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第七章 四十話 ハッピーエンドであるものか

 時の流れがゆっくりになってしまったように感じた。

 そよ風が舞い上げた砂ぼこりは、重力に従ってすぐさま地面へと戻っていくはずなのに、まるで空気のすべてが蜜に変わってしまったのでは、と思うほどに緩慢であった。


 動きがスロウになってしまったのは、そんな取るに足りない塵芥だけではない。

 それよりももっと大きなモノの動きも、とてもゆったりとしたやつになっていた。

 例えば、そう。

 胸に乙種の一撃を受けてしまったエリーとか。


 一目で重症とわかる痛手を負ったために、彼女の身体はぐらりと揺れる。

 仰向けとなって地面へと倒れる。

 やはり世界が蜜に沈んだと思わざるを得ない緩慢な動きだ。

 その動きの緩やかさは、少女の胸から吹き出す血液のしぶき、その一滴一滴を肉眼で確認できるほどであった。


 実際の所、舞い落ちる砂埃の速さとか、倒れるエリーの速度はここまで遅くはあるまい。

 あっという間の出来事なのであろう。

 けれども俺は、こうしてスロウな出来事として知覚している。

 認識と現実との間に乖離が生じてしまっていた。

 その乖離の原因はなにか、と問われたのならば。


 俺はこう答える他にあるまい。

 自覚はまるっきりないけれど。

 大事にしてあるべき、自らの子供が大怪我を負ってしまったから。

 その焦りが主成分の興奮のせいで、頭の回転が暴走してしまったから。


 そう答えるしかあるまい。


「エリー!?」


 胸は一気に早鐘を打つ。

 声を出したのが一つの契機となったのだろう。

 興奮によって鈍化していた時の流れが元に戻った。


 砂埃も、エリーの身体も、血しぶきも。

 さっきまでと比べると、まるで滝のような猛烈な勢いで、重力に引っ張られ地面へと落ちてゆく。


「くそっ!」


 エリーはうしろ向きに倒れ込もうとしている。

 場合によっては、後頭部を強かに打ちかねない。

 胸の傷だけでも一大事なのに、それと並ぶほどの大きな怪我を負いかねない。

 それは防がねば。


 例によって魔力を足に流す。

 脚力を強化する。

 地面を蹴る。

 強烈な加速。

 目を開けることすら難儀するほどの風を耐えて、耐えて、耐えて。

 そしてエリーの背中が、頭が地面に打ち当たるその寸前。

 強化魔法を行使したことが報われ、なんとか衝突寸前で抱きかかえることに成功した。

 その刹那背後で銃声。

 恐らくレミィが、件の乙種を仕留めた音だろう。

 だから二回目の襲撃はきっとない。

 ならば、エリーの傷の応急処置に全神経を集中できる。

 そのためには、彼女を静かに地べたに横たわらせねば。


 俺が無事にエリーを抱き留めたことを認めたのか。

 丁度、ぐったりとしたエリーを寝かせた頃合い、アリスが血相を変え、何度も何度も躓きながらこっちに駆け寄ってきた。


「エリーさん! ウィリアムさん、傷の様子は?!」


「出血が多い! だから今、止血を……ああ、ダメだ! 血が止まらない! これじゃあとても……!」


「そんな……! いいえ、まだ……!」


 シャツの袖をちぎって、即席の包帯を拵えて、止血を試みるも焼け石に水であった。

 いくらきつく圧迫しようとも、血が止まる気配はない。

 貫かれた傷口から真っ赤な体液が滾々と湧き出続け、瞬く間に包帯を真っ赤に染める。

 あっという間にてらてらとした鈍くて、ぬめりけを帯びた光沢をたたえるようになる。


 言うまでもなく、それは彼女が負った傷が深いことを示唆する情報。

 おまけに、彼女の心臓が脈を打つ度に、横たえた地面に広がる血の染みがみるみる大きくなっていく始末。

 大きな動脈か、あるいは心臓にダメージを負ってしまったのかもしれない。

 事態はとても深刻だ。


 焦りはどんどんと強くなる。

 圧迫による止血ができないのなら、次はどうすればいいのか?

 頭の中がどんどんとハレーションを起こしたかのように、真っ白になっていく。


 この状況にて、ちっぽけな幸いがあったとするならば、アリスが俺よりも冷静さを保てていたことだろうか。

 彼女は今の手持ちでは、エリーの傷に対応できないと悟ると、その問題を解決できそうな戦友に助けを求めることにしたようだ。


 落ち着きがまったく欠如した動きで、ぐるり、勢いよく首を回して。

 突然の出来事に呆気をとられたままのヘッセニアに、ほとんど吠えるような勢いで、ヘルプを求めた。


「ヘッセニアさん! 手を! 手を貸して下さい!」


「う、うん! なにをすればいい?!」


「魔道具を! 素材はなんでもいいので! とにかく止血を助けるようなものを!」


「わ、わかった!」


 定着魔法を扱えるヘッセニアならば、俺が作った粗末な包帯よりも、ずっと役立つ物を作ってくれるに違いない。

 アリスはヘッセニアにそんな期待を抱いたようだ。


 俺もアリスから遅れて、ヘッセニアに一縷の望みを託す。

 そうだ、ヘッセニアなら。

 ヘッセニアなら、時間を稼げる道具を作れるはずだ!

 稼げる時間はちょっとだけでいい!

 俺がエリーを担いで、街に居る医者の下へたどり着くまでの、ほんのわずかな間でいい!

 医者に、医者にさえ診せれば、こんな傷なんて――!


 二人分のすがるような思いを受けたヘッセニアが、魔道具の素材として選んだのは、俺とまったく同じものであった。

 すなわち、自らの着衣の袖。

 ヘッセニアの場合だと白衣の袖。

 彼女はそれを一息に引きちぎった。


 そして彼女はほんのわずかな一瞬だけ、ちぎれてぶらぶらと揺れる手中にある袖を睨んだ。

 それは魔法を行使している証なのだろう。

 事実、睨み終えると、慌ただしい足取りで俺たちの下へやってきて、いまや魔道具と化した白衣の袖を、俺の鼻っ面にずいと押しつけてきた。


「できたよ! これを包帯代わりに使えば、かさぶたの役割をして血を止め――ッ……!」


「ありがとう! 巻くだけでいいんだね?!」


 だが、どうしたことだろう。

 なにがあったのだろう。

 ヘッセニアは一度エリーを見ると、うっと息を呑んだ、目も大きく剥いた。

 身体も何故だか硬直してしまったようだ。

 その硬直はヘッセニアの手にも及んでしまったようで、本来ならさっさと俺に手渡すべき魔道具を、彼女はがっちりと摑んだままとなってしまった。


 一体ヘッセニアはなにをしているんだ!

 事態は刻一刻を争うものだというのに!

 俺の焦りはますます強くなる。


「なにをしてるんだ! 悪ふざけをしているような場合じゃ――」


「……ウィリアム」


「離してくれ! そいつを渡してくれ! じゃないと――」


「ウィリアム!」


 俺の怒号に負けないくらいの大声。

 ヘッセニアの大声。

 その声に俺は、言葉を奪われる。

 ほとんど反射的にヘッセニアの顔をじっと眺める。

 ヘッセニアは俺の焦点が、自らの顔にあったことを認めたのちに。

 ゆっくり、しずかに、まぶたを落として、灰色の瞳を隠して。

 そして、二度、三度とかぶりを振った。

 否定のジェスチャー。


 このタイミングでそれをする、ということは――


 嘘、でしょ?


 そう言葉を紡ごうとするも、あまりの現実に俺の声帯は打ちのめされてしまったのか。

 声が全くもって出てこなかった。

 口から零れ出るのは、ふうふうという空気が情けなく漏れる音のみ。


 ますます、頭から色が消えていく。

 白一色に飲まれてゆく。

 思考能力が、消えてゆく。


「げほっ。ごぼっ」


 思考能力が奪われてしまったそもそものきっかけ。

 それがエリーに求めることができるならば、それが元に戻る発端もやはり彼女が与えてくれた。

 地面に横たわるエリーがにわかにむせかえった。

 口の中から、ごぼごぼと血があわ立つ音を伴いながら。

 どうやら、呼吸器にも大きなダメージを受けてしまったらしい。

 傷から溢れ出た血が逆流して、口の中を一杯にしてしまったようだ。


 今のエリーはすでに鼻での呼吸だけでは、その命を繋げなくなってしまったように見える。

 そんな状況下で、口から呼吸できなくなってしまったのならば――


 近い内に窒息しかねない。


 いよいよ後がなくなってしまった。

 どうすればいい?

 やはり、どうすればいいのかわからなくなってしまう。

 今度はアリスもすっかりと冷静さを失ってしまったようだ。

 おろおろと右に左に、目を、顔を振って、慌てふためるのみ。


 そんな情けない俺たちを尻目に、ヘッセニアは静かにエリーの枕元に跪いた。

 そして、俺に手渡すはずであった白衣の袖を使って、彼女の口の中の血を拭き取った。

 どういうわけか、血を吸い取ったはずの白衣の袖は、ほとんど赤く染まってはいなかった。

 彼女の血を吸い取ったのに、どうしてああまで白い?


 そんな疑問を含んだ視線に気がついたか。

 ヘッセニアは静かな口ぶりでこう答えた。


「……今、道具の効果を変えたんだ。たくさん血を吸い取る道具にした。傷口に巻いても意味はないけど……口の中の血を吸い出すのなら役に立つ」


 そして彼女は今度こそ件の魔道具を俺に手渡した。

 エリーを治すことも、血を止めることもできないそれを今更手渡した意味とは――


 つまり、悔いを残すな、という意味なのであろう。

 俺たちがあれだけ執心したエリーと。

 最期の言葉を交わせ、という意図を含んでいるのであろう。


「あ、ありがとう。ヘッセニア……」


「その体力を私に使う余裕はないでしょう? 二人に使いなさい。邪魔者は、退くからさ」


 一番始めにヘッセニアの気遣いを受け入れたのは、エリーであった。

 彼女はヘッセニアに礼を述べるも、当の本人は気遣い御無用、とばかりにこの場を去ってしまった。


 かくして、エリーの近くには俺とアリスの二人だけとなった。


「ふ、ふふふ……おめでとう。貴方たちは……正解の選択をした……」


 ゴボゴボと血が湧き出る、耳障りな音を立てながらエリーは笑った。

 その顔にはすでに隠しきれないほどの濃密な死相が刻まれていた。

 感情がすでに上手にコントロールできなくなってしまった俺は、その声に、その顔に心を掻き乱される。

 泣き声混じりに怒鳴り散らしてしまう。


「正解? 正解なものか! こんな……こんな!」


 エリーが命を落としてしまう選択なんて!

 そんなの間違っている! 不正解だ! と。

 涙をまき散らしながら、そう主張する。


 だが、エリーからすれば俺のその主張こそが不正解なようであった。

 赤毛の少女はふるふると力なくかぶりを振った。


「ううん、大正解だよ……邪神だって曲がりなりは神様だった存在……げぼっ」


 また、血で彼女の口の中が一杯となる。

 エリーを窒息死させてはならない。

 俺はただただ必死に彼女の口からあふれる血を、出来たばかりの魔道具の力を使って取り除いた。


 口が塞がれて、呼吸が滞ったのはほんの僅かな間のこと。

 けれども、今のエリーにとってはその短い間でも、大きく体力を奪われてしまうらしい。

 エリーの顔はますます土気色に近付いて、息もより絶え絶えとなってしまった。


 もはや、言葉を紡ぐのですら億劫なのであろう。

 けれども彼女は、口を動かすことをやめようとしなかった。


「だから、邪神は……ごほっ」


「もういい! 喋らないで! 待ってて! 超特急で飛ばして医者に診せたのならば……多分まだ……!」


「――だ、だから……好きなんだよ。邪神は……世界と誰かの命、それが天秤にかけられたとき……悩みに悩んで人命を選ぶ優しい人が……好きなんだ。だから、自らの滅亡を受け入れたんだ。わ、私を殺せ、なんていう私の命令を……受け入れてくれたんだよ。ウィリアム、アリス。貴方たちの……とても人間くさい……優しさのおかげ、で」


「……なんだって?」


 途切れ途切れのエリーの言。

 それを聞いたとき、俺は顔を歪めずにはいられなかった。

 どうしようもない後悔すら抱いた。

 それはアリスも同じこと。

 彼女はぎりりと歯を食いしばって、抱いてしまった悔しさを表現した。


 どうして俺たちがこうも悔恨を抱いているのか。

 その理由とは――


「……じゃあ。じゃあ! この状況は! 私たちが選んでしまった、ということですか!」


 俺たちはエリーを殺せないと言った。

 殺せるわけがないと言った。

 それがたとえこの世界にとって良くない選択だったとしても。

 俺たちはあのとき、自分の感情に寄り添った選択をしてしまった。

 そうすれば、エリーが死なずに済むと考えたからだ。


 けれども、今はどうだ?

 エリーは死にかけている。

 俺たちがエリーを救える、と信じた選択がこの結果をもたらしてしまった。


 つまり換言すれば。

 俺たちはエリーを殺そうとした、ということになる。

 この事実を前にして、どのようにしたら後悔せずにいられるのだろうか。 


「ははは……げほっ。私との知恵比べに……負けたね。もし、あのとき私を撃ち殺そうとしたのならば……この場の邪神全部が……あ、貴方たちに……飛びかかってきた……んだけどね」


「そんな……そんなの。そんなのって!」


 エリーは咳混じりに笑った。

 もはや彼女は笑うだけの体力すら残されていないのだろう。

 それは俺とアリスが望まぬそのときが、刻一刻と迫っていることの証明。


 アリスもそのことを理解してしまっているのだろう。

 まるで、ひたひたと迫る別れの時を拒むかのように、いやいや、と首を横に振り続けていた。

 

「……でも、安心して。私が死ねば……貴方たちは。私のことを……忘れるから。息が止まれば……名前すら思い出せなくなってしまうから……そういうふうになっているから……心に傷は……残らないから」


「私たちが……貴女を? 忘れる……?」


 いかにも悲しげなアリスの表情。

 それを見ていられないと思ったのか、エリーは慰める口調でこう言った。

 気に病む必要はない、と。

 俺とアリスが抱いている深い悲しみは、いまだけのもの。

 どのようにやったのかはわからないが、エリーが息を引き取った刹那、俺たちは彼女の存在そのものを忘れてしまう。

 だから、深く悲しむ必要なんかない――彼女はそう言った。


 本当に今の俺は感情がひどく不安定だった。

 エリーのその言い草を聞くや否や、頭に血が上って行くのを自覚した。

 またしても強い怒りを覚えてしまった。


 だって。

 だって!


 いつぞやのクロードの台詞が耳の奥にて蘇る。

 人間にとって本当の死とは、その存在が完全に忘れ去られてしまったときであるならば!

 それを防ぐために、遺された人々は故人の思い出話に華を咲かせるのであるならば!

 思い出話すら出来なくなってしまう、このエリーの境遇とは!


「……君は! なんてことをしたんだ! それじゃあ君は! 誰の記憶からも消え去って! 本当の意味での死を迎えてしまうぞ! 誰も君のことを想わなくなってしまうんだぞ! そんなのは! あまりにも寂しすぎるじゃないか!」


「いいんだよ……ウィリアム。そうなって然るべきの……つ、罪を……私は……」


「……諦めないぞ、俺は! まだ諦めないぞ! まだ間に合うかも知れないんだ! 泣こうが喚こうが! 俺は君を医者の下に連れて行く!」


「ふふふ……できるかな? 果たして」


「できるじゃない! やってみせる!」


 絶対にエリーを死なせてはならない。

 死なせてなるものか。

 いち早く医者の下へ!


 そう思って、ほとんど力任せに少女の手を握る。

 そしてそのまま引っ張り上げて、エリーを抱き上げようとした。

 の、であるが。


「……っ! これは……!」


 俺はそうすることができなかった。

 手を握って、そのまま引っ張り上げようとしたそのときであった。

 エリーの手が、腕が。

 俺が力を入れたのと同時に、ぼろりと崩れた。


 血は吹き出さなかった。

 肉もこぼれ落ちない。

 一体どういうわけか、どういう仕掛けか。

 崩れて取れてしまった彼女の手は、腕は。

 粒子が細かくて、そよ風でも天高くにまで上がってしまいそうなほどに軽い、真っ白な灰の塊になっていたのだ。


 それ故、もう俺の手の中には、エリーの手だったものはすっかりと消え失せてしまっていた。

 真っ白な灰の塊はボロボロと崩れてしまい、風に乗ってふわりと飛んでしまったからだ。


 これでは。

 これでは!

 できないじゃないか!

 エリーを医者の下に運ぶことが!


 怒りで頭にまで上昇した熱い血潮は、絶望によってその温度が冷やされ、物凄い勢いで腹の底にまで落ちてゆく。

 あんまりにもその速度が速すぎるせいで、ふらりと立ちくらみすら覚えてしまうほどであった。


「ざーんねん。もう。手遅……れ」


 今の俺は、文字通り青い顔だろう。

 傍から見れば滑稽なほどに。

 そうでなければ、笑顔を作るのが精一杯なエリーが、こうも楽しげに、しかし苦しげに。

 茶目っ気にあふれた表情を作るはずがないのだから。


 もう、俺にできることはなにもない。

 受け入れがたいその事実を、受け入れざるを得なくなってしまった。


 俺に襲いかかった絶望は、顔と頭の血の気を奪うだけでは暴れたりないとばかりに、今度は俺の膝を攻め立てた。

 もはや俺には、絶望に抗う気力すらなかった。

 実にあっさりと。

 俺は立つ気を失ってしまい、ずるずると。

 その場に膝から崩れ落ちて、尻餅をついてしまった。

 ただただ、だらだらと。

 情けなく涙を流すことしかできなくなってしまった。


「もう……二人とも。泣く……必要は。ないじゃん。ほら、見て……邪神どもも……真っ白な灰に変わって……いるんだよ? 邪神が……今度こそ……この世から消えるんだよ? ハッピーエンド……じゃない」


「これの! どこが! ハッピーエンドなの?! この世界からすれば、そうかもしれないけれど! すっかり貴女のことを忘れてしまう私たちにとっては、そうなるかもしれないけれど! でも……エリーさん! 貴女は……! 貴女にとっては!」


「いい……え。私にとってもハッピーよ……これは。だって……」


 感情のコントロールが利かないのはアリスも同じか。

 ヒステリックに泣き叫んで否定する。

 エリーの死が免れないばかりか、その存在すらこの世界から消えてしまうこの結末が。

 ハッピーエンドであるわけがないだろう、と否定する。


 けれども、ほとんど間髪入れず。

 もう呼吸すら弱々しくなったエリーが、アリスの否定を否定した。


「私の身体に。本能的に……愛を注いでくれる両親に看取られるのだから……だから……私は。心安らかに……幸せに……ああ……でも……こんな心優しい人たちから……私は子供を奪ってしまったのだから……私は……きっと、地獄行き……それはいいけれど」


 エリーの口ぶりがどうにも奇妙だ。

 ついさっきまでは、きちんと俺とアリスに向けた台詞を言っていたように思えたけれど、たった今のこれは趣を異としていた。

 どうにも自問自答めいた口ぶりとなっていた。


 その証拠に、彼女が言葉を繋げれば繋ぐほど、前後にあった会話の流れから逸脱したものになっていった。


「もし……同じ。じごく、でも。あっちのせかいのは……いや、だなあ。いっときでも……しあわせに。すごせた。こっち……せかい……の……ほう……が……もう……かえりたく、は……いや……いや……」


「……エリーさん?」


 もはや、彼女の言葉は独り言に変貌していた。

 エリーはずっと嫌だ、嫌だ、と力なくぼそぼそと呟くのみ。


 だから訝しげな様子でアリスは尋ねる。

 なにを言っているのか、と。


 けれども、エリーは答えなかった。

 気がつくと彼女は目を瞑っていた。

 目の端から一筋の涙をつうと伝わせながら。


「エリー?」


 今度は俺が彼女の名前を呼んでみる。

 やはり、反応は返ってこなかった。

 目を瞑ったままであった。


 まさか。

 慌てて四つん這いになりながら、彼女の下へとにじり寄る。

 そしてその名前を呼びながら、彼女の首もとに手を伸ばして、脈を確かめようとしたそのときであった。


 異変が俺に生じた。

 彼女の意識の有無を確かめるべく、彼女の名前を呼ぼうとしたのはいい。

 問題はそのさきにあった。

 その問題とは、こと人付き合いにおいては、単純でかつフェータルなものであった。


 一体、全体。

 あの赤い髪の毛をしている女の子の名前は。

 なんて言うんだっけか?

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