第一部 十六話 常識と例外
隊舎の屋上で、突如煌めく雷光を認めてからの俺の動きは、久しく激しい運動をしなかった者の割には、きっと良く動いた方だろう。
が、鈍っていないと言えば嘘となる。
頭で想像する動きと実際の身体の動きには、若干ながらズレがあった。
少し身体が頭についてこない感じだ。
自分の動きにちょっとやきもきしつつも、屋根伝いに雷が落ちた現場へ急行する。
雲一つ無い快晴の空なのに、雷が落ちたことが意味するのは一つ。
それは誰かが魔法を行使したということに他ならない。
その誰かはすぐにあたりがついた。
アリスだ。
先の魔法は、騎士級を倒すには威力は不足しているも、それでも遠目からでも、まぶしいと思わせる程度には強烈なものであった。
今のゾクリュにおいて、そんな魔法が放てる人物は、アリスを他において存在しない。
現場がどういった状況にあるか、それは解らない。
が、少なくとも、彼女が俺を求めているのは確かだろう。
でなければわざわざ制御の難しい雷の魔法を、それも余計に自然の法則に引っ張られやすい、垂直方向に放つ真似なんてしないだろう。
要するに先の魔法は狼煙なのだ。
私たちはここに居ます。
だから速く来て下さい、と俺に伝えるための。
そのために遠目からでも解るよう、雷を高所で発生させて、騎士級目掛けて落としたのだ。
屋根を蹴って現場へと急ぐ。
上は逃げ惑う市民たちでいっぱいの道路と違い、行く手を遮るものはなにもない。
実にスムースに近付いてゆく。
唯一問題があるとすれば、屋根と屋根の間隔が不均等で、時折大ジャンプを要求されることだろうか。
が、それも些細な問題であった。
少なくとも無視して構わないくらいには。
屋根を蹴って、飛んで、蹴って、飛んで、蹴って、飛んで。
それを何回か繰り返したころか。
いよいよ目的の場所にたどり着く。
見下ろせばアリスが居た。
騎士級の真ん前にアリスが居た。
それもその凶刃を、今、まさにアリスに振り降ろさんとしているところであった。
アリスに抵抗する気配はない。
騎士級から身を守る事なんて、本来彼女は朝飯前であるはずだ。
しようとしないのは、きっと信じているからだろう。
あの刃が届く前に、俺がやってくることを。
なら、その期待に応えなければならない。
ベルトに差した、借り物のリボルバーを手に取って。
そして騎士級目掛けて、屋根から飛び降りた。
躊躇いは一切なかった。
脚力、重力。
それらが合わさって宙を滑り落ちる勢いは、さながら流星の如し。
風が強かに顔に打ち付ける。
気を抜いてしまうと、風に負けて、目を瞑ってしまいそうだ。
だが、風圧に負けずに目を開け続ける。
あれよあれよと騎士級との距離は詰まる。
落下と平行して、リボルバーを構えて。
騎士級の頭に狙いを定めて。
素早く二連射。
着弾確認。
二発共に命中。
なおも落下は続く。
今や、騎士級は目と鼻の距離。
だから、騎士級とアリスとの距離を強引にも開けさせるために。
思いっきり力を込めて、兜に似た頭を蹴り飛ばした。
「む?」
硬い感触が足に伝わる。
分厚い鉄板を蹴り飛ばしたのときに似た感触だ。
それは予想していたものと違ったものだった。
弾を思い切り密集させて、弾が当たった場所を蹴り飛ばしたのだから、本来なら――
まあ、それは一旦おいておこうか。
それよりもアリスに詫びなければならない。
「ごめん、アリス。お待たせ」
到着が遅れたことを。
「ええ。お待ちしておりました。ウィリアムさん」
アリスはいつものニコニコ顔で、答えてくれた。
どうにも彼女の信頼には応えることが出来たようだ。
その事実に少し安堵。ほうと小さく息を吐く。
さて、一つ安心したところで、今、この場の状況を確認してみよう。
状況は悪い、と言えるだろう。
騎士級と対峙した守備隊は壊滅。
一人を除いて、石畳に沈められてしまっていた。
ただ、幸いなのは重傷なれど、全員命に関わる傷ではない、ということだろうか。
勿論、このままずっと放っておけば、出血により生命に関わるだろうが、その猶予は一秒一刻を争うものではない。
「ウィリアム……さん?」
半ば呆然とした声が飛んでくる。
アンジェリカのものだ。
声の方に眼を向けてみれば、唯一無傷な守備隊の影で、ぺたんと腰を抜かしている彼女が居た。
可哀相に。
相当怖かったのだろう。
「アンジェリカ。ごめんね。ちょっと遅くなった」
だから罪悪感を抱く。
もう少し急いで来るべきであったと、自分を呪う。
だから、少し面を食らうことになる。
次に彼女が見せた感情に。
「どうして……どうして来たんですかっ!? 早く逃げて下さい! きっと今のでも、アイツは倒せてない!」
「おおう?」
アンジェリカは吠えた。
年がずっと下な女の子に怒られた。
どうしたここに来たのかと怒られた。
まあ、彼女の言うことも一理ある。
あの騎士級をまだ倒せていない、という点においては、だけど。
無事を喜ぶにはまだ早いというのは、もっともな話だ。
「アリスさんも! 二人を巻き込んじゃいけないって……だから逃げてたのにっ。なのにどうして来ちゃうんですかっ! 二人とも!」
その口ぶりから察するに、どうやら彼女は騎士級に出会った途端に、あの声の正体を悟ったようだ。
自分はあの騎士級に狙われている。
だから、出来るだけ人気のないところに逃げて、被害を最小限にしなければ。
きっと、アンジェリカはそう思って、逃げ惑う市民たちとは全く別方向に向かったのだろう。
聡く、そして人を思いやれるいい子だと思う。
でも、俺とアリスにがどうして来たのか。
その理由を彼女は察することが出来なかったようだ。
「どうして、ここに来た、ですか」
ぽつり呟いたアリスと顔を見合わせて、肩を軽くすくめる。
「その答えはね、簡単だよアンジェリカ」
そしてアンジェリカを真っ直ぐに見て、ゆっくりと告げる。
とても簡単なその答えを。
「君を、助けに来た」
「助けにって……私、あの大きな邪神に狙われているんです! アイツを倒す事なんて。そんなこと――」
「出来るさ」
そんなこと出来るはずがない――
そう続くはずであった彼女の台詞を、真逆の言葉をかぶせて遮る。
ぐっと、言葉を飲み込んで、彼女は俺を見た。
「問題ない。ただ目の前の邪神を倒せばいいだけの話。だいじょぶ、だいじょぶ。去年まで嫌になるほど、似たようなことやってるからさ」
その目線の色は半信半疑なもの。
だから、俺は実に気楽な調子で語りかける。
何も問題は無いよ、とアンジェリカに伝えるために。
実際今の状況は、確かにいいものではないが、しかし、それでも最悪なものではない。
何せ、敵の邪神はたった一体なのだ。
無数の邪神を、両手で数えられる人数で相手することが常であった戦時中に比べれば、ずっとマシである。
悲観、絶望するには、まだ状況が良すぎた。
「おい、あんた」
地に伏した守備隊の一人が、呼びかける。
たくさんの髭を蓄えた、年上の男だ。
軍属であった頃の習性か、ほとんど反射的に彼の階級章を確認。
軍曹。
彼は負傷していようと取り立てて興奮せずに、落ち着いた態度を保持していることから勘案すると、ベテランの軍曹なのだろう。
階級からして、きっと、今、この場に居る守備隊員のまとめ役に違いないだろう。
「嬢ちゃんの言う通りだぜ。今すぐに嬢ちゃんとメイドさん連れて逃げな。見たところ、元同僚で腕に自信があるようだが、今回は相手が悪い。恐らく、奴は――」
その言葉の続きは、一度遮られることとなる。
噂をすれば何とやら。話題の対象である騎士級によって。
俺の力一杯の蹴りを受けて転げ回っていった騎士級が、ゆらりと起き上がり、舗装路を踏み砕きながら、再びこちらににじり寄って来たのだ。
「――騎士級であって、ただの騎士級でない」
先の言葉に続くはずであった科白を、改めてベテランは口にした。
軍曹の視線は一点に注がれていた。それは騎士級の頭部。
より正確に言えば、先ほど俺が二発の鉛弾と蹴りを進呈した箇所である。
俺もつられて、そこを見る。
傷は一つとして無い。
やっぱりな、と言わんばかりに、ベテランが憮然とした表情とともに一つ舌打ちをした。
彼が忌々しげな態度を取った理由は簡単だ。
目の前のそいつが、騎士級は騎士級でも、とびきり厄介な騎士級であるからに他ならない。
一般に距離的、時間的に狭い間隔で二発の銃撃を与えれば、騎士級の甲殻を砕くことが出来るとされている。
いくら久しぶりの荒事とは言え、どの程度弾を密にすれば、騎士級の息の根を止められるかは、身体に染みついていて忘れるはずもない。
先の射撃は間違いなく騎士級にとって、致命となるはずのものだった。
その上、ダメ押しにちょっとした工夫を加えた蹴りまで入れているのだ。
甲殻は砕かれ、その内に秘めらている脳髄が吹き飛んでいるはずである。
にも関わらず、奴に傷もなく、こうしてピンピンしているということは――
「騎士級の乙種。ですか」
「ああ。間違いない」
アリスの言葉に俺は頷いた。
乙種――
それは邪神の中でも、より脅威度の高い個体に与えられる呼称であった。
邪神は人を捕食する度に、ほんの少しずつ成長する。
その成長の度合いは極めて緩やかなもので、二十や、三十ほど食らった程度では、捕食を経験していない個体と大して差は出ない。
が、二百や三百といった数となると話は変わってくる。
それは知性であったり、純粋な戦闘能力であったり、それぞれの種毎に向上する能力は異なるが、兎角、捕食をしていない個体と比すると、歴然とした差が生まれてくるのだ。
即ち乙種とは歴戦の邪神が進化した個体、と換言することができよう。
「乙種!? 乙種だって!」
無傷の守備隊は一連のやりとりに、いささか過剰に反応した。
絶望色濃い声色で、そう短く叫ぶと。
「もう駄目だ……勝てるわけがない。街を……ゾクリュを守れない」
膝の力が抜けて、へなへなと力なく尻から地面に崩れ落ちた。
その姿勢は奇しくも、彼の後ろに居たアンジェリカと同じものであった。
「守備隊が泣き言を言っちゃいけないな。もっと自信持たないと」
「何を無責任なことを! お前も元軍人なら解るだろう!? 乙種の強さを!」
騎士級が乙種となると、甲殻の硬度が劇的に増す。
その硬さたるや凄まじく、超至近距離でいの発砲でも貫通不能と分析されているほどだ。
しかも厄介なことに、剣で狙うべき関節部も刃が通らなくなるまでに頑丈となるのだ。
おまけに弱点の一つであった、動きの鈍重さをもある程度克服し、瞬間的にではあるが機敏に動くようになるときた。
故に白兵で討伐することは、原則的に不可能。
一般に騎士級の乙種を討伐するとなると、大砲を持ち出すか、高名な魔法使いを数人集める必要がある。
一区画もろとも、鉄か魔法による飽和攻撃で、土地ごとの攪拌作業をしなければならないと考えられているのだ。
「銃も効かない、剣も効かない! 魔法だって、街を巻き込まない威力じゃ倒せない! そんなのどうやって、倒せばいいんだ!」
故に今の彼の嘆きは、妥当でもあるのだ。
手っ取り早く目の前の敵を倒すのであれば、街の一部ごと吹き飛ばす方法が一番だ。
が、それは街を守るために街を壊すという、彼らからすればとてもではないが容認できぬ手段でもある。
戦中なら、それが勝利に繋がるのであれば、と涙を呑むことはできただろう。
が、今は戦後。
何かに犠牲を強いる戦いなんて、もうたくさんだと思うのが人情というもの。
しかしそれを避けるとなると、今、この場で、白兵で倒さざるを得なくなってしまう。
白兵での討伐が原則不可能とされている乙種の騎士級を相手にして、だ。
それが出来ない以上、やはり街の一部ごと消し飛ばすしか――
こんな絶望的な堂々巡りに、彼は捕らわれている違いない。
「どうやって、と聞かれたら」
ただ、彼は知らない。
物事には往々にして例外があることを。
大体の原則には例外があることを。
そしてその例外が、今、この場に存在していることを。
項垂れる彼の下へと歩み寄る。
その力の抜けた肩を軽く叩いて。
「こいつでもって、としか答えられないな」
「え? なっ」
俺は彼の腰に下げられた剣を抜いた。
彼はその刃が陽の光を跳ね返すまで、俺が彼の剣の柄に手をかけていたことを、気がつかなかったらしい。
あまりの唐突なことに若い兵は、ただただ、目を丸くしていた。
「悪い。借りるよ」
呆然とする彼を置いて俺は駆ける。
突進する。
あの乙種を討伐するために。
そうだ。
俺ならば。
白兵で騎士級の乙種を倒せぬと言う、常識を打ち破ることが出来るのだから。