⑦ 『泥まみれの亡者ども』
◇◇
少しだけ話はさかのぼる。
それは第二次ヘイスターの戦いが始まってから7日目の朝を迎えた時のことだ。
「ジェイさまぁ! ただいま戻りましたぁ!」
どんよりとした曇り空とは裏腹に、底抜けに明るいコハルの声がヘイスターの砦の作戦室内に響き渡った。
「んで、どうだったよ」
「うん! リーム王国の軍勢がどどーんと、サザランドに押し寄せてたんだよ!」
その場に集まっていた俺、ジェイと仲間たちの目が鋭さを増す。
だがコハルは緊張感のかけらも感じさせない明るい声で続けたのだった。
「サザランドの三つの砦のうち、一つは陥落寸前って感じ! このままだと持ってあと2日ってとこかなぁ」
「そうか。サザランドの守備兵を指揮しているのは誰だか分かるか?」
「うん! ヴィクトール皇太子さまと、にっくきアンナ・トイ! それに町ではトミーのお坊ちゃんが豪遊してるって噂だよ!」
「なるほど……。ありがとさん」
「うん! じゃあ、ご褒美のちゅーして!」
俺はコハルの頭を優しくなでると、彼女は「ちゅーが良かったのにぃ」と口を尖らせながらも目を細くして喜んでいる。
そんな彼女をよそに、ステファンが苦々しい顔をして言った。
「あからさま過ぎて笑えねえな。パオリーノおぼっちゃんは、実の兄だけじゃなく、トイ家とベルナール家をまとめてぶっ潰そうとしてるってことか」
明らかに悪意のある彼の言葉を、マリーナがため息交じりにたしなめた。
「おやめなさいな。どこに耳があるか知ったことではないのだから。……それより、ジェイさん。まさかサザランドを助けようなんて考えてないでしょうね?」
俺はちらりと彼女を見た。
その視線を受け取った彼女は、俺が何か言い出す前に念を押すように続けた。
「あくまで勘にすぎないのだけど、変に首を突っ込まない方がいいと思うの」
「マリーナの勘は前からよく当たるからな。予知能力でもあるんじゃねえか?」
「冗談を言ってるわけじゃないの。お願い、今は大人しくして。じゃないと今度こそ本当に……」
心配そうにうつむくマリーナ。
俺は右手をコハルの頭から、今度はマリーナの頭にそっと乗せた。
「ああ、分かってるさ」
そして今日も王国軍が微動だにしないのを確認したところで、作戦室を出たのだった。
………
……
砦を出た俺は、パオリーノ殿下との謁見を求めてヘイスターの領主の館に入った。
「やあ、よく来たね。ジェイ大佐」
パオリーノ殿下は、相変わらず戦時下にあるとは思えぬ、爽やかな笑顔で出迎えてきた。
俺は作り笑いでその場をとりつくろうと、彼の指示に従って豪勢な椅子に腰をかけた。
どうやら館が華やかになってきたのは、彼が帝都から次々と装飾品やら家具やらを取りよせているからのようだ。
簡素な方が好みである俺には居心地が悪い。
それを表に出さないようにこらえながら、一つ問いかけたのだった。
「サザランドの町が王国の大軍に攻め込まれている模様です。殿下とルーン将軍は、そのことを御存じでらっしゃいますでしょうか?」
「おや? そうだったのか。それは知らなかったよ」
明るい調子は変わらない。しかし、瞳の奥がわずかに濁ったのを俺は見逃さなかった。
やはり彼の差し金であったか……。
そう確信した俺は、もう一歩だけ足を踏み入れることにした。
「サザランドの守備にはヴィクトール皇太子殿下、アンナ・トイ少将、それにトミー・ベルナール公がついておられるとか。しかし、ずいぶんと守りが手薄のようです。このままでは御三方の命が危うくなるのでしょう」
「ふふ、わざわざ報せてくれるとは……。君の帝国に対する忠義心は見上げたものだ」
「いえ……。ただ、ヘイスターを囲む王国軍はご覧の通りに攻めかかってこようといたしません。ならばこんなところで油を売っておらずに、帝都に待機している軍を動かし、救援に向かわせるべきです」
「ジェイ。これ以上は何も口にするな」
いつの間にかパオリーノ殿下の隣に立ったルーン将軍が口を挟んできた。
「そうか……。そうだったんですか……」
俺は大きなため息をつきながら首を横に振った。
裸一貫で帝都に上ってきた時から目をかけてくれていたルーン将軍。
彼もまた軍に入った当初は決していい身分ではなかったらしい。
だから勝手に親近感を覚え、まるで父親のように慕っていたんだ。
しかし、いつの間にか彼も染まっていたのだ。
醜い泥の色に……。
俺がにわかに軽蔑の目を将軍に向けていると、パオリーノ殿下は突然話題を変えた。
「ジェイ大佐。ヘイスターを見事に守り切ったあかつきには、君に爵位を与えようと考えている」
「爵位?」
「ああ。八歳になる僕の従兄妹のメアリーと君が婚姻する。婿入りした君は晴れて皇族の仲間入りさ。クロ―ディア姉さんと恋仲だった君には物足りないかもしれないが、メアリーもなかなかの美人に育つと思うよ」
「ジェイ。お前には参謀長よりもさらに格の高い、『副将軍』の地位を用意した。だから今は目の前の勝利だけに集中せよ」
俺は爆発寸前の感情を抑え込むのに必死だった。
だから何も口に出せなかったのである。
そんな俺をよそに、パオリーノ殿下とルーン将軍は、上機嫌に続けた。
「リアーヌ・ブルジェだったかな? ジュスティーノの妻に彼女を迎えることにした。彼女の父親を解放し、ジュスティーノの執事についてもらう。ジュスティーノからの提案だが、それを容れようと思う」
「おお、それはいいお考えでございます!」
「ははは! これで彼女も晴れて自由の身だ。どうだ? ジェイ大佐。これで満足だろう?」
俺は表情を気取られないようにうつむきながら、小さな声で問いかけた。
「……お聞かせください。どうして俺はあの時、命を助けられたのでしょう?」
「ああ、あれはアンナ少将が勝手な真似をしてくれたおかげさ。君も運が良い。本来ならば君はジュスティーノ殺害の容疑で処刑されていたはずなんだから」
これでようやく分かった。
彼女がなぜ、俺の心を折ろうとしていたのか。
それは俺をこの泥まみれの亡者どもから遠ざけようとしていたからだ。
そして、俺の仲間たちをちりぢりにしたのも、同じ理由だったに違いない。
……となれば、妹のリナも彼女によって安全にかくまわれているはずだ。
まったく……。
――アンナ、よく覚えておけ。敵をあざむくなら、まず味方からだ。
俺の教えを彼女は忠実に守っていただけにすぎなかったって訳か……。
そう考えを巡らせていると、ルーン将軍の声が聞こえてきた。
「しかし、殿下。結果としてよかったではありませんか。彼は薄汚い貴族共を駆逐する為にひと肌脱いでくれたのですから」
「ははは! それもそうだ! アンナ少将には感謝せねばならないな」
「では、お許しになられるおつもりで?」
「いや、彼女はジュスティーノ殺害を試みた黒幕らしいじゃないか。許すわけにはいかないさ」
「では、どうなされるのでしょう?」
「よし、こうしよう。もし彼女がサザランドから帰還できたなら、このヘイスターの領主の座を与えるとしよう。次の冬までは命を長らえることができる。それも僕からの恩赦だ」
「殿下はお優しい御方ですな!」
「ははは! だが、サザランドから無事に帰還できる可能性はあると思うかい?」
「あははは! それもそうですな! 万が一にもその可能性はございますまい!」
もう一度、大きく深呼吸する。
この場で暴れ出したくなってしまいそうな衝動を抑えつけながら、問いかけを続けた。
「サザランドの町が戦場となれば、多くの領民が命を落とすでしょう。それを知っていても殿下こんなところで、のんびりとお茶をすすっておられるおつもりですか?」
「ジェイ。殿下に失礼だぞ」
ルーン将軍が俺に詰め寄ろうとする。しかし、パオリーノ殿下は彼を制し、変わらぬ笑顔を俺に向けた。
「悪しき習慣をただし、よりよい未来を創るのが、僕ら皇族のつとめ。その為に流さねばならぬ血があるならば、それを拒むことはできないさ」
「つまり己の野望を果たすためなら、死んでもいい命がある。そう言いたいのでしょうか?」
「ジェイ! やめんか!」
顔を真っ赤にしてルーン将軍が怒声をあげる。
しかし怯まずに殿下だけを見つめていた。
殿下もまた俺の視線を受け止め、じっと俺に目を向けている。
そして「ふっ」と小さな笑い声をもらすと、目を細めながら言った。
「いいだろう。この際だ。はっきりと認めようじゃないか。僕には野望がある。それは兄上に代わり、次の皇帝として国をまとめあげることさ」
俺は無言のまま殿下の言葉に耳を傾けていた。
彼は一度大きく息を吸うと、ゆったりとした口調で続けた。
「腐った貴族どもを排し、他人の顔色を見ながら行動することしかできない無能な皇族たちも王宮からは去ってもらう。『強い者』たちだけで、この国を動かすんだ。そうすればこの国は強くなるだろうからね」
「……俺には政治のことは良く分かりません。だから殿下のお考えが正しいのか、そうでないのか、それを判断することはできません。しかし、殿下。一つだけはっきりと言えることがございます」
「ほう、なんだね?」
俺はぐっと眼光を強める。
殿下の口元から笑みが消え、彼もまた瞳に力を入れてくる。
そして俺は地鳴りのような低い声で続けたのだった。
「死んでもいい命なんて、この世には一つだって存在しません。ましてや誰かの野望のための犠牲なんて、くそくらえだ」
「ふふ、ずいぶんとはっきり言うんだね。いいだろう。だったら僕も言わせてもらおう」
「はい」
「誰がどこで何をするのか……。それを決めるのは、全部僕たちだ。『強い者』たちだけが『弱い者』たちの生き方を決められるんだ。だから僕らが『死ね』と命じれば、死なねばならない。それがこの国の永遠の繁栄を生むのだ。決して無駄ではない」
「……ならば俺は殿下のように強くなろうとは思いません。人々が他人の命を尊重し、他人のために喜びと希望を与える、そんな世界に身を置きたい」
そこで言葉が切れる。
互いに突き刺すような視線を交差させると、部屋の温度がぐんと上昇した。
張り詰めた緊張で吐き気をもよおしてきた。
しかしここで負けるわけにはいかない。
醜くて汚い泥沼に、俺は絶対に足を踏み入れない。
それがクロ―ディアと交わした約束なのだから……。
しばらく続く沈黙。
それを破ったのはパオリーノ殿下の笑い声だった。
「ふふ、君は見た目と違って、ずいぶんと若いようだ」
「はは。童顔ってよく言われるんですがね」
互いに笑みが漏れる。
自然と殺気すら漂わせていた眼光が和らいでいった。
「今はそれでもいい。でも、いつかきっと君も理解してくれるはずさ。僕の気持をね」
「ああ、俺も信じております。いつか殿下が俺の気持ちを理解してくれることを」
殿下がテーブルの上のティーカップを取り、口をつける。
同じことをするように目で合図を送ってきたが、俺は首を横に振った。
そして、最後に一つ問いかけたのだった。
「ヘイスターを囲む王国軍が撤退すれば、すぐにサザランドへ救援に向かってもよろしいでしょうか?」
「ふふ、聞くまでもない。サザランドは我が国にとっても大切な町さ。本当ならすぐにでも飛んでいきたいところなんだが、こうも敵に囲まれると身動きすら取れないからね」
「ならば、王国軍が撤退したら軍をサザランドに向けて動かしてもよい、ということですね?」
なおも念を押すと、ルーン将軍が口を挟んだ。
「しつこいぞ、ジェイ。サザランドを救いたいという気持ちは、お前よりも殿下の方がはるかに強く思われていることだ。当たり前のことを何度も聞くでない」
「……かしこまりました。では、失礼いたします」
その言葉を最後に、すぐさま席を立つ。
くるりと振り返った俺はドアの方へ大股に歩き出した。
殿下は背中に向けて言葉を突き刺してきた。
「これからは僕らが『未来』を創る世になる。君もそのうちの一人として、賢く振舞うことだ」
俺はドアノブに手をかけると、ちらりと背後を振り返った。
そして泥まみれの亡者どもの耳に届くように大きな声で、こう告げたのだった。
「未来を創るのは皇族でも貴族でもない。……ただ一つ。人々の『希望』なんだよ。くそったれが」
と――




