強引な彼 ☆
それから数日後。
奏子は午前中、洗濯・掃除・浴室のカビ取りなどルーティンな家事をこなしながらぼんやり考えていた。
『PRIMEVERE』にランチに行こうか。ここ暫く梅雨の長雨でろくに外出もせず、ストレスを溜めている。普段から『PRIMEVERE』にはよくお茶に行くし、週に一回は軽いランチを摂っている。何も迷う必要はない。
なのに。もし、あの人と……。
佐伯清志郎と偶然、顔をあわせたらどうしよう。
しかし、奏子は思い立って寝室のドレッサーの前に座った。
軽くパウダーをはたき、チークを入れ直す。そして、お気に入りのディオールのローズ系の口紅を筆で丁寧にひいた。
服は普段着のリネンのマキシワンピース。それでいい。
ちょっと外出する時使っている斜めがけの小振りの黒いレザーポシェットにハンカチ、ティッシュ、口紅と鏡に文庫本が一冊が入っているのを確かめると、鍵とスマホと財布を入れて奏子は家を出た。
久し振りに晴れた今日。まだ午前十一時というのに外の日射しはかなり強く、そろそろ梅雨明けも近いのだと奏子は思う。
顔はSPF50の下地とクリームファンデでメイクをしているが、体に日焼け止めを塗るのは好きではない奏子は、携帯用ではない大きな黒い日傘をさしてカフェ『PRIMEVERE』へと向かった。
『PRIMEVERE』と白抜きで書かれた黒いプレートが掛けられている木製のドアを開ける。そう広くない店内をぐるりと見回す。清志郎の姿はない。
一瞬微妙な感情を覚えた自分を無視して、奏子は店の一番奥のいつものテーブルにハンカチを置いて席を確保した。
『PRIMEVERE』は、自家製ベーカリーとソフトクリームが売りの準セルフカフェで、パスタやカレー、オムライスランチがある。
ここのベーグルが特に好きな奏子はそれと紅茶でランチにすることが多いのだが、今日はオムライスと珈琲にしようとレジでオーダーを告げ、ランチ代を払おうとした。
その時。
横から、二枚の千円札を出し、
「僕もこの方と同じオムライスと珈琲で」
と、ウエイトレスに告げ二人分の料金を払い、二つの珈琲カップと縦置きの番号札が乗ったトレーを受け取ったのは、誰あろう清志郎だった。
「佐伯さん……! 出して頂くわけにはいきません」
そう言って奏子は慌てて三つ折り財布からお金を取り出そうとした。
しかし、清志郎は、
「こんにちわ、阪井さん。同席してもいいですか?」
と、笑んだ。
その涼やかな瞳で爽やかに笑む清志郎に、奏子は一瞬で惹きつけられた。知的でアンニュイな雰囲気。奏子をじっと見つめる優しいアーモンドシェイプの黒い瞳。
その瞳に吸い込まれるように、自然と奏子は席に座っていた。
しかし、
「佐伯さん。やはりランチ代を出して頂くわけには参りません」
と、奏子は千円札をテーブルの上に置いた。
「貴女は律義な人ですね。この程度のランチ代くらい、男が出して当然と思う女性の方が多いと思うのですが」
「一方的に男性に奢られて良しとは私は思いません」
奏子はきっぱりと言い、千円札をすっと清志郎の前へと進めた。
すると清志郎はフッと溜息を吐いた。
「貴女は素敵な女性だ」
「え……?」
清志郎のウェットな色を滲ませるその一言に、ドキリと奏子の胸が鳴る。
「わかりました。僕も貴女とは対等なおつきあいがしたい。ランチは八百円だから、お釣りは受け取って下さい」
と、二枚の百円硬貨を奏子の前に差し出した。
「頂きます」
奏子は今度は素直に清志郎の言葉に従った。
そうしている間に、ウエイトレスがオムライスとサラダ、ブルーベリーソースのかかったミニヨーグルトのランチを運んできた。
「食べましょう」
そう言うと、清志郎はオムライスのケチャップをスプーンで薄く伸ばすと、早速口に運ぶ。
奏子も珈琲を一口飲んだ後、スプーンを手にした。
「五日ぶりですね」
「そうですか?」
「ええ。五日です」
清志郎は、強調するようにそう言った。
「五日前、ここでラテを飲んでいる時に貴女と出逢った。……いや」
清志郎は一瞬、言い澱み視線を泳がせた。
しかし、何事もなかったように清志郎は言った。
「ここの自家製パンは美味しいですね。でも僕はオムライスが好きなんですよ」
「そうなんですか。私……オムライスはよく作ります。主人も好んで食べてくれます」
頬を染めるように奏子は言った。
「私より五歳も年上なのに子供みたいな人なんです。カレーやシチューやハンバーグが大好きで。私が作る気まぐれな料理を美味しい、美味しいって食べてくれます」
「男はそんなものですよ。好きな女性が自分の為に作ってくれる料理が世界で一番美味いものです」
清志郎はスプーンの手を止め、奏子の目を見つめて言った。
「僕も貴女の作るオムライスが食べてみたい」
そのストレートな視線を奏子は受け止めることができなかった。
思わず手元のコップに手を伸ばす。
「失礼。お水のお代わりをついできます」
そう言って、その場を離れた。
どうして。
どうして、あの人はあんな瞳で私を見つめるの……。
あんな熱い瞳を見るのは、そう旭良以外に奏子は会ったことがない。
奏子は女子校育ちで、奥手な奏子は中高時代は女友達しかいなかったし、大学で合コンなどに参加してアプローチを受けても深い交際には発展しなかった。
体が弱いせいもある。奏子は小さい頃から虚弱体質で何事にも積極的に行動することが難しかった。
大学卒業後はいわゆる『家事手伝い』として家の中でひっそり過ごしてきた奏子に、会社の部下との見合い話を持ってきたのが奏子の父・三田功造だった。
旭良は功造の勤める会社の中でも抜きん出ていて、将来の出世の可能性は高い。旭良になら奏子を任せられると思った功造が半ば強引に進めた見合い話だったが、幸いだったのは当の二人の相性が良く、それは自然恋愛へと発展したことだった。
作中挿絵は汐の音さまに描いて頂きました。