ふたりだけのアラベスク ☆
その数日後。
奏子が昼食の後片付けをしようとしていた時、携帯の着信音が鳴った。
『『PRIMEVERE』でお茶をしています。 佐伯清志郎』
そのたった一言の清志郎からのメールは、暗に奏子に『PRIMEVERE』に来て欲しいという誘いなのだろう。
どうすればいい。
どうすればいいの……。
行ってはいけない。逢いに行っては……。
わかっている。理性はそう奏子を止める。
しかし。
清志郎に逢いたい……。
清志郎に逢いたかった。
ずっと清志郎のことを考えていた。
食事をする時も、お風呂に入っている時も、そして……。
その本能に抗えず、奏子は弾かれるように身を翻すと『PRIMEVERE』へと足を向けた。
「奏子さん」
ノーパソのキーを打っていた手を止め、奏子を認めると清志郎は言った。
「そんなに慌ててどうしました?」
あなたが。
あなたがメールをくださったから、私は息せき切ってここまで来てしまったのに……あなたは何もなかったような顔をなさるんですね。
そう奏子は思ったが、口には出せなかった。
踵を返そうとしたその時。
「奏子さん」
清志郎は奏子の名を呼んだ。
「来て下さって嬉しいです」
それは、穏やかに落ち着いた笑みで。
不安に泣きそうな奏子を包むように。
「清志郎さん……」
奏子はただその場に立ち尽くしていた。
***
それから──────
奏子は、清志郎からメールが届くのを心待ちにするようになった。
そして、メールが届く度に『PRIMEVERE』を訪れ、清志郎と会話を重ねるようになった。
それは身の回りの些細な雑事より、音楽や文学などの芸術、そして恋の話が多かった。
奏子には旭良以外の恋愛経験はほとんどないがそれでも、それ故か熱く『恋』を語る清志郎の話には強く惹かれた。
清志郎は恋には長けていた。
十七歳の時の初恋のクラスメートとの交際と別れ。そして、大人になって幾人もの女性を愛し、結局、その初恋の女性と結ばれ、それが癌で亡くなった清志郎の妻だという。
そして、清志郎は言った。
「肉体だけの関係が悪いとは僕は思いません。そういうことが必要な時期もある。僕は結婚してもある女性と関係を持っていたことがあります。僕は妻を愛していたし、彼女も夫を愛していた。僕達は互いの家庭を壊す気など毛頭なかった。けれど、それは激しく互いの躰を貪り、求め合った。でも」
清志郎は、いつものラテのカップを口元に運び、そして続けた。
「そう。いつの時だったか、彼女とホテルのバーで飲んでいて、ふと見つめ合い、お互いに失笑したんです。どうして自分たちはここにいるんだろう、て。結局、その夜、彼女とは部屋に行かず、熱いキスを交わして別れました。彼女は、『ありがとう。今まで楽しかった』とだけ言って去って行きました。それが最後でした」
清志郎はじっと奏子の黒い瞳を見つめる。
「奏子さん。どんなに肌を重ねても、どんなにお互いを求めても、それは一瞬の時に過ぎません。いつかそれは壊れてしまう。無へと帰する。だから。僕は貴女とは美しい関係でいたい。男女の仲を越えた友情という青い空の雲の彼方で貴女と関係を結びたい。そうすれば僕達はずっと二人で、ふたりの華やかな、ふたりだけのアラベスクを奏で続けることが出来る」
そう確かに、出逢った頃の清志郎は言っていたのに。
奏子は旭良を心から愛しているし、それ以上に旭良から愛されている。また、間違っても『不倫』をするような性格ではない。
なのに、何故……。自分でも自分の気持ちが掴めない。
徒歩十分という近所とは言え勿論、奏子は清志郎を自宅に招いたりは絶対にしない。また、清志郎が言葉巧みに自分の部屋に奏子を誘うこともない。
決して、躰を重ねるわけではない。
キスも手を触れることすらしない。
しかし、奏子の清志郎との関係は、心の距離は縮まり、深まっていくばかりだった。
***
「かなちゃん……」
旭良が奏子の躰をゆっくりと引き寄せる。
ふたりのシルエットが重なる。
「あらくん……」
旭良の唇の熱さを感じながら、譫言のように奏子は旭良の名を呟く。
奏子は固く目を閉じ、旭良の躰を、心を、愛を感じる。
そう、目の前にいるのは旭良なのに。
脳髄の奥のどこか密やかに醒めた一点で、奏子は別のことを考えている。
この腕が。
この唇が。
もし、清志郎だったら……。
奏子は甘い吐息を発し、その夜もどこまでも深く、暗い闇の底へ堕ちてゆく。