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第一章 十一話 遅れてきた破壊音

 きっと目に入る物、全てが目新しい物なのだろう。

 街に降りてきて以降のアンジェリカは頭を右に左に、目を下に上にと、忙しなく動かしては街の観察に努めていた。


 視線の先を追ってみると、そこにはガス灯があったり、街の隅々をめぐる鉄道馬車の線路があったり、街の守備隊所有の蒸気機関を載せたオートモービルがあったり。

 兎角文明の利器と称するべきものばかりを、アンジェリカは観察しているようだ。


 そんな少女の目はきらきらと輝いている。

 どれもこれも故郷では見なかったものなのだろう。

 未知なる物への好奇心が抑えられないようであった。


 その様子を見てアリスは静かに微笑んだ。

 やっと子供らしい無邪気な一面が見れたような気がするからだ。

 眠れるようになってから、アンジェリカは少しずつアリスとウィリアムに慣れてきたとはいえ、まだどこか遠慮するようなところがあった。

 本来のアンジェリカをさらけ出していない節があった。


 きっと二人の生活に突然割り込んでしまったことへの、遠慮なのだろう。

 しかしアリスにせよ、ウィリアムにせよ、むしろその気遣いを受ける度に恥ずかしい思いに駆られていた。

 アンジェリカにとって、あの屋敷は心から安らげる場所ではない。

 だからそんな遠慮をしてしまうということではあるまいか。

 故に遠慮される度に、自分たちの努力不足を痛感して恥ずかしくなってしまうのだ。


 本来の自分をさらけ出せないのは、随分と苦しいものだ。

 息が詰まる思いをしていることだろう。


 だからこそ、今、目の前で楽しげに辺りを見渡すアンジェリカを見れば、アリスはほっとするのである。


 これがいいガス抜きになってくれれば――


 そうアリスは思った。


「ア、アリスさん」


「はい」


「人、凄いですね」


「そうですね」


 数多の人々が生み出す足音、威勢のいいかけ声、コインがぶつかり合う金音、そして笑い声――


 それらの音が渾然一体となって、わいわい、がやがや。

 そんな音に満ちた場所。

 そう。今、二人は市場に居た。

 

 市場はいつも通り大盛況。

 一歩踏み出すのも躊躇うような、そんな密度の高い人混みが二人の目の前にあった。

 その賑わいぶりやたるや、慣れない者がその圧に気圧されてしまうほど。


 現に初めてここにやって来たアンジェリカは、どこか物怖じしたような様子を見せていた。


「本当に凄い活気。この街が、昔、田舎って言われたのが信じられないくらいに」


「本当にそうですね。でも、きっと、この賑わいも通過点だと思います。この街はまだ、発展するはずです」


「そうなんですか?」


「ええ。このゾクリュから東は、戦争中に邪神に奪われた土地が広がっていますから。復興の為の策源地として、まだまだ活躍するはずです」


 邪神戦争を通してゾクリュほどその価値が目まぐるしく変わった土地はない。

 ただの片田舎から、人類初の勝利を収めた希望の地となり、そして今や復興の足がかりとなる基地となった。


 街自体の相貌の変化も然りだ。

 焼かれかけた寒村は兵士達の宿営地となり、軍都となり、活気溢れる商業都市となり。

 そしてこれから復興に不可欠な資材を集積、あるいは生み出すための工業都市として生まれ変わるのだろう。


「じゃあ、これからこの街にたくさんの工場が出来て。たくさんの人が集まって。王国一の大都市になるかもしれないってことですよね。凄い!」


「……ええ。そうかも、しれませんね」


 どんどんと新しく、そして大きくなっていく目の前の街を想像してか。

 アンジェリカは少し興奮気味な様子だった。

 対してアリスの反応はどこか渋い。

 まるでゾクリュの発展を、好ましく思っていないのかのようだ。


「アリスさん、あまり嬉しそうじゃありませんね」


 アンジェリカは不思議そうに首を傾げて、アリスを見た。


 街が発展するということは、それだけその地域社会が豊かになるということ。

 そしてそこに暮らす人々の生活も豊かになることを意味している。

 で、あれば、発展を歓迎するのが自然の反応であり、アリスのそれは少し不可解だ。

 アンジェリカの態度は暗にそう語っていた。


 勿論アンジェリカの言わんとしていることは、アリスとて理解している。

 だが、アリスは知っているのだ。

 豊かになる代償に何を失うかを。


「工場が出来るということは。街の周りの自然が、壊されてしまうということですから」


 ゾクリュよりも何歩か先に工業都市として発展した王都の様子を、アリスは知っていた。 

 王都には二つ名があった。


 "霧の都市"。


 年中霧に包まれていることが、その名の由来だ。

 そんな情緒に溢れる二つ名、と言えよう。

 しかしその内実は情緒といった繊細な概念とはほど遠いものだった。


 工場の蒸気機関が吹き上げる蒸気と、石炭の煤煙。

 それらに街を流れる川の湯気。

 この三つから成る混合物が街を覆う霧の正体であった。


 空気中に漂う細やかな煤のせいで、深呼吸が出来ない。

 何故なら煤が肺胞を暴力的に刺激し、咳を引き起こすからだ。

 そして廃液を川に遠慮無く垂れ流しているせいで、街は耐えがたい悪臭に包まれている。

 おかげで公園で休日をのんびり過ごす、といった真似すら困難になってしまっていた。


 人々の収入は増え、確かに豊かな生活になったのかもしれない。

 しかしその代わり街で一息つくことが出来ない、息苦しい都市に変貌してしまったのだ。


「今、ここには人と街と、そして自然があります。ゆったりと暮らすのに、今のゾクリュは本当に丁度いいと思うのです」


 そんな王都を知っているために、アリスにはアンジェリカが夢想する、豊かな未来に諸手を挙げて賛成できないのだ。

 本当にこのままこの街が工業都市と発展して、第二の王都になってもいいのかと。


 今のウィリアムとの暮らしは、彼を縛る不自由さえ目を瞑れば、とても穏やかで素晴らしいもの。

 豊かな自然を包まれながら、屋敷で彼とゆっくりとした時間を過ごし、監視の目に晒されつつも、時折街に出て彼と買い物を楽しむ。

 理想の生活にとても近い、といっても差し支えない。


(でも、ゾクリュが工場だらけになってしまったのであれば)


 きっとその生活は破綻する。


 煤煙と悪臭に悩まされ、庭でのんびり野点も出来ない生活になるだろう。

 手慰みのガーデニングだって、厳しくなるかもしれない。


 ゾクリュを流れる川の小さな支流である、丘の下の小川で魚釣りも出来ない。

 何故なら本流が廃液で死んでしまって、魚が小川にやってこないから。


 街も耐えがたい悪臭に包まれるのであれば、きっと、訪れる回数も最低限になろう。

 二人でゆったりゾクリュを散策する、といった楽しみも消え去るに違いない。


 いずれにせよ、そのすべてが自由を規制されたウィリアムに残された、ささやかな楽しみを奪うもの。

 これ以上ウィリアムの生活から彩りを奪うことを、アリスは到底許容出来なかった。


「でも」


 穏やかに、けれども意思をしっかりと込めたアリスの言葉に対し、アンジェリカは、でもと紡ぐ。

 幼いながらも先のアリスと同じく、明確な意思を示そうとしていた。


「それでも私は、田舎のままでいるよりいいと思います。田舎は、迷信だらけで……自らを縛るものが多すぎて……古くさくて……」


 どこか憂いと暗さを含んだ表情で、アンジェリカは口を動かした。

 その様子にアリスは目の前の小さな彼女が、生まれ故郷に対して、好感情を抱いていないことを悟った。

 むしろ好感情とは真逆。

 怒りや憎悪などといった、暗い情意をその心の内に抱いているように見えた。

 

 この百年間近代化が急速に進み、人々の思考が迷信から切り離され、唯物論的なものへとシフトしていった。

 しかしそれはあくまで工業化の恩恵を受けた、都市部に限ってのことだ。

 農村部では未だ前時代的で、一見すれば呪術的で迷信に満ちた、民間信仰が幅を利かせていた。

 時にそれは、都市部の人間からすれば、野蛮にも映る儀式や風習を伴うことすらある。


 アンジェリカは、そんな風習に何らかに関わったか――いや、この表情からして、きっと、風習の犠牲になりかかった過去があるのだろう。


 なら、これ以上この話題を話すのは、彼女の辛い記憶を掘り起こす真似になるだけだ。

 他人の傷には無闇に触れてはならないもの。

 アリスは話を切り上げることにした。


「……ねえ、アンジェリカさん」


「はい?」


「アイスクリームを食べませんか? 訳あってゾクリュ、アイスクリーム屋さんは多いんです」


「いいんですか?」


 その一言に、アンジェリカの表情がぱっと明るくなる。

 彼女が憧れる都市部ならではの甘味なら、強い興味を惹けるとアリスは踏んだのだが、それはどうやら的中したようだ。


「ええ。折角街まで来たのですから。屋敷では食べられないものを、食べてみましょうよ」


「はいっ」


 うきうきとした声色で頷く、アンジェリカ。

 同様に未知なる味わいに、期待を寄せる軽やかな歩調で歩き出す。

 指し示した店に向かって、アリスに先行し一歩、二歩。


 だがしかし。


「うっ」


 三歩目を刻むことはなかった。

 にわかに、頭を抱え……いや、両耳を塞いで彼女は蹲ったのである。


「アンジェリカさん? どうしました?」


 何かあったのか。

 慌てて、アリスがアンジェリカに近づくと。

 半ば独り言染みた様子で少女はこう呟いていた。


「声が」


「声?」


「声が……声が聞こえる……あの、声が」


 苦悶と驚きに満ちた表情で、ひたすら少女は声、声と呟き続ける。


 声?

 一瞬、アリスは訝しむ。

 が、すぐさま、昨夜のウイリアムの会話を思い起こす。


『彼女を呼ぶ声らしい。表現をそのまま借りれば、冒涜的な声だったそうだ』


 冒涜的な呼び声。

 それは邪神に近づかれた人々が決まって口にする、特徴的な言動。

 そしてそれは往々にして、邪神に襲われる数日前から直前までに聞かれるもの。

 邪神が声を聴いてしまった人のすぐ傍にまで這い寄って来ている証。


 今、彼女がそれを聞いてしまったのであれば。


「まさか」


 このゾクリュに、邪神の生き残りが近づいているのか?


 アリスがそう思い至った時。

 終戦以来とんと聞かなかった、腹の底まで響く爆音が、ゾクリュの街を振るわした。


 それは言うまでもなく日常が壊れる音でもあった。

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