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第一章 十四話 決死の逃走

 悲鳴、絶叫、泣き声、我が子を呼ぶ声、母を探す声。

 ゾクリュの街は切迫した声に満ちていた。

 まるで世界中の混乱を、このゾクリュという街に集めたのでは、と思わざるをえないような惨状である。


 真新しいガス灯が目立つ大通りを人々は駆け抜ける。

 皆目指す方向は一緒。

 ただただ邪神から遠ざかるために、邪神とは正反対の方向にひたすらに逃げ走っていた。


 幾十、幾百、幾千。

 兎角数えきれぬ程の人々が、一つの方向に駆け抜けるその様は、さながら洪水を起こした暴れ川のようであった。


 そんな激流にひるむことなく、果敢に遡上していく一つの影があった。

 アリスだ。

 純白のエプロンに、シックなブラウンのロングスカートに身を包んだか細いメイドは、けれども圧に負けることなく、するすると暴れ川を遡っていく。


 きっと逃げ惑う人々の中に冷静な者が居たとすれば、きっと彼女に叫んでこう問うだろう。

 何処に行こうというのか。そっちは危ない、邪神が居るぞ、と。

 そんな問いかけが容易に想像できるほどに、今、彼女がしていることは危険なことだ。


 そのことはアリスも重々承知していた。

 人の流れに逆らうこと自体も危険だし、騎士級に迂闊に近付くリスクなんて言わずもがな。

 しかも、アリスには逃げ惑う市民らを巻き込まずに、騎士級を討伐できる手段を一つも持ち合わせていないのだ。

 倒せる見込みもないのに、騎士級に近付こうとする。

 愚行と言っても差し支えあるまい。


 それにも関わらず、アリスが懸命に逆流を続ける理由はなにか。

 その答えヒントは彼女の傍に、逃げ惑う()()()()()()()()()ことに見出すことが出来る。

 どこをどう見渡しても、今のアリスの傍にアンジェリカの姿はない。

 つまりはそれが答えだった。


「アンジェリカさん! どこですか!?」


 市民のあげる混乱色濃い悲鳴にかき消されるのは承知なれど、それでもアリスはアンジェリカを大声で呼ぶ。

 強い後悔に胸を焦がしながら。


 騎士級が道路をぶち破って現れたその時、アリスは一瞬なれど肝を潰してしまったのである。


 まさか、本当に邪神が――


 そう考えてしまい、思考に、そして行動に空白が生じてしまった。


 その隙は時間にして一秒にも満たない、ほんの僅かなもの。

 けれどもその僅かな隙に、なんとも間が悪いことに、アンジェリカが身を翻して何処へと駆けだしてしまったのだ。


 アリスが我に返り、彼女の手を取ろうとしたときには、既に手遅れ。

 パニックとなった市民が、アリスとアンジェリカの間に割り込んで、そのまま二人を離ればなれにしてしまった。


 あの時、自分が驚きさえしなければ――


 改めてそんな思いを抱いて、アリスは下唇を噛む。


 きっと一年前の自分、そう、戦時中の自分であれば、今回の失敗は犯さなかっただろう。

 最近の穏やかな生活が、自分の緊張感を奪い去り、あの一瞬の呆けを生んでしまったのだ。


 戦争の残り香なんて、さっさと消え去ってしまえばいい。

 常日頃からそう思っているアリスなれど、今回に限って言えば、常在戦場の精神を忘却の彼方へ追い払ったことが、とても恨めしく思えた。


「早く、見つけないと」


 ぽつりと呟いたその言葉は、街に飽和した混乱の音色に、速やかにかき消された。


 騎士級が街に襲撃してくる直前、アンジェリカは声を聞いていた。

 それはあの騎士級がアンジェリカに声を聞かせ、彼女を狙っているという証。

 邪神は個人に狙いを定めると、その命を貪り食うまで偏執的に追い回す質を持つ。


 今、アリスの前には騎士級は見えない。

 アンジェリカもだ。

 そしてそれらと邪神の性質を鑑みるのであれば。

 あの騎士級は、今、アンジェリカを追っている最中に違いない。

 そうであるならば時間がない。


「早くしないと」


 もう一度アリスは独りごちる。

 今度のそれも、やはり周りに渦巻く叫喚の渦潮に飲み込まれてしまった。


 ◇◇◇


 アンジェリカは駆け続けた。

 きちんとした目指すべき場所があるわけではない。

 ただただ漠然とした目的地に向かって走り続けている。


 人が、兎に角、人が居ない方へ――


 彼女はただ走り続ける。


 時に、逃げ惑う市民の激流に逆らって走ったためだろう。

 彼女の体には誰かの肘なり、膝なりが当たって出来た痛々しいアザがいくつもある。

 けれども痛みに負けずに、ひたすらにアンジェリカは走り続ける。


「もっと……もっと離れないと」


 たくさんの人が逃げ惑って密集する場所から離れないと。

 この街のために、多くの市民のために。

 彼女を突き動かすのは、その一念だ。


「だって。あの邪神は。きっと私を追っているのだから」


 アリスとの街の散策でここ最近とんと聞かなくなった、あの冒涜的な声をアンジェリカは久々に聞いた。

 頭の内に今までとは比べものにならないほど大きな声で、それはこう囁いたのだ。


 ――何処だ。何処だ。何処に居る? ああ。ああ。見つけた。ここだ。ここだ。


 その声の直後、街にあの巨大な邪神が現れた。

 石畳を割って、ぬるりと地下から現れた。


 あまりの突然の出来事に驚き、呆然としているアンジェリカを尻目に、邪神はその大昔の騎士の兜のような面を、ぎりりと彼女の向けて。

 そしてその直後に、あの声がアンジェリカの頭蓋の内に響いた。


 ――ああ。ああ。見つけた! 見つけた!


 その声でアンジェリカが全てを悟った。

 この邪神は自分を捕らえるために、このゾクリュを襲ったのだと。


 やはり、あの声は邪神のものであったのだ。

 やはり、自分は邪神に追われている身であったのだ。


 そうアンジェリカは確信した。


「私が……あの時。あんなことをしなければっ」


 何故、アンジェリカが邪神に狙われてしまったのか。

 彼女自身、そうなってしまった原因の心当たりがあった。

 しかもその原因は、自身の浅ましく、とんでもない過ちによって生まれたものだ。


 だから少女は奥歯をぎりりと噛む。

 胸の内に渦巻く後悔によって。


 自分のせいで、今、この街は危機に瀕している。

 しかも、ウィリアムとアリスまで危険が及ぶのかもしれないのだ。


 迷信に満ちた村から逃げ出して、運悪く娼館に拾われて、娼婦に仕立てられそうになって――

 ロクでもない大人達に出会い続けて、その先でようやく出会えたウィリアムとアリス。

 二人は今までの大人達と違って、優しく、とても良い人たちであった。


 親が死んで以来、なんてこの世は酷いものなのだろう、とアンジェリカの心は絶望と悲観に染まりつつあった。

 それが、あの二人と暮らしはじめて上向きになっていったのだ。

 最近では今の生活がとても、心地よいものであると思い始めた。

 少しずつ、この世界にもいいところがあるものだ、と希望を抱くようにもなった。


 間違いなく二人はアンジェリカにとっての恩人だ。

 そんな人たちをこんな危険に巻き込むなんて、自分はなんと恩知らずであろうか。


「だから、少しでも遠ざけなきゃ。二人から、この街から、邪神を」


 二人の安全を確保しなければ。

 邪神が自分を追って、この街までやってきたのであれば。

 自分が街の中心から外れていけば、奴もまた、街の中心から移動するはず。

 人が居ないところにあの邪神を誘導すれば、この街の被害を最小限に抑えられるはず。


 きっとそうしてしまえば、自分はただでは済まないだろうけど。

 でも、二人を、たくさんの人を巻き込まずに済むのだから。

 それが今、出来る、ウイリアムとアリスへの恩返しだとアンジェリカは信じた。


 ひたすら駆け続けた甲斐あってか。

 今や、アンジェリカの周りには人影が見えず、しんと静まりかえった街並みがあるだけ。

 誰も居ない。

 願ってもないことだと、アンジェリカは思う。


 だがしかし、往々にして物事は思い通りにならぬもの。

 彼女にとって、望ましくない乱入者がにわかに現れる。


「君っ! 何をしている! ここは危険だ!」


 進行方向の十字路より若い男の声響く。

 軍馬に跨がる、軍服に身を包んでいる男。

 この街の守備隊だ。


 邪神を討伐するために現場に急行してるその最中、視界の端でアンジェリカを捉えて、馬を止めた、といったところだろう。


 なんて間が悪い。

 アンジェリカは内心で悪態をつく。


 まだ多くの人が逃げ惑っているが故に、踵を返すわけにはいかない。

 真っ直ぐ進むしかない。


 幸い、まだ彼は騎乗している。

 騎乗のままで自分を捕まえるのは、きっと難儀することだろう。

 そう踏んで、少女はそのまま真っ直ぐ突き進む。

 下馬する前に、彼の横を通り抜けてしまえばいいのだ。


 だが、流石日々訓練に身を置いている者と言うべきか。

 下馬の動きはアンジェリカの予想よりも、ずっと早かった。


「待ちなさい!」


「うっ」


 おかげで守備隊員をかわすこと能わず。

 とてもあっさりと、襟首をひっつかまれてしまった。


「は、離して下さい!」


 何とかしてその拘束から逃れようと必死に身を捩って、あるいは振ってと抵抗する。

 が、たかが十一の小娘の力なぞ、訓練された兵にとってさしたる抵抗とならない。

 守備隊の大きな手を、彼女は振りほどくことが出来なかった。


「どうした。何があった」


 そうしている内に、状況はどんどん悪化していく。

 現場に急行している途中、アンジェリカを捉えている隊員が、急に立ち止まったことを訝しんでだろうか。

 豊かな顎髭を蓄えた壮年の男が、やはり騎乗のままで二人の下に近付いてくる。


「は。軍曹。女の子がおりまして。恐らく、親からはぐれたものと思われます」


「む」


 年齢、言葉遣い、そして階級。

 どうにもやってきた壮年は、アンジェリカを捕まえる守備隊の彼の上官であるらしかった。


 報告を受けて、軍曹と呼ばれた男は、(少なくともアンジェリカからすれば)目の前で必死の攻防をやりあう二人を、じっと見比べた。


「……このままこの子を連れて、騎士級とは戦うのは。出来なくはないが、しんどいか」


 アンジェリカと自らの部下を何度か見比べ、小さなため息と共に曹長は呟く。

 その間にもきっと曹長のアンジェリカを捕まえている、彼以外の部下なのだろう。

 ぞろぞろと、十字路の真ん中に騎乗の兵が集まってきた。


「やむを得ん。全員隊舎に一時撤退。この子を預けた後、再び騎士級捜索に復帰」


「はっ」


 守備隊の兵舎には、今、ウィリアムが居るはずだ。

 ウィリアムの近くに邪神を呼び寄せてしまう。

 彼を危ない目に遭わせてしまう。


 それだけは絶対に嫌だ!


 大声をあげて抗議をするために息を吸うも、それらが声として吐き出されることはなかった。


 声を出さんとした、すわその時。

 数分ぶりの爆音が、ゾクリュの街を激震させた。


 アンジェリカと守備隊員のすぐ近くで。

 再びゾクリュの石畳は砕けた。

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