第一章 二話 穏やかな日々
目を開けたというのに、目の前は一切の光のない暗闇だった。
これはどういうことか?
一瞬混乱するも遅れてやってきた古い紙のにおいで、委細を知る。
どうやら俺は読書の途中、うたた寝をしていたらしい。
顔に被さった古書を外して、寝そべっていたソファから上体を起こす。
もうすっかりお馴染みとなった、俺の幽閉場所である屋敷の広間。
俺が寝入ってしまったのはそこであった。
「にしても。良い夢とは……言えなかったなあ。まったく」
自分の追放が決まった瞬間。
そいつを夢でまた見るなんて、悪夢もいいところだろう。
だから気分は良くなかった。
沈んでいた。
頬にべたべたしたものがへばりついている。
それから察するにどうにも俺は、眠りながら泣いていたようだ。
「割り切ったつもりではあるけれど。やっぱ無意識では気にしてたんだなあ。俺」
袖口で涙の跡を拭ってぽつりと独りごちる。
まあ、泣くのも無理もないことかもしれない。
傍から見れば、俺は命を捧げた国に裏切られたことになる。
理性では仕方がない、と割り切っていたつもりであった。
が、やはり納得しかねる感情も、心のどこかにはあったのか。
だからこうして、寝ている最中に涙を流してしまったのだろう。
けれども、くどいようだが、やはり俺は国や王への恨みは抱いていなかった。
むしろ最近では、流罪されたことに感謝すら抱くようになっていた。
政治的に俺に近づきたいと思っていた連中は、ここには来ない。
だから政治に巻き込まれる心配がない。
裁かれる前を思い出す。
あの頃はごますり上手な政治屋どもが、自宅に代わる代わる押し入ってきた。
プライベートな時間を、そんな連中のために浪費する日々であった。
だが今はどうか。
やつらはとんと来なくなったではないか。
確かに今の生活は少しの不自由はある。
けれども、政治的に死んだおかげで、穏やかな日々を過ごせるようになっていた。
質のいい毎日が送れている、と換言してもいいだろう。
そしてなによりも――
「ただいま戻りました。あら、ウィリアムさん。お昼寝していたのですか?」
ドアから声が聞こえた。女性の声。
目を寄越すとそこには紙袋を抱えた、買い物帰りのメイド服の女性が立っていた。
金髪のまとめ髪の、飛び切り美人なメイドさんがそこに居た。
そう、メイドさん。
しかも上流家庭で働いているような、あのメイドさん。
彼女の名前はアリス・クーパー。
俺の同居人。
服装通り、正真正銘のメイドであった。
こんなナリをしているが、侮ることなかれ。
彼女もまた、俺の戦友だった。
付き合いが古く、その上、最後の戦いまで一緒に戦った俺にとって特別な戦友だった。
流罪だというのに、メイドを侍らすのは何事か。
生真面目な人間が見ればそう追及するかもしれない。
もちろん、俺とてそれは同意見。
彼女がただのメイドであったのならば、俺は断固として共に生活することなどしなかった。
アリスと一緒に生活しているのは、元上司の最後の気遣いがあってのことだ。
せめて俺には気心の知れた者と過ごして欲しい――
元上司はそんな気遣いでもって、彼女をここに寄越したのだ。
そんな元上司の気遣いを無碍にするのも、どうかと思ったし、何よりアリス本人が強くここに居ることを希望してるし。
これはむしろ拒むことが悪だろう。
そう思って彼女との共同生活を認めることにしたのだ。
「うん。どうにもそうらしい。そのつもりは……なかったんだけど」
「……そうですか」
声色から、悪夢を見たことを察したのか。
あるいは拭いきれなかった、涙の跡を見てしまったのか。
アリスはそれ以上なにも聞いてこようとはしてこなかった。
その気遣いがありがたかった。
やっぱり、男が泣いたという事実を自分の口から語るというのは、なんだかみっともない気がするから。
そして、彼女との間に生まれた気まずい空気を払拭するためだろう。
紙袋をテーブルに置いたアリスは、綺麗な笑顔を俺に向けてくれた。
「それはそうと、ウィリアムさん。見て下さい。お肉屋さんにひき肉、おまけとして多めに貰ったんです。今夜、なにかリクエストありますか? ひき肉を使う料理で」
「そうだな。シェパーズパイが食べたいな」
「また、ですか。お好きなんですね」
「美味しいからね。アリスのは、特に」
「うふふ。お褒めいただき、ありがとうございます。では、張り切ってお作りしますね」
俺の素直の感想に気をよくしたらしい。
アリスは早速鼻歌交じりに、つま先を厨房へと向けた。
足取りも軽く、本当に上機嫌そうだ。
そんな彼女を見ていると先ほどまでの沈んだ気持ちが、嘘のように晴れていった。
本当に彼女には救われている。
だからちょっとした感謝を込めて、一つ彼女を手伝うことにした。
「手伝うよ。ジャガイモ潰すのは大変だろう? それくらいはできるだろうから」
「助かります。男の人の力があると。アレ、結構力仕事なんですよね」
「じゃあ、ジャガイモ潰しは、こっちでやった方がいいかな。二人で厨房に入るのは、流石に狭いだろう?」
言うほど、俺に宛がわれたこの屋敷の厨房は狭くはない。
むしろその逆だった。
元は貴族のカントリーハウスとだけあって、複数人の料理人を収容してもなお、余裕のある立派な厨房がこの屋敷にはある。
それでも狭いからと言って、俺が厨房に入ることを遠慮したのは、ひとえに俺が料理に関しては素人であるからだ。
ずぶの素人が厨房に立ったら、ただ邪魔でしかないはず。
そんな気遣いからの提案だった。
でも、彼女はそんな提案をお気に召さなかったようだ。
上機嫌にニコニコさせていた顔を、急に寂しげなものに変える。
ゆっくりと上目遣いに俺を見る。
「そんなお気遣いはなさらずに、二人一緒で入りましょう。狭くてもいいんです。それがいいんです。だって……」
「だって?」
「一人で入る厨房って、案外寂しいのですよ」
「そうなの?」
「ええ、そうなんです。私、これでも寂しがり屋なんで」
そして、恥ずかしげに彼女は笑った。
その姿は戦場ではあまり見たことのない、とても穏やかで、どこか幸せそうなものだった。
「……そっか。じゃあ、二人でやろうか」
「ええ。二人でやりましょう」
ああ。
ここしばらくは、なんて素晴らしい日々なのだろう。
そう思った。
だってそうだろう?
この愛すべき仲間と一緒に、穏やかな日々を過ごすことは。
本当に。本当に素晴らしい日々であるだから。
御前裁判のときは、俺がこんな穏やか戦後を過ごせるなんて、思ってもみなかった。
俺が死ぬことで、王国に平穏が訪れるだろうと思っていたからだ。
けれども、幸運なことに、俺は生き長らえることができた。
しかも俺が死なずとも、こうして平穏な日々がやってきたのだ。
だから。
こう思うのはとても贅沢なことかもしれないけれど。
(ここで、この地で。彼女と、アリスと。こんなゆったりとした生活を過ごせるのであれば)
それは幸せなことに違いない。
こんな俺にも幸せな生活を送れる資格があるのであれば。
許される限り。
この生活を一秒でも長く過ごしていたい。
心の底から、そう思った。
◇◇◇
戦争があった。
世界のほとんどを焦土と化し、文明を築いた者どもに、絶滅の二文字を連想させるほどに激しい戦争が。
これはそんな戦争が終わった後の。
各々が日常を取り戻していく日々を描いた物語。