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第一章 九話 夜更けの書斎

 目を開ける。

 そして睨む。

 高くしっかりとした造りの天井を。


 今夜何度目かわからぬ一連の動きの後、アンジェリカは深いため息をついた。


 ――やはり眠れそうにない。


 信じられない位に上質な寝具に、緊張していることもある。

 本当にこんなところで寝てもいいのか、という奇妙な罪悪感も安眠を妨害している一つの理由でもあった。


 けれどもそれらは眠れない理由の中で、どれだけのウエイトを占めているかと言えばほんの些細なもの。

 眠れぬ主たる原因は他にあった。


 ではそれは何か。答えは簡単。音であった。

 甘い眠気が訪れたころ、決まって何かしらの音がして、眠気が綺麗に拭い去られてしまっているのだ。


 音はいずれも小さなものだ。

 例えば風鳴りだったり、屋敷の軋む音だったり……ほとんど気にならない程度のありふれた音。


 だが今のアンジェリカは音に過敏であった。

 生来よりそうだったのではない。

 ついこの間彼女が体験したことによって、音に臆病にならざるを得なくなってしまったのだ。


「……あまり、考えないようにしないと」


 その出来事を思い出すと、今でも身震いがする。

 思い出し続けるときっと心が潰れてしまうだろう。

 アンジェリカはそう思った。


 だから首を二度三度、ぶんぶんと大きく振る。

 そうすることで思考を無理矢理切り替えことが出来るのだ。


 齢十一とは言えアンジェリカも戦争で重く暗い世を生きてきた一人の人間なのだ。

 厳しい現実に心を潰されないための、知恵の一つや二つは心得ていた。


 さてと切り替わった思考で、彼女はしばし思案。

 今から朝までどうしよう、と漠然と思案した。


 再び粘って眠気が再来するまで瞼を閉じているか。

 それとも今夜は眠ることを諦めて、何か別のことをするか。


「昨日は粘ってみたけど」


 結局中途半端な浅い眠りしか得ることが出来なかった。

 それがいけなかったのだろう。日中とても眠くて眠くて仕方がなかった。

 それはもう一晩中起きてた方がマシだった、と思えるほどに。


 だから今日は諦める方向でいこう。

 一晩眠気を溜めに溜めて、明日の夜に一気に放出してしまえば、きっと音なんか耳に入らないくらいの深い眠りが得られるはずだ。

 アンジェリカはそう結論を下した。


 さてそうとなれば、だ。

 何をして時間を潰すかが問題となる。


 部屋に私物はない。

 だから部屋で時間を潰すのは、少し困難。


 となれば。


「悪い気がするけど、でも」


 ちらと、アンジェリカは部屋の扉を見る。


 この大きな屋敷を適当にぶらつくのは、いいに感じに時間が潰れるかもしれない。

 別に禁じられていないとは言え、真夜中にもそもそ動くのは気が引ける。


 でもこのまま何日も眠れない日を過ごすのは、この屋敷の主人に要らぬ心配をかけてしまうことだろう。

 どうやらいい人そうだし、そんなことになるのは本当に心苦しい。


 だから明日の夜、たっぷり寝て彼に心配をかけさせないためにも、今夜は動かなければ。


 そう自分に言い聞かせて、アンジェリカはドアノブを回した。


「まだ、アリスさん。起きてるのかな?」


 廊下には灯りがまだあった。

 燭台の蝋燭がまだゆらゆらとか細い光を放ち続けている。


 流石に寝ている間は火を消すだろう。

 と、なれば少なくともアリスはまだ、起きていると見ていい。

 うっかり消し忘れているという線も、無きにしもあらずだがアリスの人となりを見るに、それはないと見るべきだろう。


 しかし、これはアンジェリカにとっては僥倖。

 月明かりがほのかに差す中を歩くよりは、ずっと歩きやすいのだから。


 とは言え、オイルランプの灯りに慣れた目には蝋燭の灯火はあまりに頼りないのも事実。

 慣れない薄暗さに、アンジェリカはどぎまぎした。

 そこに歴史はありそうな、この屋敷の雰囲気が加わるのだ。

 何か"出る"のではないか、と思わずにはいられない。

 従って彼女の歩調はとてもゆっくりとなる。


「灯り」


 何度目かの曲がり角を曲がった時のことだ。

 廊下の先で明らかに蝋燭の灯とは、明度の違う光が一筋漏れ出ている場所があった。


 歩み寄ると光は扉が僅かに開いた、とある部屋から溢れ出ているようだ。


「この部屋。確か……」


 ウィリアムとアリスに屋敷を案内された時のことを思い出す。

 確かここは書斎と二人は言っていたか。

 何せ部屋の数がとても多い。

 覚えるのに一苦労だ。

 アンジェリカはここが書斎であるかの確証が、いまいち持てなかった。


 だからそっと顔を扉の隙間に近づけて、中を覗いて答え合わせをしようとした。

 が、廊下が薄暗いことが原因だろう。

 彼女は扉との距離感を見誤ってしまった。


「あっ」


 こつんと額が扉に当たって。

 そしてきいと音が鳴って。

 閉まり損なっていた扉が全開となる。

 

 目に飛び込むはずらりと並んだ本棚。

 ふわりと漂うは古い紙とオイルランプのにおい。

 部屋はやはり書斎だった。


 その内で、揺り椅子に揺られて本をに目を落とす人影一つ。

 この館の主である、ウィリアム・スウィンバーンであった。


「おや」


 あれだけ派手に扉が開いたのだ。

 当然、ウイリアムはアンジェリカの存在に気がついたようだ。


「あっ……ごめんなさい。つい。光が漏れてたから、気になって」


「謝ることはないよ。折角だ。ちょっと中に入らない?」


 寝なければならない時間なのに勝手に出歩く。

 軽い叱責があるのでは、と思いアンジェリカ反射的に謝るもウィリアムの反応は極めて穏やか。


 それどころか、書斎に招き入れようとすらした。


「……失礼します」


「どうぞ。そこのソファに座って」


 一瞬断ろうか、という考えがアンジェリカの頭を過るも、元々時間を潰すために部屋を出たのだ。

 断ってしまっては本末転倒と、彼の提案に頷き促されるままソファに腰を下ろした。


「今夜も眠れないのかい?」


「うんと……はい」


「それは困ったね」


 しおりを挟んだ本を閉じて、膝の上においてウイリアムは、変わらず穏やかにそう言った。

 そして成人男性の割には大きくない手を、口元に持って行ってしばし思案顔。 


「文字は読める?」


「ええ」


「そう。じゃあ、眠れないついでだ。ちょっと本を読んでいかない?」


 思案顔をほどいた後、優しげな笑顔を浮かべながらウィリアムはそう提案。

 確かに眠れない夜のお供は、昔から書籍と相場が決まっている。


 長い時間、何もせずにぼうとするのも苦痛だ。

 彼の提案はとても魅力的。

 

 だから、アンジェリカは静かに首肯。

 ウイリアムの提案を受け入れた。


「良かった」


 そんな彼女の様子を見てウィリアムは二十を超えた男にしては、少年のにおいを感じさせる笑みを見せた。


「俺のおすすめはね。その辺りの本棚にあるやつ」


 さて本を読むとして、どんな本を手に取るべきか。

 アンジェリカがそれを考え始めた頃合いで、ウィリアムのかゆいところに手が届くような一言が飛んでくる。


 アンジェリカは悩む必要がなくなった。

 これ幸いと、指し示された本棚へ。

 そこに整然と並べられた本は、どれもこれも背表紙の色が日に焼けて、とても薄くなってしまっているものばかり。

 いずれも相当古い本であるように思えた。


「随分と古い本ばかりですね」


「どれも大体百五十年前くらいの本かな? ちょっと小難しいけど。きっと、気に入ってくれると思う」


 小難しいのか。ならば、果たして十一の自分に理解できる代物なのだろうか?

 そんな疑問が浮かんだこともあって、彼女は本棚の内で一番薄い本を選んだ。


 ソファに再び腰掛けて本を開いて。

 そして、自分の危惧が杞憂であったことを悟った。

 選んだ本はどうやら、昔話を集めた類いらしい。

 特に難解、というわけでなかった。


(でも。でも、うーん)


 が、恙なく読めると問われれば、その答えは否となる。

 何せ百五十年前の本である。

 言葉遣いが今と若干違っていて、これはどういう意味か、と考えてしまう間が生まれてしまう。

 スムースに読み進めることが出来ない。


 だから読むこと自体に集中できない。

 徐々に徐々に読むことに飽きが生じてしまう。


 そもそもアンジェリカ自身あまり昔話に興味が無い、というのもある。

 だから抱く飽きは、凄まじい勢いでがんがん進行していく。

 

 ちらとアンジェリカはウィリアムを見る。

 彼は再び本を開いて、じっと本に目を落とし続けている。

 深く集中している。

 とてもではないが飽きた、と言えない空気だ。


 だから、アンジェリカは本と対峙せざるを得なくなる。

 けれども読むテンポは依然として悪くて、やっぱりいまいち集中できなくて。

 耐えかねないと思う度にウィリアムを見るも、彼は集中しきっていて視線はまた手元に逆戻り。


 繰り返す。

 本を見て。

 しばらくしてウイリアムを見る。

 そんなことを。


 それを何度も繰り返している内に。

 アンジェリカ自身でも気がつかない内に、眠気がじわじわと忍び寄って。

 その内、こくりこくりと船を漕ぎ出して。


 そして彼女はいつしか夢の世界へと出航していた。


 小さな寝息が、書斎の空気を振るわした。


 ◇◇◇


 そっと扉が開いた。

 音もなく、本当に静かに。

 ノックの音はなかった。


 けれども俺はそれを咎める気はない。

 何故ならこの部屋には一人が眠りについているから。

 むしろ眠りの妨げになるやもしれぬ音を、生まないその配慮を賞賛したいくらいだった。


「失礼します」


 控え目な声量でそう告げながら、書斎に入ってきたのはアリスだ。

 その両手に抱えるは毛布。

 彼女はそっとソファで寝息を立てるアンジェリカに、起こさないようにそっと毛布をかけた。


「やっぱ効くよね。夜中の古文は」


 読み慣れない人にとって古文は、寝酒以上に眠りを招来する優秀な睡眠薬のようなものだ。

 テンポ良く読めないから変に頭を使うことにもなるし、読解そのものもいつもより時間がかかるから、結果として退屈を呼び起こしがちだ。


 読書しているときに退屈を覚えたら、さあ、大変。

 往々にして耐えがたい睡魔に襲われるものだ。


 きっと、アンジェリカも眠りにつくだろうと期待したのだけど、いやはや、目論見通りにことが運んで本当に良かった。


「そうですね。でも、この子が眠りにつけたのは、本の効果だけじゃないと思うんです。きっと、同じ部屋に誰かが居てくれる――無意識の内に、そんな安心感があってのことだと思います」


「そういうもの?」


「ええ。私も、似たような経験ありましたから」


 つまり眠れない理由の一つが、心細かったからなのか。

 なるほど、それは考えもしなかった。


 確かにほとんど何も知らない場所で、たった一人で眠る、というのは、結構な寂しさを感じるものかもしれない。

 アリスの言う通り、誰かが傍に居てくれるという安心感のお陰で、今、アンジェリカは眠れているのかもしれない。


 そうであるならば。

 今夜、俺はこの部屋から離れるべきではないだろう。

 

「なら、今夜、俺はここで寝た方が良さそうだ」


「ウィリアムさんなら、そう言うと思っていました。はい」


「準備がいいね。ありがとう」


 そう言うや、もう一枚アリスは毛布を俺に手渡してくる。

 どうやら毛布は二枚用意したようである。

 本当に準備がいい。


「さて、アンジェリカも寝たことだし、俺も寝るとするよ。おやすみ」


「ええ。おやすみなさい」


 眠ると言ってもこの部屋は書斎だ。

 当然眠りにつくためのベッドなんかない。

 代わりになるのはソファだけだけど、そこはアンジェリカが眠るべき場所。


 だから、今夜、俺は揺り椅子に座したままで眠ることになる。

 無理のある体勢だけど、少なくとも俺には問題ない。

 長い戦場暮らしで如何なる体勢でも眠れるように、体が適応してしまっているのだ。


 戦場の残り香の漂う能力であれど、今ほどこの能力を覚えていてありがたいと思ったことはない。


 アリスからもらった毛布を、胸にまで引き上げる。

 腰を僅かに前に出して、出来る限り体を真っ直ぐの形に持って行けば。

 さて、これで就寝準備完了。


 あとは目を瞑るだけ……なのだけど。


 ここでちょっとした問題が発生した。


 いつまで経ってもアリスが自分の部屋に戻ろうとしない。


「部屋に戻らないの?」


「ええ。私も今夜はここで寝ようかと」


「そんな。いいよ。それにもう、寝るところなんて……」


「その点は安心して下さい。もう一脚、用意してきましたから」


 ニコニコしながら、アリスを身を引く。


 その先にはいつの間用意したのやら。

 どこから持って来たのやら。

 元々書斎にはなかったもう一脚の揺り椅子が、でんと鎮座していた。


 俺と同じく、そいつを寝床にするつもりだろう。


「なおさらそれは悪いよ。他の椅子よかマシとはいえ、体を痛めてしまう」


「それを言うなら、ウイリアムさんもそうではなくて? メイドだけが普通のベッドで寝るなんて、それはとても奇妙なことです」


「そうかもしれないけど。でも、ほら。変な体勢で寝るから、多分眠りが浅いものに……」


「その点はご安心を。従軍してたんですから、私もどんな場所でも眠れます。それはウイリアムさんもご存じでしょう?」


「む」


 確かにアリスの寝付きはとても良かった。

 目を瞑って一呼吸、二呼吸おけば、すぐに寝息が聞こえてくるほどだった。

 彼女も俺と同じく、何処でも眠りにつけるよう身体が適応したのだけど、その才能は俺よりも恵まれていたのは事実だった。


 説得失敗。

 なら、別の切り口から攻めるべきか。

 他の理由を考える。


「それにアンジェリカさんも。一人よりも、二人の方が、きっといいと思うんです。人の気配がそれだけ濃密になります。安心感も、よりしっかりとしたものになるでしょう」


「むむ」


 唸って、唸って。

 彼女を説得する理由を考える。

 でも、いくら頭を振り絞ろうとも。

 とても困ったことに。


「むむむ。拒む理由が、浮かんでこないぞ」


「なら、私の一存のままに」


 アリスは眠っている女の子を起こさないように、静かに、けれどもスムースな動きで椅子を俺の隣に持ってくる。


「ねえ、ウィリアムさん」


「うん?」


「こうして一つの部屋で三人、眠りにつくなんて」


 一度そこでアリスは息を継いで。

 そして。


「まるで、家族のようじゃありませんか? うふふ」


 とても嬉しそうに笑いながらそう言う。


 聞いたことがある。

 田舎では、家族全員が一つの部屋で眠る家が多いと。


 今一度書斎を見回す。

 静かに肩をを上下させる小さな子供。

 俺の隣にはまだ起きて、いつものようにニコニコしているアリス。


 そして想像する。

 俺とアリスとアンジェリカ。

 三つの寝息が混ざる、決して俺が見れない光景のことを。


 その光景は、ああ、確かに。


「言われれば、そうだ」


 きっと、仲の良い家族の一日の終わりに見られるシーンに違いない。


 それは間違いなく、とても穏やかで幸せなもの。

 平和なもの。

 これからそんな光景を、戦場帰りの俺らが作れるとなると。

 なんだか嬉しい。


 きっとアリスも同じ気持ちなのだろう。

 だから。

 俺とアリスはアンジェリカを起こさないように、静かに笑い合った。


「それでは」


「うん」


 静かにアリスはまだ灯りを放つランプに手を伸ばして。


「おやすみなさい」


「うん。おやすみ」


 そうして、灯火が静かに消えた。


 書斎に心地よい暗闇が訪れる。

 アンジェリカの寝息にもう一つの寝息が混ざるのに、さほど時間はかからなかった。

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