⑧ 『決別の雨』
◇◇
俺は予感していた。
パオリーノ殿下と敵対する未来を。
ならば今のうちにやっておかねばならないことが一つある。
それは……。
リアーヌとの決別だ。
この先、俺と親密な関係にあると知れれば、必ずや彼らは彼女に危害をおよぼしてくるはずだ。
そうなる前に、彼女と俺は縁が切れていなければならない。
それに彼女はジュスティーノ殿下との婚姻が決まり、処刑台から自由になる未来が待っているのだ。
つまり彼女の希望が現実に変わる瞬間は、もうすぐそこまできている。
それは俺の希望でもあるんだ。
目の前でその瞬間を見ることが叶わなくなってしまうのは少し寂しい。だが、それでも彼女があの眩しい笑顔で過ごせるならそれでいいじゃねえか。
「だから決別しなきゃなんねえんだよ」
雨模様の空を見上げながら、俺は想いを馳せた。
俺は俺の空を自由にはばたくのさ。
なあ、それでいいんだろう? クローディア。
それが愛しき君との約束なんだから……。
………
……
パオリーノ殿下の部屋から出た俺は、リアーヌの部屋へと足を運んだ。
しかし正面からは入らず屋上から縄を下ろし、目的の部屋のバルコニーに降り立ったのである。
それは前にヘンリーがこっそりと耳打ちしてくれた「姉さんを驚かせる方法」というやつだった。
まったく俺の趣味ではないが、堂々と彼女の部屋に出入りしているところを他人に目にされると、それはそれで面白くない。
――コンコン。
窓を軽くノックする。
すると部屋着の彼女が目を丸くして俺を見てきた。
肌の露出が多い薄手だ。
彼女の華奢な体格が普段着の時よりもよく分かった。
――シャッ!
乱暴にカーテンが閉められる。
そのまましばらく待ちぼうけを食った。
そして次にカーテンが開けれた時には、彼女はいつも通りの外行きの格好で現れたのだった。
「もうっ! 意地悪しないでください! みっともない所を見られてしまって、恥ずかしいわ!」
いつもと変わらぬむくれ顔だ。
俺は目を細めながら、彼女に頭を下げた。
「すまなかったな。こうしなくちゃいけない事情があったんだ。許してくれ」
「むぅ……。いったい何なんですか? その事情とやらは……」
俺は彼女に促されながら部屋に入った。
年頃の貴族令嬢の部屋とは思えないほどにシンプルで物がほとんど置かれていない。
あえて言えば、可愛らしいラベンダーのポプリが、部屋を爽やかな匂いで満たしているくらいなものだ。
いかにも質素倹約を好む彼女らしい部屋だ。
「この戦いが終わった後、リアーヌはヘイスターから帝都に戻れることになった。そのことを伝えにきたのさ」
彼女の大きな瞳がさらに大きくなる。
だがそれも束の間、あやしむように目を細めた。
「そんなことを伝えるために、わざわざ窓から入ってきたのですか?」
「ははは、そのことは本当にすまなかったよ。許しておくれ」
「もうっ! じらさないで教えてください! いったい何をお話しにきたのですか?」
かすかに彼女の瞳にかげりが見える。
恐らく俺の言葉の続きに嫌な予感を覚えたのだろう。
そこで俺は包み隠さずに話すことにしたのだった。
「帝都に戻った後は、ジュスティーノ殿下に嫁ぐことになるのだそうだ。そして、御父上も解放され、殿下のおそばで奉公できるように取り計らってくれるらしい。よかったな。これで、お前さんは晴れて『自由』だ」
「そう……。そんなこと……」
「なんだぁ? あんまり嬉しそうじゃねえな。せっかく処刑台から自由になれるんだぜ。もっと喜んでもよかろう」
「……もういい。話したいのはそれだけ? ならもう一人にさせて」
ぷいっと背を向けるリアーヌ。
何が気に障ったのか、よく分からない。
だが、話の続きをするには顔を合わせない方が都合がいい。
だから俺はそのまま続けた。
「これで俺の役目も終わりだ」
「えっ……?」
彼女が振り返ろうとする。
しかし今度は俺が窓の方を向き、彼女と目を合わせるのを拒んだのだった。
「だから俺がどこに行こうとも、何をしようとも、もうリアーヌには関係のないことだ」
「どういう意味よ! ねえ、はっきりと言って!」
「この戦いが終わったら、俺とリアーヌ・ブルジェ公は赤の他人ってことだ。誰に何を聞かれても、無関係を貫け。いいな?」
「嫌よ!! 何を言ってるのか、さっぱり意味が分からない!!」
今にも泣き出しそうな悲痛な叫び声がこだます。
だが俺は何も答えずにバルコニーから回収した縄を階下へ垂らした。
そして、振り返りながら言った。
「リアーヌにはもう俺の力は必要ないはずだ。君には誰にも負けない美しい翼がある! その翼で自由にはばたくんだ!」
リアーヌはついに泣き崩れた。
俺の心に痛烈な衝撃が襲いかかった。
ああ……。これで彼女の涙を見るのは何度目だろう。
思えば出会った時も、初めての戦いに勝利した時も、そして帝都に滞在した時も、常に彼女は涙を流していた。
でも、なぜだろうか。
今、目にしている彼女の涙は、これまで以上に胸に深々と突き刺さるのは……。
腹の底から突き上げてくる熱い何かに、思わずめまいをもよおす。
そして、床に黒いしみを作る大粒の涙を、優しくぬぐってやりたいという衝動にかられた。
しかし俺にはできないんだ。
なぜなら俺は彼女の明るい未来にとっての足かせとなる。
だからもう彼女のそばにいてはならないんだ。
彼女の笑顔はきっと弟のヘンリーが守ってくれるはずさ。
あいつならきっと上手くやれる。
もちろんそんなことを口に出すわけにはいかない。
そこで一言だけ彼女に告げたのだった。
「約束だ! 必ず幸せになるんだぞ!」
――バッ!
勢い良くバルコニーの手すりを蹴ると、そのまま縄を伝って下へ降りた。
そして、振り返ることなく領主の館を去ったのだった――
………
……
俺が砦に戻ったのは夕方であった。
今夜はあいにくの雨。
既に辺りは真夜中のように真っ暗になっていた。
耳に響く雨の音、そして漆黒の闇が覆う空。
「……絶好のチャンスだ」
俺は雨を拭きながら仲間たちに向けてつぶやいた。
この時点で察しの良いマリーナやロッコは俺の意図に気付いたのだろう。
ロッコが俺の前にひざまずく一方で、マリーナは眉をひそめた。
「……ジェイ様。何なりとお命じください」
「ちょっとジェイさん、変なことを考えるのはおやめください」
まったく反応の異なる二人の様子に、残りの面々は戸惑っている。
そこで俺は全員にはっきりと告げたのだった。
「今夜でこの『くそみてえな戦い』を終わらせる。その後、休まずにサザランドへ向かうこととする。いいな」
「ジェイ! ちょ、ちょっと待ってくれ! 戦いを終わらせるってどういうことだ?」
ステファンが焦った様子で俺に詰め寄る。
俺は淡々とした口調で返した。
「敵を撤退させる、それ以外に何かあるか?」
「がははは! ジェイ殿! その方法を教えてもらおうか!」
アルバンが身を乗り出してきた。
そこで俺はぐっと声を低くして続けた。
「これより奇襲を開始する」
「ジェイさま。でもここから敵までは距離があるよ。たどりつくまでに見つかっちゃうんじゃないかな?」
「そうだな。敵の目をあざむいて攻撃を仕掛けるのは難しいだろうな」
「ならば、一体どうやって……?」
俺はニヤリと口角を上げた。
そして、さらに声の調子を落として告げたのだった。
「味方に奇襲をかける」
と――