晩夏の午後の再会 ☆
晩夏にさしかかったある午後。
奏子は『PRIMEVERE』の自分の定位置にいた。
いつものファンデにピンクのアイシャドウにチーク。唇にはローズ系ルージュ。黒いノースリーブワンピースの上には白い七分袖の薄いカーデを羽織っている。
いつもと変わらないメイクに装い。
ただ、ルージュの上には透明なグロスが塗られていて、奏子の唇を彩っている。それは、艶めかしく誘うように……。
そのグロスは友人と会ったり食事に行く時などに施すグロスで、そのことに奏子はこの日の特別感をいやが上でも意識する。
「阪井さん」
手元のスマホを見つめていた奏子はその声に、顔を上げた。
ホットのカフェラテを手にした清志郎が奏子の席の前に座った。
「もう貴女には逢えないと思っていました」
その言葉にはそこはかとない、けれど確かな嬉しさが滲んでいる。
「僕にメールを下さったのは、何かあったんですか」
清志郎の問いにどう答えようと奏子が戸惑っていると清志郎は、
「いえ。貴女に何も変わりがなければいい。貴女が幸せならそれで僕は」
と、ラテに口をつけた。
そのまま奏子は口をつぐんでいた。何を話せばいいのかわからない。
ただ、奏子は清志郎に逢いたかったのだと。
ずっとあの日から奏子は清志郎に……。
でも、それを口にすることは奏子にはできなかった。
そんな奏子の心中を察するように、清志郎もまたそれ以上の会話を望まなかった。
ただ、奏子が目の前にいてくれればそれでいい。
清志郎もまた奏子に逢える日だけを待っていた。
奏子が、
『お久しぶりです。阪井奏子です。
今日午後三時頃、『PRIMEVERE』に行きますのでよろしかったらご一緒しませんか』
というショートメールを清志郎に寄越すのに、奏子はどれほどの勇気がいっただろう。
それは清志郎の目の前で華奢な肩を落とし、うつむいてアイスティーを黙って飲んでいる奏子の表情が全てを物語っている。
「最近、白石雄が『冬の山でシリウスを』という本を出したことはご存じですか?」
「ええ。彼の新刊は全てチェックしています。いつもの恋愛小説とはまた趣が異なった面白い小説でした」
清志郎の言葉に初めて奏子は清志郎の顔を見つめて言った。それから、『冬の山でシリウスを』の感想を奏子は語り始めた。白石雄の作品の話には饒舌になる。
そして、すっかり話し込んでいたら、清志郎がふと尋ねた。
「阪井さんは家では何をされているのですか? 失礼ですが、ご家族……お子さんはいらっしゃらないのですか?」
それまでのくつろいでいた雰囲気が瞬間、固まった。
「子供は、いません」
その奏子の思い詰めた表情に、清志郎は何かを感じたのだろう。清志郎は暫く黙っていたが、しかし言った。
「僕にも子供はいません。外科医だった妻が仕事に生き甲斐を求めて、子供を望まなかったんです」
「それは……。佐伯さんもそれで良かったんですか?」
「いえ。僕は子供が欲しかったので、妻とは何度も話し合いましたが、平行線のまま、妻は」
そこまでで清志郎は口をつぐんだ。
「外科医……。ご立派な奥様だったんですね。私など大学を卒業して仕事にも就かずに、今でも家で音楽を聴いて本ばかり読んでます」
「音楽は素晴らしい趣味です。そして、読書はいい。本は心を豊かにし、あらゆることを教えてくれます」
清志郎は、
「阪井さん」
まっすぐに奏子の目を見つめるとゆっくり口を開いた。
「本当は、ずっと前から。貴女を知っていました。僕はここに越してきてから、ここに通うようになった。そして。いつの間にか貴女が時々、この席で一心に本を読む姿に気づいたんです」
清志郎は、ラテのカップをテーブルの上に置くと言った。
「貴女が本を読む姿は実に美しい。本の世界に入り込んでいることがよくわかります。僕も本をこよなく愛しているから。わかるんです。そして僕は、貴女が何の本を読んでいるか盗み見るようになった。貴女が特に恋愛小説が好きなことも程なくわかりました。そして、白石雄が殊にお気に入りだということも」
淡々とそう語る清志郎の様子に、奏子はただ目を見張った。
「私……。すみません。用事を思い出しました。これで失礼します」
奏子はそう言って、まだ半分しか飲んでいないアイスティーのグラスの乗ったトレーを持って立ち上がった。
「奏子さん」
清志郎のその呼びかけは奏子の胸を貫いた。
「失礼なことを言いました。許して下さい。でも」
清志郎は、振り返った奏子の瞳をやはりまっすぐに見つめて言った。
「でも、僕は貴女を『奏子さん』と呼びたい。そして……貴女にもできれば僕のことを『清志郎さん』と呼んで欲しい」
「清志、郎……さん」
「ここでまた逢える日を楽しみにしています」
清志郎の目と声は澄んでいた。
「……失礼します」
奏子は清志郎から目を逸らし、身を翻した。
そんな奏子の後姿を清志郎がずっと見つめていた。
作中挿画はちはやれいめい様が「AIくん」を使用して作成してくださいました。
ちはやさん、素敵な奏子をありがとうございました。