③ 『もう一度、希望を持ってもよろしいのでしょうか』
突如として俺の目の前に現れたのは、この町の領主リアーヌ・ブルジェだった。
彼女の鬼気迫る剣幕と幻想的な容姿に圧倒されて、茫然と立ち尽くしてしまったものの、すぐに気を取り直した。
部屋に入ってきたもう一人の方へ目をやる。酒場で見た老紳士だ。
恐らく彼がリアーヌに俺のことを話して、ここまでやって来たのだろう。
俺は「ふぅ」と大きくため息をついた後、短剣を机の上に戻す。そして彼女を諭すように、ゆっくりとした口調で告げたのだった。
「悪りいな、お嬢さん。あいにく俺はもう軍人じゃねえ。行く宛もなく彷徨っている旅人さ。だから力にはなれねえよ。帰ってくれ」
手をひらひらと振り、追い返す素振りを見せる。
しかし、彼女は頑として引くつもりはないようだ。
大股で俺のすぐそばまで近寄ってくると、ますます声の調子を強めて言った。
「リーム王国から宣戦布告の通達があってから早二十日。しかし帝都からは救援がございません! このままではこの町は敵に蹂躙され、多くの民が犠牲となるでしょう! どうかお願いします! 私たちをお助け下さい!」
目に涙を浮かべながら懇願するリアーヌ。
しかし俺は彼女に対して、冷ややかな心持ちを表すように冷めた視線を送っていた。
「いくら頼まれても、無理なものは無理だ。それにお嬢さん。あんた、本当は自分の命が助かりたいだけなんじゃねえか? 敵国が攻めてくると分かってりゃあ、領民たちはみな他の村へ避難するんだろ?」
挑発的な言葉に彼女の表情が険しくなる。
きゅっと唇を噛みしめながら鋭い眼光を飛ばしてくる彼女に対し、俺は淡々とした口調で続けた。
「帝国が『援軍は不要』と決めたなら、それに従うのが国民としての義務だろうよ。そいつを犯してまでして、手助けをしなきゃなんねえ義理なんざ、どこにあるってんだ!? 帰れ!」
彼女は今、はらわたが煮えくり返るような憤りを覚えているに違いない。
頬は桃色に染まり、真一文字に結ばれた唇が微かに震えているのを見れば、火を見るよりも明らかだ。
でも、それでいいんだ。
握りしめたその右の拳で強烈な一撃を食らわせたって構わねえ。
そのままここから立ち去ってくれるんだったらな。
とにかく早く帰ってくれ。
俺を一人にしてくれ。
俺を……。
俺を『自由』にさせてくれ――
しかし……。
「……私は諦めない……。私は絶対に『希望』を捨てない。『現実』に変わるまでは……」
彼女の言葉に、ぐらりと視界が歪むほどの衝撃を受けた。
なぜならそれは俺と仲間たちの間だけの『鉄の掟』だったのだから……。
「その言葉……。いったい誰から……? まあ、そんなことどうでもいい。その希望とやらは、俺以外の人に向けるんだな。いくら頼んでも無駄だ! 早く帰れ!」
語気を強める。
胸の奥底に固く封じられていた感情がふつふつと沸き出すのが自分でもよく分かった。
もうやめてくれ。
俺に構うな。
だが彼女は執拗に俺に細い糸をからませてきた。
「いえ、私は絶対に諦めません! この町の民は、町から出ることを固く禁じられているのです! 元よりヴァイス帝国とリーム王国のどちらの人間か分かりませんから! それにみな故郷を追われて、行くあてもない哀れな者ばかり! たとえ町から出ることを許されても、どこにも彼らを受け入れてくれる町などないのです! そんな彼らを見捨てるおつもりですか! 『彗星の無双軍師』と称えられ、この国の英雄であるあなたが!」
彼女が領民を本気で想う気持ちがひしひしと伝わってくる。
だが俺には自分の『あやつり人形』にしようとしている、としか思えなかったのだ。
「うるせえ!! てめえに何が分かるんだ!! 俺は英雄なんかじゃねえ! 単なる罪人なんだよ!! 皇子殺害を企てた罪人なんだ! だから俺に構うな!」
ついに眠っていた感情が爆発し、咆哮がびりびりと空気を震わせる。
だが彼女はたじろぐどころか、グイッと身を乗り出してくるではないか。
「行き場を失った民が、むごたらしく死んでいくのを、あなたが見過ごすはずない! 私はそう信じております!」
しぶとい……。
鬱陶しい……。
早くどこか行って欲しい……。
「知ったことか! 俺は俺の望むままに生きたいんだ!」
月がもう一度雲に隠れ、辺りが薄暗くなると共に、俺の胸の中も暗闇に覆われていった。
その中で彼女の声だけが、眩し過ぎる光を放ってきた。
「では何がお望みなのでしょう!? 私にできることならなんでもいたします! だから町を救ってください! お願いします!!」
「望みはただ一つ! 早くここから消えろ! それだけだ! もうあんたもこの町も見捨てられたんだよ! 潔く諦めろ!」
「いえ、絶対に諦めません! かつて『彗星の無双軍師』がそうであったように! 民が笑顔で暮らせる日がくるまで……。だから私は……」
彼女はそこで言葉をきった。
背後のカーテンがふわっと浮き上がる。
冷たい秋の夜風が、炎天下の空の下のように暑くなった部屋を冷まそうとする。
しかしリアーヌは、大きな瞳から滂沱として涙を流しながら、より一層燃え上がったのだった。
「立ち向かってみせる! 本当の自由を得るために!!」
その言葉が稲妻となって全身を駆け巡っていくと、先ほどまでくっつきかけていた瞼が自然と見開かれた。
そして脳裏に鈴の音のように響き渡ったのは……。
君の声だった――
――『自由』は立ち向かわなきゃ掴めないわ。
そうか……。
ようやく分かったよ。
なぜ目の前の少女が俺のことを良く知っているか。
犯人は君だったんだな。
君が彼女に何か細工をしたんだろう?
いくつになってもいたずら好きだった君ならやりそうなことだ。
しかし、残念だったな。
俺はもう誓ったんだ。
誰の『あやつり人形』にもならない、と。
だから彼女の心を折らねばならないんだ。
純潔で、気高い彼女の心を折るその言葉を知っている。
なぜなら俺も投げかけられたことがあるからだ。
――私の『モノ』になりなさい。
もうこれしかないんだ……。
そして俺は……。
人間を捨てて、悪魔となるのだ――
しかし俺が口を開く寸前に、リアーヌが床を蹴る大きな音が飛び込んできた。
――ダンッ!!
ぬっと視界に現れたリアーヌの姿に、思わずのけぞる。
「な、なにをする気だ!?」
その問いかけに、彼女は答える気はないようだ。
近い。近過ぎる!
後ずさる俺。それを追いかけるリアーヌ。
そしてついに窓際に追い詰められると、彼女の美麗な顔で視界が埋め尽くされた。
その直後だった――
「んぬっ!?」
なんと彼女の唇が俺の口を塞いだのだ。
それはあまりに突然の口づけだった――
柔らかな感触が唇から全身を優しく包むと、不思議な浮遊感を覚える。
彼女の勇気と覚悟が、唇から心の中へと滑り込んできた。
そして固く閉ざした扉を容赦なくこじ開けてきたのである。
やめてくれ!
もう一人の自分が叫ぶ。だが彼女は止まらない。
彼女が深く閉じ込められていた心の奥底に触れると、まるで堰を切ったかのように熱い感情が溢れ出てきた。
必死にそれを押し止めようとする俺を尻目に、彼女はゆっくりと俺から離れる。
そして……。
――バッ!
ひらりと机の方へ身をひるがえすと、抜き身のままの短剣を手にしたのだった。
「なにをする気だ!?」
言葉を出すのが精一杯だ。
彼女はそんな俺に鋭い視線を突き刺しながら、短剣を長い髪にあてた。
俺は叫んだ。
「やめろ!!」
が、それも無駄だった。
――ブツッ!!
なんと彼女は短剣を横一閃に走らせたのだ。
直後には、命の輝きを放っていたブロンドの髪が、ばっさりと切り落とされる。
そしてその髪をずいっと突きつけてくると、震える声で告げたのだった。
「私の全てをあなたに捧げます! 私はこの身がどうなろうともいとわない! だからせめて民だけは救ってください!」
その言葉を耳にした瞬間、俺の中で何かが音を立てて弾け飛んだ。
さながらガラスのコップを割ってしまったかのような高い音が、余韻となって胸の内に響き渡る。
その合間を縫うようにして聞こえてきたのは……。
また君の声だったんだ――
――私の全てをあげる。その代わり、『争いの世』を終わらせて。
遠い記憶のかなたにある君と、今の彼女が重なる。
皇帝の娘である君に無礼なのは、よく分かっているつもりだ。
でもリアーヌの輝きは、あの時の君とそっくりなんだ。
……となれば、次の言葉もきっと同じだろう。
「民の希望の星となってください! ジェイ・ターナー様!」
やっぱり同じだ……。
となれば俺の返答も同じでなければならないのか。
いつの間にか雲間から顔をのぞかせた月が、リアーヌを青白く照らしている。
まるで月光となった君が彼女を包みこんでいるようだ。
そうか……。
やはり君は最初から俺をここに導き、そして彼女と引き合わせたんだな。
俺に本当の『自由』とは何かを教えるために――
それまでの激しい口論が嘘のように、部屋は静寂に包まれていた。
しかし俺の心の中では、溢れ返った感情が轟音とともに全身を駆け巡っていたのだ。
静かな緊張感が部屋の中に張り詰める中、ついにそれが口から吹き出したのだった。
「ふふっ……」
かすかな笑みの直後に、大きな笑い声が爆発する。
「わははははははっ!!」
リアーヌが大きな目をさらに大きくして俺を見つめている。彼女の背後に立つ老紳士もまた、ぽかんと口を半開きにして俺を凝視していた。
そして天井を見上げれば、そこには君の姿もある。
三人の顔を見て、俺は自分の『負け』をさとった。
しかし不思議と歯ぎしりをもよおす悔しさや、打ちひしがれた敗北感は覚えていない。
むしろ湧きあがる高揚感に、笑いが止まらなかったのだ。
「わはははははっ! そうか! 俺は負けたのか! わははははっ!」
今の俺の様子を見れば、誰もが「気がふれてしまったのではないか」と、訝しむことだろう。
現にリアーヌは眉をひそめて、心配そうに俺を見ている。
俺はどうにか笑いをこらえると、一つ大きな深呼吸をした。
そして天井を見上げると、心の中で確かめるように問いかけたのだ。
――もう一度、『希望』を持ってもよろしいのでしょうか?
罠にかかり、裏切られ、そして紙くずのように捨てられた俺。
そんな情けない俺が、誰かとともに『夢』を見てもいいのか?
すると君はこう答えたんだ。
――それはあなたの自由だわ。
肝心な時は、ひらりとかわすところも相変わらずだ。
それでも最後まで抵抗していた肩の力を抜くには、じゅうぶんな答えだ。
これでいい。
ならばもう一度、君の『あやつり人形』になってみるとしよう。
君の言う通りにすれば、本当の『自由』をこの手にできるのか。
それを試してみようじゃないか。
ゆっくりと顔をもとの位置に戻すと、俺はリアーヌの前にひざまずいた。
そして高らかと告げたのだった。
「これまでの数々の非礼。本来ならば死んで詫びねばなりません。しかしもし許されるなら、この命、貴公とこの町の民のために捧げることを誓いましょう!」
そう言い終え、深々と頭を下げる。
すると白くて細い手が、すっと目の前に伸びてきたのだった。
「許すも何も、無礼を謝らねばならないのは私の方です。頭を下げねばならないのは私の方です。身勝手な私をどうかお許しください」
顔を上げると、気まずそうにしている彼女の顔が目に入ってくる。
あどけなさの残る可愛らしい顔と、不揃いな髪があまりにアンバランスだ。
思わずくすりと笑みがこぼれた。
笑うようなシーンではなかったものだから、彼女が目を丸くする。
しかし、どうやら俺が笑った理由がすぐに伝わったようだ。
ぷくりと頬を膨らませると、ぷいっと顔をそむけた。
「もうっ! 仕方ないじゃありませんか。そんなに笑わないでください」
その様子がおかしくて、俺の笑い声が大きくなる。
すると彼女もまた観念したかのように、笑顔になった。
まるで春の陽射しのような、温かくて柔らかな笑顔だ。
それも君にそっくりだったんだ。
俺は差しのべられた彼女の手を取りながら、その笑顔に誓ったのさ。
『希望』を『現実』に変えるまで戦い続けることを――
◇◇
『追放軍師の無双逆襲 ~追放された天才軍師、落ちぶれ貴族令嬢と出会い、国境線から逆襲をはじめる~』
いよいよここに開幕。
イラスト:甲斐 千鶴さん
御一読いただきまして、まことにありがとうございます。
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