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【序】

それは冬の冷たい雨の日だった。


「くそっ」


斬りつけられた右腕が酷く痛む。

傷口からの出血は止まる様子もなく、ドクドクと普段より速く脈打つ心音が傷ついた血管から伝わってくる。

外套のフードを深く被っていても叩きつける様に降り続ける雨のせいで身体はずぶ濡れだ。


「くそっ、どこで情報が漏れた!」


此処に長く留まる事は危険だ。


すぐに移動しなければ。


自分を逃す為にあの場に残った若い部下達の事も気になった。


だが、今あの場所に自分が戻ってどうなる。彼等の誠意を、忠誠を踏みにじる事は自分には出来ない。


身体の震えが止まらない。出血は止まらず、右手の感覚も鈍い。

これは本格的にまずくなってきたなと思う。

奴らの剣先に毒でも塗ってあったのだろう。これは自分の失敗だ。その所為で2人の部下が即座に命を落とした。


これ以上歩き続けることも立っていることも出来ず、路地の建物に背中を預けるとズルズルと倒れ込むように腰が落ちるが、座っている事も無理だった。


倒れ込み、視界が霞むのは地面に叩きつけ飛沫をあげる雨のせいだけでは無いだろう。

傷口から毒が全身にまわっている。

剣で斬り付けられた傷が火傷をした様に熱い。止血と毒抜きが甘かった。


追っ手はすぐそこまで迫っているのか。


此処がどの通りなのかも今の自分には判断がつかない。


後に死線と呼ばれる戦場へは何度も行った。


刺客を差し向けられた数は両手足の指の数を遥かに超えた。


毒を盛られたこともこれが初めてじゃない。


毒への耐性は物心ついた頃には訓練をされ幾度と死にかけた。


だが自分の判断が自分と仲間の命を救ってきたはずだった。


それがどうだ。今の自分には部下達と連絡を取る手段さえ浮かばない。


人の気配が近づいてくる。


「こんな所でっ」


頭は身体に起きろと命じるが、王都ではこの時期記録的な豪雨の中で水気を存分に吸った外套が身体を地面に押し潰す様にへばり付いて動けない。目を開けている事さえ出来ない。


時刻は深夜。


この豪雨の中で出歩く民間人はいないだろう。とすれば。


足音が間近で止まる。


気配はひとり分。


ふと、身体に降り注ぐ雨が止んだ。その瞬間左手で短刀を力の限り振り上げる。


「まだっ、死んでたまるか!」


あいつをこの手で殺すまで。


相手の気配と息遣いから推測した体格の急所を狙ったが、手応えはなかった。








◆◆◆



幾度と見る夢がある。


母が死んだ庭園の四阿で幼い自分が父の膝に乗っている。


「すまない、レイ。…すまない」


いつも夢で父は泣きながら謝るのだ。幼い自分を抱きしめて。

それを今の自分が少し離れた場所から眺めている。


自分と父の容姿は瓜二つだとしみじみ思う。


そうしていつも母が言っていたなと思い出す。

クセのない黒髪、薄い紫の瞳。

父が幼い自分を膝に乗せているのを見て、まったく貴方は私のお腹から産まれたとは思えないぐらいお父様にそっくりねと言って微笑んでいた。

この角度から見た耳の形まで瓜二つ。


幾度となく繰り返し見る夢なのに、時々こうした新しい発見があったりするのだから不思議だ。


庭園は薔薇の盛り。


母が好んだ季節。


むせ返る様な薔薇の香りで窒息しそうだった。


繰り返し見る所為でその時が何度も何度もあったように感じるのだが、実際は一度きり。


母が死んだあの時の事だ。


母が死んだことは悲しい。それと同じくらい父が母を想って涙する姿を見ることは悲しかった。


美しく優しい母。


力強く大きな父。


幼い自分にとってこの二人は世界の中心にいた。


父には母の庭園のほかにも美しく香り高い花々が咲く庭園がいくつもあった。

その庭園を飛び回る害虫や庭園で生まれた自分以外の父の子らも。


幼い自分と母と父。


自分たち家族を取り巻く状況は常に複雑で、いつも他者の思惑が見えない糸の様にこの身に絡みついて絡みついて絡みついて絡みついて絡みついて容易には解けない。

強引に断ち切ろうものなら、忽ちその糸によって四肢が切り刻まれるのは明白。


だが遂にそれに耐えられなくなった父の所為で母が死んだ。いや、殺された。


目を瞑らずとも容易に思い出す。


日課の母との茶会に訪れたこの四阿で、母お気に入りの薔薇茶の匂いと鉄臭い匂いを嗅いだ。


自分の後ろを屋敷からついて来た侍女の叫び声。


駆けつける護衛騎士たちの甲冑の音。


執事か侍女の誰かが殿下を中へ言って自分の視界から母の居る四阿を隠す。


護衛隊長が父への早馬を誰かに支持している。


今来た道を屋敷の方へと侍女に手を引かれるのを振り切って四阿の中へと駆け込んだが、濡れた地面に足を滑らせて顔から倒れ込む。


両手をついて起き上ると手の平や顔や服にべったりと赤い血がついた。


母が好んだ真紅の薔薇のような色をした血。


倒れた時に口の中を切ったのか、または顔についた血が口に入ったのか、口の中いっぱいに鉄の味が広がった。


ねっとりとして生温かいそれが母の血だと、母が死ぬまで流し続けた血だと理解した時には早馬の知らせを受けて王都から駆けつけた父の母の名を泣き叫ぶ声が庭園中に響いていた。


夢の中の父はいつも幼い自分を抱き締めて亡き母を偲ぶ。


母を想って悲しむ父の姿を見るのは悲しい。が、それと同時に。


「父上、貴方は…」


本当に愚かで、哀れで、憎らしい。







◆◆◆


「ちち、…うえ、……ははうえ…」


額に乗せた手巾を取り替えようと伸ばした手が思わず止まる。

気が付いたのかと思ったが、どうやら違うらしい。うわ言だった。


一体どれだけの時間を冬の冷たい雨が降る中、身体を濡らしていたのだろう。

女の自分が長身の彼が纏う雨で重くなった外套を脱がすのは一苦労で、彼の服が全身血に染まっているのを見た時は背筋が凍った。

彼の身体は雪の様に冷たくて、右腕の傷はそれは酷い状態だった。


深夜をだいぶまわったこんな時間に呼べる医者も居らず、以前雇ってもらった農場で怪我をした家畜の足の傷を縫った経験から彼の傷も縫い合わせ薬草を塗ったが如何せん素人の手当てだ。

明日の朝一で医者を呼んでこよう。

ギザン先生なら酒場のツケを理由に多少の無理は聞いてくれる筈だ。

朝が弱いあの老先生を叩き起こして家まで連れてくるのはひと仕事だが仕方がない。


自分の寝台で眠る彼の全身は燃える様に熱く、高熱にうなされている。


夢でも見ているのかしきりに両親か誰かの名前をうわ言の様に呼び続けている。


土砂降りの雨の中、仕事を終えて帰宅した家の前に横たわる黒い塊が人だと気づいた時は驚いた。

しかもその人は怪我をしていた。

王都の片隅で日々の労働を糧に生きる庶民の自分が見ても分かる、曰く訳ありげな傷をおった行き倒れは男の人で、虫の息。

知らないフリをして明日の朝にでも死体で発見されては王都の治安を守る第三師団の単細胞の脳筋憲兵あたりにしょっ引かれるのは、…まず私だろう。


長身の彼を家の中へ引きずり運んで、寝台に乗せるのには大変苦労したが、今は兎にも角にも彼に死なれては困る。


取り替えた手巾を変わらず熱を持つ額に乗せた時、開いた彼の瞳と目があった。

一瞬目があったと思ったが、高熱のせいで目が虚ろで視線が定まっていない。


「きれい…」


それはまるで宝石の様な澄んだ紫色をした瞳、エステルはその瞳に映る自分の姿が急に恥ずかしくなってしまった。


生まれて此の方、濁りのない澄んだ紫色をした宝石などは実際にこの目で見た事はなかったが、この表現が一番ぴったりだと思った。

そんな宝石の様な瞳に映る自分のみすぼらしさときたらと思うと苦笑しか出てこないが、それはそれで仕方がない。


毎朝丁寧に櫛を通しても昼頃には絡まってしまう燻んだ灰銀色の髪を後ろでゆるくまとめ直しサイドからこぼれた一房を耳にかけ、家に一脚しかない椅子を寝台の脇に運んで腰を降ろすと、改めて訳あり行き倒れ男の顔を観察することにした。


顔についた汚れを拭き取った時にも思ったがこの男大層な美形だ。


酒場に来る常連の第二旅団の騎士たちも大概顔が整っていると思っていたが目の前の男はその数段上をいく。


なぜそんな美形がこんな王都の片隅の、通りからも離れた路地のボロ屋の前に倒れていたのか不思議な所だが、この男がどこの誰でなぜ酷い怪我を負っていたのかなど酒場で給女をする自分が考え悩んだ所で何一つ分からない。だから考えるのは、願うことはひとつだけ。


「死なないで」


いつのまにか雨はやんでいた。









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