第一章 十話 不穏な呼び声
あの夜以降、彼女は不眠に悩まされることはなくなったらしい。
目の下の隈も薄くなった。
そのおかげだろう。
ここ最近のアンジェリカは、ここでの生活に慣れてきたらしく、少しずつだがくだけた様子も見せるようになってきた。
いい傾向、と言える。
とは言え、この生活は子供にはちょっと退屈であったらしい。
きっと時間を持て余すからなのだろう、アンジェリカは何かとアリスやウィリアムの作業の手伝いを買って出るようになった。
今日はウィリアムの手伝いをしていた。
いくつかの綿雲が浮かぶ青空の下、屋敷の建つ丘の麓に流れる小川で、只今、野良作業中。
朽ちるのを待つだけとなった水車を直そうというのだ。
現在、作業は佳境。
腐った羽根を全て取り替えた羽根車を、岸にちょこんとある小屋に接続するところだった。
「これで……いいかな。あとは車が回れば」
軸にはめ込んで作業は完了。
どこかで見落としがなければ、水車は再び回るはずである。
ウィリアムは脛まで水に浸しながら、水車を注視。
さて、果たして。
固唾を飲んで見守る。
羽根車は水流を受けて一度、二度と。
ゆらゆらと左右に車が震えて。
ぎいぎいと気の軋む音が、小鳥のさえずりと小川の水音に混じって。
「おおー」
そしてアンジェリカからの歓声がそれらに加わった。
水車はゆっくりくるくると回る。
それは朽ちるのを待っていた水車が、再び鼓動を始めた証だった。
景気良く直せたためか。
アンジェリカは小さな拍手を水車に送った。
「それにしても、よく水車を直そうと思いましたね」
「ちょっと粉を挽くのにあったらいいかな、て」
「街に出て買いに行けばいいんじゃ? わざわざここで粉にする必要なんて……」
「ほとんどが軍からの払い下げな、小麦粉ならそうするんだけど……それ以外の粉がどうにも信用できなくてね」
「信用できない?」
「妙なもの混ぜてるようなんだ。こないだ買ったアーモンド粉なんて……もう、酷くてね…」
アンジェリカが来る少し前のことだ。
アリスがフィナンシェを作ろうと、ゾクリュの市場でアーモンド粉を仕入れてきたことがあった。
いざ使わんと、紙袋の中を見てみれば、不自然なまでに真っ白な粉がたっぷりと詰まっていたのである。
あまりの白さにウィリアムが不思議に思って、指にとって舐めてみると……奇妙なことに、舌が痺れるような苦みを感じたのだ。
どうやらどこかの工場で出てきた副産物の物質を混ぜたらしい。
かなり悪質なかさ増しであった。
「安くはなかったんだけどなあ。あれ」
王国で流通する食料品の質の良し悪しは、とても見事に値段と比例する。
安ければ安いほど、ろくでもない加工が施されてされているものだ。
悪くなってしまったリンゴをどうにかして売り切るために、油を塗って見た目を誤魔化すなんて真似なんて、珍しい話ではない。
油程度で済むならまだマシで、赤い塗料をこてこてに塗る事例すらあるという。
王国の市場において安いにも関わらず、不自然に見た目がいいものは特に注意が必要であった。
もっともアーモンド粉の件のように、まれにいいお値段でもハズレを引くこともあるのだが。
「でも、どうして水車なんです? 粉なら手でも挽けるでしょう」
「それは簡単な話さ。アリスに力作業をさせたくない。出来る限り、楽をさせたい」
手臼の所有を禁じ、水車による製粉に税金をかけていた時代ならまだしもである。
現代であれば、取り立てて水車で粉を挽く意味は無いようにアンジェリカは思えた。
その上ここで挽かれた粉を消費するのは、屋敷に住まう三人のみ。
おまけにパンなどに使う小麦は信頼出来るとして、ゾクリュで買ってくるとなれば、水車小屋が活躍する場面なんて、そうそうないだろう。
整備の手間が生み出す利益と釣り合っておらず、大赤字となるのは明らかだ。
それでもなお、ウィリアムはそれでいいと言っている。
この小屋のお陰でアリスの手間が省けるなら、それでいいと言っている。
ウィリアムの手間だけが増えようとも、それで構わないと公言している。
「大事なんですね。アリスさんが」
「そりゃもう」
アリスとウィリアム、この二人の関係は主人と従者のものにしてはいささか奇妙なものだと、アンジェリカは思う。
互いに互いを大事に思い、気遣い合う、そんな関係。
けれどとても優しい関係でもあると、同時に少女は思う。
そして優しいのはその関係性だけではない。
それを構築している、二人の人柄も穏やかで優しいもの。
だから、アンジェリカは頼りたくなった。
その優しさに甘えたくなった。
まだ短い付き合いなれど信頼できそうな、目の前の大人に。
自らが抱えていた悩みを打ち明けたくなった。
「ウィリアムさんは」
「うん?」
「何でも出来るんですね。水車も簡単に直せちゃうし」
「何でもってわけではない。知らないことは知らないし、出来ないことは出来ないよ。料理なんか悲惨だし。水車だって手に負えなかったら、大工に任せるつもりだった」
しかしどう頼ったらいいのか。それがわからなかった。
アンジェリカが話の切り出し方を悩んでいると、声色からか、はたまた彼女自身が醸し出す雰囲気からか。
「何か、聞きたいこと。あるの?」
それとなくアンジェリカの思うところをくみ取ったらしいウィリアムが、川から揚がりながらそう問うた。
「……今は聞こえないけど」
躊躇いがちにアンジェリカは口を開く。
「声が聞こえてたんです。誰も居ないところで。私を呼ぶような、そんな声が」
「声? どんな?」
「ええっと……なんて言ったらいいんだろう……何というか……地の底から響くような……そう、冒涜的。冒涜的な、そんな底冷えするような恐ろしい声が」
村に居た時も娼館に拾われた時にも、その声を聞いた。
どこだ、どこだと、自分を探す恐ろしい声。
人のものとは思えない、そんな声。
昼夜を問わずいつも不意に襲ってくるその声に、アンジェリカは頭を悩ませ、いつしか眠れなくなってしまった。
だから彼女はちょっとした物音に怯えるようになってしまった。
音が聞こえた拍子に、あの声がまた聞こえるのでは、と思えたから。
原因は全くわからなかった。
人に打ち明ければ、決まって頭がおかしくなってしまったと、同情的な視線を寄越されてきた。
あるいはとても面倒くさそうな顔を見せられて、適当に煙に巻かれるだけ。
まともに相談できた試しがない。
だけど、ウィリアムなら何か知っているかもしれない。
きちんと相談に乗ってくれるかもしれない。
そう期待しての質問だった。
さて、彼の反応は。
濡れた足を、タオルで丁寧に拭く動きを、硬直したようにぴたり止めて。
「んー、なんだろう。それ」
アンジェリカに目を向けて、ぽつりそう言う。
ウィリアムでもその声の正体に心当たりはないらしい。
今まで打ち明けて来た人たちと、同じ言葉。
けれど、これまでの人たちと決定的に違う点があった。
それは彼の目。
同情的な色を全く見せず、真っ正面に彼女の悩みに向き合おうとする、そんな真摯な姿勢が見て取れた。
「ありきたりな答えですまないけど。疲れ、からなんじゃないかな? 今まで落ち着けなかったことからの。今は、どうだい?」
「今は聞こえないです」
「最近はよく眠れている?」
「はい」
「んー、問題ないように思えるけど。でも、気味が悪いね、それ。ごめん。大して役に立てなくて」
バツが悪そうに目を伏して、アンジェリカに頭を下げるウィリアム。
力になれなかったことに、明らかな罪悪感を抱いているようだった。
「わ。謝らなくてもいいです。ウィリアムさんの言うとおり、今は聞こえなくて、問題ないから」
がっかりしていないと言えば嘘となる。
けれどアンジェリカは失望や後悔は抱かなかった。
確かにウィリアムは、この悩みの原因を見つけ出すことは出来なかった。
が、ただ同情するだけではなく、どうにかして解決に導こうとしていたのも、また確かだ。
だからアンジェリカは思った。
この人に打ち明けて正解だったと。
少なくとも、この人は私の悩みに親身になってくれると。
(だから、いつか)
この人にもっと深く打ち明けたいと思った。
今はまだ怖くて言い出せないけど、でもいつかは。
自分がやってしまったことの、その告解を。
◇◇◇
夜の帳が落ちた屋敷に音が響いた。
木を、部屋の扉を叩く音。
その音の源は俺の右手。
叩いた扉はアリスの部屋のもの。
そして扉越しに問う。
「アリス。入って大丈夫?」
入っていいかを。
返答はほとんど間を置かずにやって来た。
「どうぞ」
アリスの声を受けて静かに扉を開けた。
暖色の光が目を刺す。オイルランプが由来の光。
部屋はそれまで身を置いていた、真っ暗闇の廊下と違ってオイルランプの光に溢れていた。
「珍しいですね。こんな時間に私の部屋に訪ねてくるなんて」
その部屋の内で、意外そうな声色でアリスが出迎えてくれた。
物が少ない部屋に居た彼女の服装は、いつものメイド服ではない。
寝間着のゆったりとした白のナイトガウン。
きっと就寝する直前だったのだろう。
彼女はベッドに腰掛けていた。
ちょっと来るタイミングが遅かったかと後悔するも、もうここに来てしまったのだから仕方がない。
罪悪感を押し殺して、なんとか口を開いた。
「ちょっと、話したいことがあって。アンジェリカのこと」
「アンジェリカさんのこと、ですか?」
「そう」
水車の修理を終えた直後の、彼女のあの顔を思い出す。
あの顔は心につかえた物を吐き出すかどうか、それをひたすら悩んでいた顔だ。
アリスに相談したいことは、まさにその事についてだ。
「日中、何だか急に思い悩んだ顔になってさ。どうしたのか、と聞いてみたのだけれども」
一度、そこで言葉を区切る。
続く言葉が重要だから、ことさら強調するために。
「声を聞いたらしいんだ」
「声、ですか?」
「そう。彼女を呼ぶ声らしい。表現をそのまま借りれば、冒涜的な声だったそうだ」
アリスは息を呑んだ。
目をまん丸に丸めて驚きを露わにした。
俺が冒涜的と口にした直後に。
どうやら彼女はアンジェリカの薄気味悪い体験に、心当たりがあるようだった。
そして実を言うならば。
俺もアンジェリカの話を聞いた時点で、おおよそ彼女が今、どのような状況に置かれているか、その見当はついてしまっていた。
冒涜的な呼び声。
この言い回しを受けて、ぴんと来ない従軍経験者は居ない。
「それって……」
「ああ、そうだ」
そう、俺はあの時嘘をついたのだ。
心当たりがありながら、彼女の目の前では知らんぷりをしていた。
それが不誠実な対応なのは重々承知していた。
だが、真実を伝えたところで、得られる彼女の反応なんて、悲劇的なものになるのは目に見えていた。
何しろ折角戦争が終わったというのに。
「今はともかく、だ。ここに来る前の彼女は、間違いなく邪神に付きまとわれていた」
また邪神に怯える日々を過ごすことになる――
そう告げるのは、あまりに残酷にすぎはしないだろうか。