第一章 十五話 遅れてきた英雄
絶望がふらりと目の前に現れた。
ゾクリュ守備隊に籍を置くオリバー・デスペンサーは、顔に浮かぶ脂汗を止めることが出来なかった。
だがただ脂汗を浮かべる彼の反応は、他の者に比べればずっとマシで冷静なもの。
背中に居る経験の浅い兵のように、恐れおののき震えたり、あるいは急遽保護した少女のように、腰を抜かしぺたんと石畳に尻餅を突いていないのだから。
それはひとえに、オリバーの長い軍歴がなせる技であった。
十八歳の時に志願兵としてに入隊してから、もうかれこれ、十五年の月日を重ねた。
新兵は初陣で体感七割で死ぬと言われていた、あの壮絶な戦争を十年以上も生き抜いてきたのだ。
彼はまさに歴戦の兵と呼んで差し支えないだろう。
そんなオリバーだから、引き連れた五人の若兵たちと異なり、突如騎士級と遭遇したその直後は、恐れおののくといった醜態は見せなかった。
当初はこれっぽちも冷静さを失わなかった。
急遽保護した女の子をかばいながら戦うのは骨であれど、まあ、問題はあるまい。
練度がいまいちな若者達を引き連れている故に、少し時間はかかるかもしれないが、この場で倒せることは出来るだろう。
そう楽観していた。
多少の苦労を必要にするものの、我が方の勝利はかたい。
十五年の期間で、蓄積された経験はそう語っていた。
そのはずなのに。
そのはずであったのに。
「……たった一年で、大分勘も鈍っちまったってことかね」
深刻な声色で自らを嘲る。
オリバーの見通しはあっさりと裏切られたのだ。
震える若手を激励し、セオリー通りの一斉射撃によってカタを付けようとした。
小さな傷程度であれば、即座に修復できる能力を備えている邪神の中での騎士級のそれは、重たい甲殻を治すの手間なのか、やや劣っているのが特徴だ。
だから距離的にも時間的にも、近い間隔で鉛玉を二発撃ち込めば、修復間に合わず、あっさりと硬い甲殻を貫くことが出来る。
故に騎士級相手には兎角、弾幕を形成することが肝心要となる。
オリバーの下した判断は、全くもって誤ったものではない。
にも関わらず現状はどうだ。
本来騎士級が、ごろりとその巨体を地に横たえてなければならないのに。
四人の若者がぐったりと伏して、かすかに苦悶の声を上げているではないか。
「ぐ、軍曹! 今! 今っ! な、何が!?」
色濃い狼狽を表に出して問いかけるのは、少女を見つけ、捕まえた若兵だ。
彼が動揺を隠せぬのも無理もない。
軍隊暮らしの長いオリバーでさえ、今、何が起こったのか、それを完全に把握することが出来ていないのだから。
全員に射撃準備を命じ、オリバーは抜剣し、騎士級の動きを牽制し、若者らが狙いを定めやすいようにしていた、その時に事は起こった。
そろそろ狙いが定まっただろう、今号令をかけるべき。
そう判断したその時、にわかに騎士級がオリバーの視界から消えたのだ。
瞬きすら抑え、一時も目を離さなかったはず。
なのに何故消えた?
奴は何処に行った?
何が起きた?
かような疑問たちが、彼の頭の内で暴れ回った。
が、それも僅かな間のこと。
外的要因によって、その疑問の奔流は堰き止められることとなる。
背中から若い悲鳴がにわかにあがったのだ。
まさか、と背筋を粟立てながら振り返れば、かくの如し。
後輩四人が騎士級に斬り伏せられるという、最悪もいいところの光景が繰り広げられていた。
一体どうやって、あそこに――
そう思いつつもオリバーは反射的に拳銃を抜いて、残る一人と少女を仕留めるために、前膊より伸びる刃を振り上げていた騎士級向けて発砲。
命中はしなかった。
半ば盲撃ちで照準は適当なだっただけに、あっさりとよけられた。
しかし、その行為は全く無意味ではなかった。
おかげで二人があの刃の錆になる、という事態は避けられたのだから。
「さあてね。俺にも何があったのか、それはよく解らん。が」
一度言葉を句切って、オリバーは騎士級を睨む。
騎士級もまた距離を取って、じとりと睨み返している。
互いの動きをうかがい合う緊張感に溢れる静寂が、一人と一体の間に広がった。
「まあ、悪いことが起きているってことは、貴様にも解るだろう?」
額に脂汗を輝かせながらも、努めて軽い調子でオリバーは残った若兵に言葉を投げかけた。
深刻な声色で語ろうと、気楽に軽口を叩こうと、目の前に横たわる状況は何も変わらない。
ならば、もしかしたら緊張がほぐれるやもしれぬ、軽口の方がまだマシだろうとオリバーは思ったのだ。
が、しかしどうにも、その意図は若者に伝わらなかったようだ。
「わ、悪いことって……自分らは……負けるのでしょうか!? ここで死ぬのでしょうか!?」
悪化した現状を認める発言を受けて、若い守備隊員はパニックとなった。
そして若い兵はオリバーに問いかける。
もう駄目なのか、と。
「ああ、死ぬかもしれんな」
「そんな……!」
あっさりと死の可能性を認めたオリバーに、若者は顔を真っ青にして絶句。
「ま、それも今のままでの話だがな。まずは落ち着け。落ち着いて俺の言うこと聞いてれば、生き延びる可能性も出てくるだろうよ」
相手が絶望により顔面蒼白となったところで、そっと希望を匂わす言葉をかけてやる。
そうすると結構人間は、希望の言葉を紡いだ人間に妄信的なまでに信をおくようになる――
大学を卒業したインテリの戦友が、いつだったかオリバーにそう語ったことを、たった今、試してみる。
そう簡単に人の注意を自分に向けさせることが出来るのかね、と半信半疑で。
「と、言いますと?」
ただ、そんなオリバーの心持ちとは裏腹にその効果は覿面。
にわかに醸し出された、わずかな希望の香に引き寄せられてか。
残る部下は急に落ち着きを取り戻して、話に食いついてきた。
そのあまりの変貌に、あまりの現金さに、オリバーは一瞬呆気にとられてしまった。
ぱちくりと、目を二、三、しばたかせる。
しかしすぐに常に戻る。
そしてとてもいいことを教えてくれた、今は戦没者墓地住まいのインテリの戦友にひっそりと感謝を捧げた。
(いいな、これ。退役したらこれで適当に新しい宗教拵えて、教祖になって。左団扇な生活でも目指してみるかな)
そんな極めて俗に満ちた野望を、歴戦の曹長は抱いた。
が、それを実現するためにも、まずはこの危機を乗り越えなければ。
「貴様、銃に自信はあるか?」
「飛び抜けて上手い、というわけではありませんが。しかし、全く自信がないわけではありません」
「よし、ならいい。正確に狙わんでもいい。俺が合図したら、兎に角引き金を絞りまくって、連射せよ」
「つまり……リボルバーを使え、と?」
「そういうこと」
「しかし、威力に不安がありませんか?」
ゾクリュに配備されていない最新型の撃針銃は例外として、一発ごとにいちいち朔杖を突っ込む手間のある小銃に比べれば、リボルバーは連射性に優れる。
しかしその代償もある。
銃身そのものが小さくなった分、小銃に比べて拳銃であるリボルバーの有効射程は短く、また威力もいささか劣るのだ。
とはいえ、現在の騎士級との距離は近距離。
射程に関しては問題なかろう。
が、威力はどうだろうか。
騎士級を撃滅するに、果たして足るだろうか。
彼はその点に不安を覚えているようだ。
「貴様がそいつで騎士級を倒せることなぞ期待してない。期待するのは足止めだ。奴をひるませて、その隙に俺がこいつでとどめを刺す」
僅かに左手を揺する。
手にした軍剣が、きらりと白銀にきらめいた。
「騎士級を剣で!? 可能なのですか?」
「難しいがな。出来ないことではない」
硬い甲殻で覆われている騎士級と言えど、刀剣で討伐することは決して不可能ではない。
その身体には甲殻に覆われていない部分があり、そこを刃を入れればいい話。
僅かな関節部の隙間がそれである。
無論、動き回る対象に、それをやってのける難易度は高い。
何度か戦場で、騎士級を剣で相手をしたことのあるオリバーは、あまりに骨な作業であると知っていた。
本音を言うならやりたくない。
だが、一瞬にして四人を戦闘不能に追いやられてしまい、弾幕形成による討伐が困難になってしまった以上、やるしかないのだ。
それに一丁のリボルバーで騎士級を倒そうとなると、要求される技量は甚だ高く、生憎とオリバーには持ち合わせていない。
となればやはり剣を振るうしかない。
歴戦の兵は小さくため息をつく。
覚悟は決まった。
「さて、嬢ちゃん」
「え……?」
目の前で惨事が起きてしまった故に、腰が抜けたままでいる少女にオリバーは語りかける。
放心状態のところに急に話しかけたためか。
少女はいささか気の抜けた声を出した。
「怖い思いさせちまって、済まないな。だが待ってろ。今、片付けてやるから」
俺らが、必ずや騎士級を倒してやる。
だから心配することはない――
少女を安心させる為の一言は、しかし、彼ら自身の勇気を奮い立たせるものでもあった。
年端もいかない女の子に目の前にある危機が、取るに足りないものと吹いてしまったのだ。
大人として、発言の責任は取らねばならない。
責任を取るために彼らがすべきことは。
あの騎士級を撃滅すること、ただ一つ。
そう、勝利するのみ。
だから、二人は騎士級を睨んだ。
それぞれの得物を構えながら。
威嚇するように。
闘志をみなぎらせて。
そして。
「やれい!」
野太い軍曹の声、響く。
ほとんど間をおかず、街に響く破裂音。
発砲音。
若兵は、必死に撃鉄を起こして次弾発射を急ぐ。
初弾は命中。
騎士級の肩部に当たった。
それを受けて、騎士級は警戒度を上げたのか。
半身となって投射面積を減らしにくる。
騎士級が重量感溢れる足取りで、一歩を刻んだその時、オリバーも激烈な勢いで踏み込む。
みるみる間合いが縮まる。
が、騎士級は動かない。
いや、動けないのか。
下手に動けば、弾をモロに食らう。
それも、当たれば再生が間に合わぬやもしれぬ程の集弾率で。
今の騎士級の姿は、それが解っていて動けないでいるようにオリバーの目には映った。
間違いなく、好機!
ますますオリバーは間合いを詰める。
詰める。
詰める。
詰める。
そして、彼は僅かに口の端をつり上げる。
ほんのり顔を喜色に染める。
十五年の経験が静かに語っていた。
今の間合い。
騎士級の身体の向き。
さらに騎士級の動きの重さを鑑みれば。
討伐は目前なりと。
「取った!」
膝に目掛けて剣を振るう。
まずは動きを止めて、次いで首を落とす。
やむを得ず、剣で騎士級を討伐する羽目となった際の、お決まりの手順。
今回もそれに則って、騎士級討伐のスコアを一つ伸ばす――
「んなっ!」
そのはずだった。
オリバーは目を剥いた。
驚愕の声も漏れ出る。
騎士級は硬く、重い甲殻に身を覆われているため、軽快な動きは出来ないはず。
それなのに。
目の前の騎士級は、さながら軽業師のように。
ぴょんと飛び跳ねて、オリバーの一撃を躱したではないか。
敵は何モノ?
まさか、コイツは――
考えたくもない可能性が軍曹の脳裏によぎる。
「軍曹!」
「ぐっ」
必死にリボルバーの引き金を絞り、六発全てを撃ち尽くした若い彼が叫ぶ。
焦り色濃い声色で。
オリバーも今日一番の焦りを覚えた。
それはそうと、まずい。
攻撃をスカされた。
大きな隙を作ってしまった。
しかも自身の間合いに騎士級が居た、ということは、同時に騎士級の間合いに自分も居た、ということ。
早く距離を取らねば――
そう思って、強引に地面を蹴ろうとするも。
そのこと、能わず。
間に合わず。
それより前に、敵の凶刃が煌めいた。
「っ!!」
初めに覚えた感覚は、痛みではなく熱さであった。
赤熱した鋼線を、太ももに押し当てられたような、そんな感覚。
数歩遅れて、痛みもやってくる。
斬られた。
両の太ももを。
オリバーがそう認識する頃には、彼の身体はどうと激しくもんどり打っていた。
「軍曹っ!!」
今にも泣きそうな若い声が、人気が全く失せた街に木霊した。
にわかに取り戻した冷静さは再び揮発してしまい、彼は恐慌の底にたたき落とされたようだ。
「く、そっ」
だから立ち上がって、彼にいくらかの落ち着きを与えなければならない。
その一念で、オリバーは立ち上がろうとするも。
傷が存外深いらしい。
必死に力を込めようとも、軍剣を杖代わりにしようとも。
足が言うことを聞かずに、立ち上がれない。
何度も何度も。
出生直後の子馬か子鹿のように、失敗して再び倒れ込むだけ。
もう、オリバーは自身の脅威たり得ぬと確信したのか。
騎士級は蹲るオリバーを一瞥した後、怯える若い兵と少女へと歩みを進める。
「あ。あああ……」
かしゃんと音が響いた。
それは若い彼が、空っけつのパーカッションリボルバーを、手から滑り落とした音。
彼の戦意は根っこからへし折れてしまったようだ。
彼らを何とかして救わねば。
自分より年下な彼らを生かさねば。
だって、そうだろう?
もう世界は平和になったのだ。
老いも若きも関係なく死んでゆく世界なんて、もうご免だ!
年寄りから順に死んでゆく世界でなければおかしいのだから!
オリバーはそう思って再びホルスターから、自らのリボルバーを抜こうとするも、どうしたことか手は空を切るばかり。
「……くそったれめっ」
何故と、腰を見てみれば、そこに納められているはずの無骨な銃は姿も形も見えなかった。
どうやら斬られて倒れた時の衝撃で、何処へとすっとんでいったらしい。
これで唯一の抵抗手段は消えて無くなった。
だから、彼に出来ることは一つだけ。
「逃げろっ。その子を連れてっ」
しかし、その声はいささか期を逸していた。
声が届くその頃には、もう騎士級は二人を自身の間合いの内に収めていて。
禍々しい刃を、振り下ろさんとしていた。
だが禍事が急にやってくるように、吉事もまた、急にやってくるもの。
騎士級のその鋭い刃は、二人を切り裂くことはなかった。
まばゆい光が、騎士級に降り注いだ。
脳天を光によって強かに打っ叩かれた騎士級は、その巨体をぐらりとふらつかせた後。
どうと後ろ向きにて倒れ込んだ。
最初オリバーは目の前で何があったのか、それを理解することは出来なかった。
しかし、流石歴戦の猛者と言うべきか。
すぐに光の正体が、雷の一種とあたりをつけた。
雲一つ無い晴れ空に、にわかに落雷があったこということは。
「これは……魔法か?」
ぼそりと、独り言つ。
その答え合わせの機会は、すぐさまやってきた。
足音が一つ、こちらに近付いてくる。
音の軽さからいって、持ち主は女性か。
魔法と思しき落雷の後、何者かがこの鉄火場にやってくる。
これは近付いてくるその誰かが、魔法を放った主と見て間違いない。
取りあえずの窮地を救ってくれたことに、礼を言おうと、オリバーは足音の方へ目を向けて。
そして絶句した。
その者の格好が、あまりに奇妙なものだったから。
いや、正確に言えば、人の往来の中では、決してその格好は奇妙なものではなかった。
が、こんな血腥い場となれば、話は別だった。
それも当然のこと。
誰だって荒事のある場所に、かっちりとしたメイド服の女性、それもとびきり美人なのが居るのを見れば、猛烈な違和感に襲われるに違いない。
「アンジェリカさん! 無事ですか!?」
「アリスさん……?」
保護した少女、アンジェリカというらしい彼女と、アリスと呼ばれたメイドは知り合いであるらしい。
その事実にオリバーはほっと、安堵の息を一つ吐く。
良かった。
あのアリスなるメイドが彼女をすぐに連れ帰ってくれれば。
少なくともこれであの少女の命は救えそうだ、と。
「す、すげえ。騎士級を一発で……お、おい。さっきの魔法はあんたが?」
感嘆の声があがる。
その主は、リボルバーを滑り落とした彼のもの。
命を拾ったと、思ったのか。
その声色に緊張感はない。
そんな弛んだ様に、オリバーは思わず彼を張り倒したくなった。
すぐさま気を引き締め直せと叫びたくなった。
「ええ。ですが……」
魔法を用いたことを肯定しつつも、アリスは申し訳なさそうな顔色を見せる。
言いにくそうに口ごもる。
彼女の言わんとしていることは、オリバーはすぐさま理解できた。
アリスが言おうか言わぬか迷ったこととは。
「あの規模の魔法じゃ、騎士級。倒すことは出来ない、だろ?」
「……ええ」
まだ、騎士級は生きている。
気を抜くにはまだ早い。
彼女の言いたかったことを、オリバーは代弁した。
そして、そんなやりとりを聞いたのかしか思えないタイミングで。
地に転げた騎士級が、ゆらり。
やおら立ち上がった。
「そんな……!」
あれで倒せないのか――
失望と絶望がない交ぜになったネガティブ溢れる声つきで、若者は呟いた。
その暗さたるや、まるで世界の終わりに直面したかのよう。
対して、オリバーはまだ余裕がある。
倒すことには到ってはいないとはいえ、ある程度のダメージを与えられたことも、また事実。
人間で言えば、意識が朦朧としている状態に、今の騎士級はある。
何かアクションを起こすには、絶好の機会。
ここでモタモタしてしまえば、いくら邪神の中では控え目とはいえ、それでも化け物に相応しい再生力を持つ騎士級なのだ。
ダメージを回復されてしまい、仲良くこの場で葬られてしまうだろう。
今があのメイドと少女だけを逃がす、最大にして、最後のチャンス。
逃げることを促そうと、口を開くも。
しかしその言葉は予想外の事態に、飲み込む羽目となる。
逃げるどころか、アリスが騎士級に向けて一歩を刻んだのだ。
「おい! あんた! 何を! 下がれ!」
制止の声を、オリバーはあげる。
が、アリスはその声を丁重に無視。
また一歩、騎士級に近寄った。
邪神を前に物怖じしないその態度。
どの規模の魔法を当てれば騎士級を討伐出来るか、それを知っているあたり、間違いなくこのメイドは従軍したことがあるのだろう。
目の前の騎士級を倒せると踏んでいるが故の行動だろうか。
だったら、それは誤りであると伝えなければならない。
目の前の騎士級は騎士級であっても――
だから。
「聞いているのか!? 逃げろ! やられるぞ!」
「いいえ、ご心配なく。私はやられません。何故なら、今、この街には」
そして今や、彼女は騎士級の間合いの内。
その上、なんとその位置でぴたりと足を止めた。
冷や汗を垂れるべき状況であるのに、しかし、彼女の顔には余裕が張り付いたまま。
のこのこ自身の必殺の結界に足を踏み入れたのだ。
騎士級がこの好機を逃すわけがない。
だから邪神は凶刃を振り上げて、アリスを害せんとする。
それでも、アリスは動じない。
恐怖の気配をにじませない。
むしろその逆に、ふわりと微笑む。
微笑みを浮かべたのと、騎士級が刃を振り下ろしたのは同時だった。
目を瞑りたくなるような、そんな衝撃の一瞬。
しかしアリスはうろたえることなく、ぽつり一言。
「一人の英雄が訪れているのですから」
何かを、心から信頼しているかのような声色で言葉を紡ぐ。
直後に銃声。
極めて短い間隔で、二発。
ほとんど同時に甲殻に弾かれる音、響く。
一体誰がどこから?
少なくとも、この石畳の上に立っている者ではないのは確か。
発砲したのは誰と、オリバーは目で探す。
すると視界の端にて猛烈な勢いで、上空より滑空する影があった。
あれは、鳥か?
いや、それにしたってあの速度は、ハヤブサよりもずっと速い。
それに大きさもあまりに大きすぎる。
あれは一体。
そう考えている内に、その影はみるみる騎士級に接近していき。
そして、衝突するその刹那。
影は兜を思わす騎士級の頭を突き飛ばした。
いや、蹴り飛ばした。
巨体が、後方へと吹き飛ばされる。
一回、二回と地を跳ねながら遠ざかってゆく。
石畳を砕きながら。
影がメイドのアリスの目の前に舞い降りた。
影の正体が明らかになって。
オリバーは驚きを覚えた。
影の正体は人であった。
小柄なくすんだ赤毛の男であった。
そう。成人としては小さな部類と入るその体躯なのに。
小さな彼は、大きな大きな騎士級をこともなげに蹴り飛ばしたのだ。
それも石畳を砕く勢いで。
一体その小さな身体にそんな力がどこに備わっているだろうか。
「ごめん、アリス。お待たせ」
「ええ。お待ちしておりました。ウィリアムさん」
ウィリアムという名の影は親しげに、アリスに声をかける。
その声にアリスは、満面の笑みで答える。
そのやりとりで、おおよそながら二人の関係を、オリバーは察することができた。