あなたに抱かれてこの世を去るなら ☆☆
その年の暑かった夏も過ぎ、街路樹の銀杏がその葉を緑から黄へと色を変え始める頃から。
清志郎はこう漏らすようになった。
「奏子さん。僕がどんなに忍耐を強いられているかわかりますか?」
その言葉を奏子は何度聞いただろう。
「僕は、貴女を。今すぐに、何度でも抱きたい。ロクシタンのローズの香る貴女のその真珠のように白く輝く肌に口づけて、貴女とそう禁断の実を食べる前の楽園の二人のような姿になって……貴女を……」
清志郎は息を吐く。
「せめて貴女を。一度でいい、この手で思い切り抱き締めたい」
それは、切なげな、けれど熱いまなざしで清志郎は奏子を見つめる。深い息を吐く。
「僕は自分の欲望をよく知っています。それは、処女のように清らかで、新妻のように貞淑な貴女を。貴女を汚泥に押し倒し、穢し、貴女を深く傷つけてしまう。貴女の家庭は壊れる。貴女の今の幸せを粉々にしてしまう。貴女を不幸にすることは僕には出来ない」
清志郎の苦悩もまた深いことを、奏子は感じ取る。
自分はどうしたいのだろう。
旭良から、清志郎から、二人の男性から愛され、どちらの手を取ればいいのか、もはや奏子にはわからない。
自分の気持ちが信じられない。
どうして、旭良を愛しながら、こうまで清志郎に惹かれるのか。音楽や文学の話の波長が合うからなのか。清志郎ほど深くそういう話題を話せる相手はいない。
しかし。
奏子は歪んだその胸の内を告白する。
「私は……。私はもう十分に不貞です。汚れた女です。主人に抱かれながら、目を閉じて清志郎さん、あなたのことを考えている」
奏子のまなじりが歪む。
「そんな私をあなたは軽蔑してください」
奏子は心底、自分を恥じていた。
そして、旭良に申し訳ないと深く悔いている。
清志郎に抱かれたいと、そう思う自分……。
旭良へ対する凄まじい罪悪感が奏子を苦しめる。
もはや奏子は清らかな処女でも貞淑な妻でもない。
欲望にまみれ、恋する一人のまぎれもなく女だった。
しかし、そんな奏子に清志郎は言う。
「奏子さん。貴女はむしろ美しすぎる」
と。
「美しい貴女は、いつも微笑んでいる。貴女の微笑みに、僕は抗することも逃げることもできない。何故なら、既に僕はあなたの美しい蜘蛛の糸を七重に八重にぐるぐる体に巻き付けて幸福な夢を見ているから。僕はむしろ、美しい貴女の魅力に捕らえられたまま貴女から死を賜ることを望み、貴女の柔らかな唇に食べられることを心待ちにしている」
清志郎は熱く奏子を見つめる。
「奏子さん、あなたは美しすぎる。貴女の美しさは、罪だ。僕は貴女を捕らえて、貴女を貴女の透明な糸で九重に縛って貴女の白い体をゆっくり味わいながら食べてしまいたい。それは、罪作りな貴女に与える罰。僕は、美しい貴女を、その美しさ故に罰しなければならない。貴女の紅い唇を塞いで、貴女の白い手をこの手に絡めて、あなたに罰を与えなければならない。美しい貴女は、誰にも見せたことのない忘我の悦びに、これ以上ないほど美しく顔を歪め、悦びに任せ、罰に耐える。……そんな妄想に僕は駆られてしまうほど、貴女は危険なまでに美しい女です」
そんなことを清志郎は呟く。
その囁きに奏子は抗えない。
人はそうして、越えてはならない一線を越えてしまうのだろうか。
けれど、奏子には出来なかった。
奏子には旭良を本当に裏切ることは、清志郎に唇を、その素肌を許すことはどうしても出来なかった。
***
清志郎を想う奏子は日々、細っていった。
旭良を愛しながら、清志郎のことも愛している。そんなアンビバレントなことが両立すると言うことが、奏子には理解できない。自分の気持ちに自分自身がついていけない。
ある晩、食卓につき、久しぶりに旭良が好きな近江牛を朝から煮込んで作ったシチューを二人で食べている時、突然はらはらと奏子は泣き始めた。
それは、満開の桜が風に吹かれその花びらを落とすかのように、それはそれは美しい涙だった。
旭良は何も言わなかった。
きっとまた例の知らせが奏子の友人から届いたのだろうと独り合点した旭良は、ただすっと手を伸ばし奏子の左手を握りしめた。
そんな旭良を前に奏子は更に涙を流す。流し続ける。
どうしたら、この入り組んだ迷路から抜け出せるのか。
奏子は旭良と別れる気はない。旭良の許を去り、清志郎ともう一つの人生を送る道を選ぶほど奏子は浅薄ではなく、また若くもない。これからもずっと、そう死ぬまで一生を優しく頼り甲斐のある旭良と共に生きていく。
けれどその心の、そう、旭良との間に子を成せない奏子の心のどこかに生じていた隙間に清志郎が入り込んでしまった。
そんな自分自身が奏子には許せない。
旭良を裏切っている自分を責め、あがき苦しむ日々を奏子は送っていた。
***
「清志郎さん。あなたに私は出逢わなければ良かった。私はこれ以上主人を裏切ることも、あなたを愛することもできません」
それは十二月に入ったばかりの午後五時過ぎの日没時。街並みの向こうに見える空が赤からオレンジ、そして青へと刻々と色を変えていくトワイライトタイム。
『PRIMEVERE』を出て帰途に就こうという時、奏子はそれまで一人で抱え、膨れ上がっていたその不安を全て清志郎にぶつけた。
「私は……。私はいっそ死んでしまいたい」
奏子は思わず泣いた。それまで散々一人で泣いてきたけれど、清志郎の前では決して見せない涙だった。
「奏子さん。『死』を口にしてはいけない。本当に死んでしまわなくてはならなくなる。僕は貴女を……」
その時。
清志郎の手が奏子の背中を抱き寄せ、奏子は清志郎の胸の中にいた。
初めて、清志郎は奏子に触れた。
魂ごと、躰ごと、奏子を抱いた。
一瞬の出来事だったけれど、確かに清志郎は奏子を抱き、奏子は清志郎に抱かれたのだ。
それは純真な心と心、裸の魂と魂の結合した瞬間だった。
清志郎の息遣い。肌の温もり。髪の匂い……。
それは清志郎の躰そのものを、奏子は感じた。
「清志郎さん。あなたに抱かれてこの世を去るなら死んでもいい」
「奏子さん……」
二人は互いに堅く強く抱き締め合った。
銀杏の葉が舞い散った散歩道の片隅で。
それは宇宙の果ての片隅と同じ空間で。