到底思えなかった。
だがもし、その居眠りに彼らとは全く無関係な原因があるとすれば。
それは十中八九ヘッセニアの仕業だろう。
そうであるならば、何か痕跡があるかもしれない。
俺はヘッセニアが入っていた牢に足を踏み入れ、隅から隅まで見て回る。
タイルの溝、採光窓の鉄格子、とても粗末な筆記机――
そして石のようにガチガチなベッドの下を覗き込んだとき、俺は異物を見つけた。
「これは?」
異物を手に取る。
正体を知って、またしても少し顔をしかめる。
またしても爪だ。
大きさから考えて人差し指の。
しかし今度見つけた、それは先ほど大佐の手中にあったものと比して、大きさ以外にも特筆すべき特徴があった。
指に張り付いていた面に、皮膚や肉とは別の黒い何かがべったり付着していたのである。
指で触ってみると、その黒い物体はあっさりぼろぼろと崩れた。
焦げカスのようだ。
何かを焼いたのか。
が、当然牢の内には、何かを焦がすまでの熱源などない。
そしてわざわざ燃えカスは剥がした爪の上にあった。
燃えカスとは対照的に爪は一切焦げていない。
と、なると。
「もしかして」
ヘッセニアの爪を床に置く。
自分の爪の先をかみ切る。
小さな爪の切れ端を、彼女の爪の上に置いてみる。
しばらくすると、焦げたにおいが鼻につく。
手をヘッセニアの爪にかざしてみると、強い熱気を感じた。
目を瞑ってしまえば焚き火に手をかざしている感覚すら覚える。
新たに見つけた爪にも、やはり定着魔法が施されているようであった。
そして俺の爪を乗せた時、発熱を始めたということは。
あの焦げカスの正体は――
「恐らく……これががその居眠りの原因でしょう」
多分謎は解けたと、そのままの姿勢で二人に語りかける。
牢の外で話していた二人が、こちらに来たころには、俺の爪は茶色く変色し始めていた。
「焦げ臭いですね。それは発熱してるのですか?」
「ええ、私の爪の切れ端を置いたら、発熱が始まりました。その茶色い小さいやつは、私の爪です。そして真っ黒いのは――」
「……ヘッセニアのか」
低く抑えた声でクロードが呟く。
その呟きに静かに頷いて答えた。
「ヘッセニアは剥がした爪の三つに、それぞれ別々の定着魔法を施したんでしょう。一つは鉄さえも切れてしまう鋭利な刃物に、もう一つは爪を乗せると発熱する熱源に。そして最後の一つは……これは状況からの推測ですが……熱を受けると、催眠性のガスの生む出す道具に変えたのでしょう。当然、ヘッセニア本人には効かないようにして」
「つまりウチの看守は眠らされてしまったのだ、と? 眠らされている隙に鉄格子を始末したのだと?」
「ええ。恐らくは」
爪を自らの手で、三つも剥がす。
極めて大きな苦痛に見舞われようとも、それすら甘んじて脱走を達成したヘッセニア。
狂気染みた彼女の覚悟の強さを知ってしまい、俺達三人は揃って押し黙ってしまった。
元々軽くはなかった空気も、一層重々しいものとなる。
それを嫌ったのだろう。
一度わざとらしい咳払いをした後、クロードは口を開いた。
「……それにしても、昨日までは大人しく捕まっていたのに。何だって急に奴は脱走なんか企てやがったのか」
「その切欠については……恥ずかしい話なんだけど、ウチの練度不足が招いたことっぽくてて。実は昨日、あの写真の足跡の主を見つけたんだ。ソフィーちゃんがね。で、隊舎全体が浮ついた空気になって……」
「……その際に漏れてしまったんですか。ヘッセニアにその情報が」
「恐らく」
ヘッセニアにあの巨大な足跡の主を見つけたことを、知られてしまった。
彼女が脱走したのはその直後のこと。
間違いなく逃げ出した原因は、あの足跡の主が健在であったことであろう。
今度こそトドメを刺すために逃げたのだ。
ふと、面会したときのヘッセニアの顔が脳裏をよぎった。
その時の彼女の目を思い出した。
絶対に宿命を成してやろう。どの様な手段を用いても――
あの時のアイツの目は、見る者にそう感じさせるを得ない、強い意志の光を湛えたものであった。
もし、彼女が手段を選ばないのであれば。
宿命を果たすために、一人でこっそりと抜け出したのであれば。
彼女がだんまりとしていた理由が、(爆発を起こした時点で迷惑であるが)他人に迷惑をかけまいとするのであれば。
恐らく彼女は、ロクでもない手段をとるはずだ。
ヘッセニアの知り合いを、そして戦友を不幸に叩き落とす、そんなまずい手段を。
「……フィリップス大佐」
「何でしょうか。ウィリアムさん」
それは懸案事項だ。
だから、いち早くヘッセニアを見つけなければならない。
「馬車か、あるいはオートモービルでも何でもいい。出せませんか? 今すぐに、その現場に急行したいのです」
それも急いで対処しなければならない。
極めて喫緊なもの。
頼み込むその声に焦りが混じっていたからだろう。
大佐も、クロードも何処か訝しむ視線で俺を眺めていた。




