【2】雨の夜に思い出す
王侯貴族たちが権力争い事をしていても庶民の暮らしは然程変わりはしない。
宰相ディミリオ・ユーグレンは娘の側妾と孫の第四王子への溺愛に目を瞑れば政には優秀な男と言える。
長引く戦争に不安や不満を持つ人々は少なくはないが目立って大きな暴動や問題が起こる事はなく、殆どの国民が変わらない日々を過ごしている。
毎日夜明けごろには起床してボーキンスの酒場に行き、朝食や昼を食べに来るお客の相手をして酒や料理を出して注文を取り掃除をしたり買出しに行ったり、客足の多い日は深夜近くまで家に帰れない時もあるが、そんなどこにでもある毎日がエステルの日常だ。
物心つく頃にはすでに両親はおらず、燻んだ灰銀色の髪と紺色の瞳から大陸北部の山岳民族の出ではないかと言っていたのは、当時の雇い主だった海のある国のもう名前も覚えていない小さな町の酒場の老主人だったと思う。
エステル自身に両親の記憶はないし、気がつけば『エステル』と呼ばれていた。
エステル自身その事を恥じたり悲しんだりする事はないが、時折ふと自身のこれまでを振り返った時に泣きたくなるような、何とも言い表せない感情に襲われることがあるぐらいだ。
のちに町が海賊が何かに襲われて燃える町から死に物狂いで逃げた先で運良く大陸を縦断する大きな商隊の飯炊き係兼雑用係として雇ってもらうことが出来た。
大陸中の国々を旅して商いをする商隊ではいろんな物を見たり触れたりすることが出来き、少しの読み書きも教えてもらった。
数年して商隊がアキレア王国に入国した際、国境を越えて直ぐに立ち寄った村で若い女の働き手を探していると耳にした当時の隊長がエステルを村に残して行った。
エステルに読み書きを教えてくれたその隊長は村がのちにその村の嫁として若い女を必要としている事を知り、村に置いていった方が幼いエステルには良いと思ったのだろう。
商隊は僅かばかりの金銭を村長から受け取りエステル達数人の少女達へ村に残る様に伝えるとまたどこかの国へ向け旅立って行った。
村の人たちは人種も祖国も定かでないエステルに良くしてくれた。
農業や酪農等が主要産業のその村では女子供も立派な働き手で、作物の穫り入れから家畜の世話など仕事はたくさんあった。
小さな飢饉や干ばつは起こるが、基本豊かな土壌をもつアキレアは貴族農民に関わらず全ての成人男子が一定期間の兵役義務があり適齢期の女子には出産と子育てを推奨する国だ。
貴族階級になると成人の15歳まで中等教育が義務付けられており、成績優秀な者は高等教育機関へ進み文官や士官として王宮勤めとなる。
商隊で読み書きを覚えていたエステルに村長は村から通える町の幼年学校にも通える様にしてくれた。
すぐ近くの国境を挟んだ隣国シプーベルとの関係があまり良くない事以外は村での生活はそれまでで一番平穏だった。
親もなく生きてきたがエステルは自分がそれ程不幸だとは思っていない。
辛い事や悲しい事は沢山あった、大人が皆みなし児に優しい訳ではない事も身をもって知ってる。それでもエステルは幸いにも本当に困った時や生死を分ける様な転機の時に優しい大人に出会う事ができたから今自分が生きていて、これからも自分の力で生きていけるのだとも思っている。
王都でたまに目にする事のある戦火を逃れてきた流民の子供達に女将さんの目を盗んでパンを持たせたりしてしまうのはそういった過去の生い立ちゆえだ。
エステルは基本自分より弱い立場や傷ついた人を見過ごす事が出来ない。
だからあの夜も傷を負って倒れていた彼をそのままにする事が出来なかった。
◆◆◆
「んっしょ!あ〜、重いっ!!」
ドサっと音を立て、お世辞にもお客を寝かせられる様な柔らかく上質な寝床とは言えない自分の寝台に男を引き上げた。
傷の手当てをした際に雨でずぶ濡れの外套と服は脱がせた。…下着には手をつけていない。
エステルとて所謂「年頃の娘」だ。緊急時で致し方ないとはいえ、異性の服を脱がせる作業にも羞恥心ぐらいもつ。
高熱が出ており、右腕の怪我の手当てをする間彼は一度も意識を取り戻さなかった。
剣で切られたと思われる傷は圧迫してもなかなか出血が止まらず、傷口を消毒して縫うしかないと直感で判断した。
裁縫用の針の中から太い針と糸を煮沸消毒し細い糸を何重にもして開いた傷口を綴じ合せる。
傷口が一部紫色に変色している事が気になった。
ランプの明かりと部屋を温める暖炉の火しか患部を照らす物のない薄暗い室内で傷口を縫う間にもどす黒い色へと変わっていく。
縫合を終え、湯で温めたタオルで彼の身体を一通り拭いて血や泥を落とし寝台へ転がした。
「はぁ…。後は、アレね…」
時たま薬屋の薬草集めの手伝いで北の森に行くのでエステルの家にはいくつかの薬草や薬が置いてある。
「…とりあえず、コレとコレと…」
薬草のある棚を見つめて暫し考え込みいくつかの薬草を取り出して手際よくそれらを刻んで火にかけた鍋に放り込み煮詰めていく。
煮詰まる間に別の棚から取り出した薬草を刻み潰し、出た汁ごと手巾で包んで傷口に擦り込む様にして当てる。
右手首に触れて脈を取る。
ドクッ、ドクッ、ドクッ。
生きている。