① 『そばにいるべき人』
◇◇
本来ならば、「ヘイスター陥落」の一報が、ヴァイス帝国とリーム王国の戦争の始まりを告げる号令となるはずであった。
その為、山岳地帯の国境線では両国の主軍が睨み合いを続け、その時を今か今かと待ち望んでいたのである。
帝国軍については、アルフレド・ヴァイス皇帝の次男、パオリーノ・ヴァイス第二皇子を総大将とした30000の大軍が待機していた。
その参謀は『氷血の姫将軍』アンナ・トイ少将。
小雪がちらつくある日の午後。
ついに彼女のもとに待ち望んだ伝令がやってきた。
しかしその伝令からもたらされた報せに、普段はめったに感情を表に出さないアンナですら、驚愕に口を半開きになってしまったのだった。
その報せとは……。
「ヘイスターが王国軍に勝利! 敵の大将、デュドネ少将を討ち、王国軍を壊滅させた模様!!」
「な、なんですって……」
ありえない……。
その報せに誰もが自分の耳を疑ったことだろう。
なぜなら『エサ』が獣を食ったのだから。
そしてそんな奇跡をもたらせる人物の名を、彼らはただ一人しか思いつかなかったのである。
「少将を討ち取り、ヘイスターを勝利に導いたのは、ジェイ・ターナーとのこと!!」
アンナの細い目が大きく見開かれる。
だがすぐさま元通りの色のない瞳に戻すと、口元を不気味に歪ませた。
「……残念だわ。戻ってきてしまうなんて」
青藍のマントをひるがえし、足早に本陣を後にする。
その後、彼女は整列する兵たちに向けて、鋭い声で命じたのだった。
「全軍、帝都に向けて進軍せよ」
その声にかすかな興奮の色が混じっていたのを、誰が気付けるだろうか。
もしかしたら彼女自身ですら自覚していなかったかもしれない。
それほどまでに『蘇った彗星』の報せはヴァイス帝国とリーム王国の人々の心を震撼させたのである。
「帝国軍は撤退した! ならば我が軍も王都に戻るぞ!」
帝国軍が引いたことで、王国軍もまたその場を去っていく。
こうして戦争の大義名分を失った両軍は、国境線からの立ち退きを余儀なくされた。
つまりヘイスターの勝利によって、両国の戦争は回避されたのであった――
◇◇
一方。
俺、ジェイ・ターナーは腹に負った深手のせいで、生死の境をさまよっていた。
もちろん意識などない。
いわゆる夢の中で、俺は君との再会を果たしていたんだ。
――この姿で会うのは久しぶりね。
薄茶色の髪が、そよ風にさらさらと揺れている。
どうやらここは小高い丘の上のようだ。
微笑みを浮かべる君が鉄製の椅子に腰かけ、優雅に紅茶を楽しんでいるのが目に入る。
俺は吸い寄せられるように君のもとへ近寄ると、空いているもう一つの椅子に腰かけた。
――戻る気なの? 醜く汚い泥沼の中に。
さらりと問いかけてきた君に、俺は苦笑いを浮かべる。
それを見た君は、目を細めた。
――ふふ。もしかして惚れちゃった? あの子に。
俺は目を見開き、首を横に振る。
――ふふ。ごめんね、意地悪なことを言って。
もう一度、首を横に振る。
すると君は悲しげな色を瞳にともして続けたんだ。
――あなたが心配なの……。あなたの翼は純白だから。
俺は初めて口を開いた。
――君を失ったあの日から、俺の全てに色はないさ。
今度は君が首を横に振る。
――いえ、あなたには誰にも負けない色がある。だから私はあなたに全てを捧げたの。
――さあ……。どうだかな……。
――もしあなたが醜い泥沼に戻ると決めたなら、約束してちょうだい。
君が俺を優しく抱きしめる。
ふわっとした柔らかな感触に包まれた。
そして君は俺の耳元でささやいた。
――その大きな翼で、自由にはばたいて。泥の色には染まらずに……。そして見たこともない景色を見せてちょうだい。
少しだけ離れ、顔を見合わせる。
俺は穏やかに問いかけた。
――それはどんな景色なんだい?
――ふふ、それは私にも分かりっこないわ。だって見たことがないんだもの。
――ははは、そりゃそうだ。
君の口元に笑みが漏れる。
それが眩しくて、俺は思わず目をそらしてしまった。
でも、君はそんな俺の仕草すら愛おしそうに見つめてくれたんだ。
――負けないで、ジェイ。私はここでずっと見守ってるから。
――まだ君のそばには来るなってことか?
――ふふ。そうね。それにあなたがそばにいるべき人は、私じゃないわ。
――それは誰だい?
――さあ……。誰かしら?
いたずらっぽく笑って、君は元の姿勢に戻った。
ゆっくりと紅茶の入ったティーカップを口元に運ぶ。
そして一息ついたところで、俺に笑顔を向けた。
――さようなら、ジェイ。これでお別れよ。
嫌だ、なんて言わせてくれるはずもない。君の気の強さはよく分かっているつもりさ。
それに俺はずっと前に君とお別れしたじゃないか。
それなのに……。
なぜ涙が止まらないのだろうか。
しかし、なぜ俺は消えゆく君を追いかけないのだろうか――
………
……
「ジェイ!」
突然目の前に飛び込んできたリアーヌの泣き顔に、強がりの笑みを浮かべるのが精いっぱいだった。
後から知ったのだが、俺は、十日間も意識を失っていたらしい。
その間、リアーヌがほとんど寝ずに看病してくれていたそうだ。
そして俺が寝かされていたのは町の酒場。ここをリアーヌたちも仮の屋敷として暮らしているそうだ。
「泣くな……。せっかくの可愛い顔が台無しだぜ……」
「ばかっ!」
リアーヌが俺を強く抱き締める。
その温もりに、俺は戻ってきた実感を噛みしめていた。
「ごっほん!」
ヘンリーがわざとらしい咳払いをすると、リアーヌがぱっと俺から離れた。
そして顔をリンゴのように真っ赤に染めた彼女に代わって、彼は俺の前に立った。
しかし目を合わせようとはせず、気まずそうな態度だ。
「あの……。その……。……あの時は、ごめんなさい」
消え入りそうな小声。それでも彼の謝意は痛いほど伝わってきた。
俺は寝たまま右手を伸ばすと、彼の腰をパンと叩いた。
「貴族たる者。もっとしゃきっとしなくちゃダメだ。そんなんじゃ、女にもてねえぞ」
目を丸くした彼に、俺はニヤリと口角を上げる。
顔を引きつらせた彼は、口を尖らせた。
「う、うるせぇ! お前に言われなくても分かってるからな! 余計なお世話だ!」
「そうか、ならよかった」
「そ、そんな減らず口が叩けるほど元気なら、早く俺を『弟子』にしやがれってんだ!」
「弟子? ヘンリー殿が俺の?」
突然の申し出に目を丸くしてリアーヌを見ると、彼女は眉をひそめて、小さくうなずいた。
どうやら俺の知らぬうちに、ヘンリーの中で何かが変わったようだ。
「ははは。俺なんかが弟子を取れるような身分ではないさ」
「へんっ! いいからこれは決まりだからな! 早く怪我をなおしてくれよ! 師匠!」
そう勝手に告げたヘンリーは、恥ずかしさを紛らわせるためか、そそくさと部屋を出ていってしまった。
すると部屋の中は俺とリアーヌの二人だけになった。
体をゆっくりと起こした俺は、彼女と向き合う。
頬を桃色に染め、うつむき加減の彼女に対し、俺は小さく頭を下げた。
「すまんな。大切な館を焼いてしまって」
彼女は顔を上げて、ぶるぶると首を横に振る。
そして瞳に涙をいっぱいに溜めて、俺をじっと見つめてきた。
「そんな顔するな。お前さんは王国に勝ったんだぜ。もっと嬉しそうにしてくれや」
「……ばか……」
――トンッ……。
彼女は俺の胸におでこを当てた。
部屋の窓から覗く夕陽が、俺たち二人の影を壁に映している。
俺はそっと彼女の頭をなでた。
「心配かけたな。もう大丈夫だ」
「……もう無茶はしないで……。約束よ」
「悪りいな。俺には守らねばならん約束が多過ぎて、今は新たなものを受け付けてねえんだ」
リアーヌが俺を見上げる。
きゅっと結んだ小さな口は何も言葉を発さなかったが、言わんとしていることは十分に伝わってきた。
俺は彼女の気迫に押されるように苦笑いを浮かべた。
「冗談だよ。約束しよう。もうリアーヌにそんな顔をさせないってな」
――トンッ……。
再び俺の胸にひたいをつけたリアーヌは、小さな声をあげた。
「もう一つ約束して……」
「おいおい。本当にこれ以上は……」
――チュッ……。
これで二回目だ。
彼女の唇で俺の唇が塞がれたのは……。
でも一回目と異なるのは、その唇から伝わってくる感情だ。
弱々しくて、儚さすら感じさせるそれに、俺は目を大きくしてしまった。
そしてリアーヌは、ゆっくりと俺から離れると、胸が張り裂けそうになるような声で懇願してきたのだった。
「……私のそばにいて……。私たち家族が『自由』になるその日まで……。お願い」
と――