② 『パオリーノの乱』
◇◇
――ヘイスターに対し、リーム王国が宣戦布告。急ぎ救援を送られたし ジェイ・ターナーより
非常にシンプルな救援要請。
だがこの要請によって、ヴァイス帝国の王宮内は大慌てとなった。
戦争は『冬から始まるもの』という考えがあったため、完全に意表をつかれてしまったのだ。
そこで帝国軍と貴族院は、合同の緊急会議を開くことを決めた。
しかしその会議の前に、貴族院の議長でありベルナール家の次期当主トミー・ベルナールと、帝国軍の参謀長でトイ家の次期当主アンナ・トイの二人は密室で会談を行っていたのである。
先に口を開いたのはトミーだった。
「父さんからの意向をお伝えしましょう」
トミーの父、ネイサン・ベルナールは商人にしておくにはもったいない程の豪快な男らしいと、アンナは聞いていた。しかし目の前のトミーはいかにも『切れ者』といった眼鏡の似合う風貌だ。
その声も涼やかで、さながら若い女性のようであった。
「仮にヘイスターが奪われても、帝国の経済には何ら影響はない。それよりも同じ国境線沿いの町であるサザランドの防衛、それにサザランドから国境線を挟んで向こう側にあるダラムを奪取した方が、遥かに経済に好影響をもたらすだろうとのことです」
町や領民を守ることよりも、自国の経済を優先する。
いかにも金の力でのし上がってきたネイサン・ベルナールらしい考えだ。
だがアンナはそのことについて何も感じなかった。
なぜならトイ家の当主でアンナの父、ポール・トイもまた似たような意見を娘に伝えていたからだ。
「仮にヘイスターが奪われても、奪い返すのは苦ではないでしょう。しかし要衝の地にあるサザランドは失うわけにはいきません。そしてダラムを奪えば、今後のリーム王国侵攻の拠点として大いに利用価値があります」
トミーがいかにも作り笑いといった表情で、アンナに右手を差し出す。
「なら決まりですね」
「ええ」
アンナは形式的に彼の右手を取ったが、、すぐにその手を離した。
彼らは『表向き』は手を結んでいるが、腹の内では良い感情を抱いていない間柄だ。
利害が相反すれば、国を二つに割っての戦争すら引き起こしかねない家同士なのである。
二人はそのことを良く知っている。
だから、必要以上に仲良くしないのが、『礼儀』なのだった。
アンナはトミーに一礼するすると、そのまま部屋を出ようとした。
そんな彼女に対し、トミーは抑揚のない声で話しかけた。
「アンナ少将。そう言えば、今回の救援要請はブルジェ家からではなく、かのジェイ・ターナーから出されたそうだね」
ピタリと足を止め、顔だけをトミーに向けるアンナ。
「……それが何か?」
凍えるような冷たい口調にも、トミーは臆することなく続けた。
「彼にずいぶんと『思い入れ』があるようだけど、本当にいいのかい? 助けにいかなくて」
「おっしゃっている意味が分かりかねますわ」
「ならはっきり言おう。救援を送らねば、彼は死ぬ。それでもいいんだな?」
アンナは口元をかすかに緩めると、何も答えずに部屋を後にしたのだった――
………
……
事前にアンナとトミーの二人が合意していたこともあり、貴族院と帝国軍による会議は円滑に進んでいった。
「では、貴族院、軍ともに『救援は不要』、その上で『サザランドの防衛とダラム攻略に正規軍を派兵』ということでよろしいですな」
ヴィクトール皇太子が意見をまとめて一同を見渡す。
全員が小さくうなずくと、最後に皇太子もまた大きくうなずいた。
そして、彼は貴族から出された『案』に承認のサインをするために席についた。
会議で出された案を承認するのが皇族代表の務め。
そのため、会議の皇族代表は『皇帝』ないしは『次期皇帝』と定められているのだ。
トミーとアンナの二人が案の書かれた書面を皇太子の前に差しだす。
皇太子は念のため目を通した後、ペンを手に取った。
……と、その時だった。
――バンッ!
勢いよく部屋のドアが開けられたのだ。
みなの視線が一斉にドアの向こうにいる人物に注がれる。
そんな中、さっそうと姿を現したのはパオリーノ第二皇子であった。
「待ちたまえ、諸君」
貴族たちの視線は、街中の女性たちが向けるような、羨望のまなざしではない。
むしろ邪魔者に向けるような、冷ややかなものを帯びていた。
しかしパオリーノはむしろ心地よさすら感じているのではないかと思われるくらいに軽い足取りで、部屋を闊歩していった。そしてついに兄であるヴィクトール皇太子の前までくると、うやうやしい手付きで、一通の書状を手渡した。
「パオリーノ。これはなんだ?」
目を丸くして問いかける兄に対し、パオリーノは力強い口調で答えた。
「兄上! これは父上からの書状でございます!!」
まるで劇場での演者のような通る声が、部屋中に響き渡る。
直後に貴族たちは驚愕の面持ちで一斉に立ち上がった。
――ガタッ!
「そ、そんなはずはない! なぜなら陛下はもう……」
字を書くことも、読むこともできぬほどに弱ってしまったのだから……。
誰もそれを口にすることはできない。皇帝への侮辱ととらえられかねないからだ。
しかし全員がまったく同じことを頭に浮かべていた。
そんな彼らに、さながら宝剣を突き刺すような口調でパオリーノは続けたのだった。
「父上は誰よりも人を愛し、大切にされる御方。しかも、かつての国の英雄からの救援要請ならば、それを捨て置く訳などありますまい!」
ヴィクトール皇太子は急いで書状を開くと、声に出して読み上げた。
「急ぎ援軍をヘイスターに送ること。……確かに父上の字だ……」
皇太子の言葉に場が沈黙に包まれる。
パオリーノはわずかに口元に笑みを浮かべると、次の瞬間には険しい顔つきとなって告げた。
「ヘイスターに援軍を送り、代わりにダラム侵攻の軍を取り止めとする! サザランドには守備兵だけを送ること! これは皇帝陛下のご意向である! 逆らえば、貴族だろうと皇族だろうと容赦はしないと心得よ!!」
すぐに返事は返ってこなかった。
なぜならここで「はい」と言ってしまえば、『貴族』は『皇族』の命令に従って行動する、という『事実』ができてしまうからだ。
歴史をよく知る彼らは『事実』こそが、『ルール』となっていくのをよく知っている。
つまりここでパオリーノの命令に対して首を縦に振ったとしたならば、「政治と軍事の実権は皇族が握る」という『ルール』ができてしまう未来を分かっていたのである。
だが、それもパオリーノの想定の内であった。
彼は自身が口にした命令を、予め『案』として書状にまとめておいたのである。
それをヴィクトールに差しだした。
「では皇族代表。貴族の案と、皇族の案、どちらに『承認』のサインをするかお決めください」
ヴィクトール皇太子の顔色がさっと青ざめる。
元来、彼は当たり障りのない性格の持ち主なのだ。
つまり「常に誰かのいいように扱われてきた」と言っても過言ではない。
そんな彼に今、『貴族』か『皇族』かの究極の選択が迫られた。
皇帝の力が弱まってからは、貴族たちは自分の利益のためなら、敵を殺めることすらもいとわない。
ただ一方で、幼い頃の父もまた、同じように己の野望を果たすために不穏分子たちを闇に葬り去っていたことも目の前で見てきた。
だからこそ、誰に敵対することなく、当たり障りのない生き方を徹してきたのだ。
もしここで選択を誤れば、皇太子と言えども立場が危うくなってしまう……。
二つの案を目の前に、彼は完全に固まってしまった。
ひたいからは大粒の汗が滝のように流れている。
自分には選べない……。
そう口にできたなら、どれほど楽になるか。
しかしそんなことなど許されるはずがないのだ。
自然と顔が苦悶に歪む。
喉は乾き、全身が悪寒で震えていた。
処刑台に上げられた囚人も同じような心持ちなのではないか……。
そんな考えまで浮かんだその時だった。
彼に救いの手が差しのべてきたのは、パオリーノだった――
「兄上。休憩といたしましょう」
「休憩……」
「ええ、これは国の未来を決める一大事でございます。そう簡単に決めることができぬのは、よく分かります。ならば、一度休憩を挟んでから決められるのがよろしいかと思います」
弟の言葉に、すぅっと心が軽くなったヴィクトールは首を縦に振ると、一旦その場を解散したのだった。
そのことすら、パオリーノの手の内であることも知らずに……。
………
……
そして午後を迎えた。
ちなみに午前中の会議が解散になった後も、貴族たちは会議室に残っていた。
万が一会議室から離れて行方知れずとなれば、『裏切り者』とされかねないからだ。
つまり保身のために、その場を離れられなかったのである。
時計の針が進んでも、皇族代表の席は空いたまま。
彼らは午前中のヴィクトールの苦悶の表情を思い浮かべ、心配で顔を見合わせていた。
……と、その時だった。
――ガチャッ。
ドアが開けられる音とともに、革のブーツと床が奏でる高い音が聞こえてきたのだ。
――皇太子殿下のお出ましだ。
貴族たちはとっさにそう察して頭を下げた。
そして皇族代表の席の前でその音がやんだところで、ゆっくりと顔を上げた。
だが……。
「そ、そんな……」
誰もが自分の目を疑ったに違いない。
なぜなら皇族代表の席に堂々と腰をかけたのは……。
パオリーノ第二皇子だったのだから――
「殿下。いたずらがすぎますぞ」
貴族を代表してトミーが淡々とした口調でたしなめる。
だがパオリーノは余裕の笑みで返した。
「いたずら? はて?」
「お座りになる席が違います。殿下のお席はそこの右隣でございましょう」
トミーのいう右隣の席とは、決裁をする皇族代表の補佐役のために用意された席のことだ。
ヴィクトール皇太子が皇族代表の席に座るようになってからは、パオリーノがその席に座ることが多かったのである。
しかし彼はなんでもないように、さらりと返したのだった。
「ああ、そうだったな。『昨日』までは……」
その言葉が発せられた瞬間に、貴族たちの顔色が一斉に青くなった。
それもそのはずだ。
パオリーノが皇族の席に座るということは、『次期皇帝』に彼が取って代わったということを表しているのだから――
「……最初から次期皇帝の座を奪うつもりだったのか……。そのために貴族たちの権力争いを利用した……」
誰にも聞こえずにそうつぶやいたアンナは、一人で席を立った。
そしてドアの方へと足早に歩きはじめたのだ。
だが……。
パオリーノはそれを許さなかった。
「アンナ公、待ちたまえ。会議はまだ終わっていない」
アンナはパオリーノの方へ向き直すと、鋭い口調で返した。
「進軍先が『二つ』になりますゆえ、兵を分けねばなりません。その編成を急ぎますので、失礼いたします」
だが、パオリーノはあっさりと返した。
「それなら心配無用さ。すでに私とルーン将軍が自ら部隊を率いてヘイスターへ向かうことになっている」
アンナの目が大きく見開かれる。
部隊の編成と進軍のタイミングを将軍へ進言するのは、参謀長の役目だ。
しかしパオリーノはその役目さえも、彼女から奪い去ったのである。
誰も見たことがないほどに、アンナが表情を険しくする。
だが、パオリーノは彼女が怒りに震えるほど、愉快そうに口角を大きく上げていった。
「アンナ・トイ少将。君にはサザランド防衛の部隊を率いてもらうよ。大将は兄さん……ヴィクトール将軍だ」
「外道め……」
今度は誰の耳にも聞こえるようにつぶやいたが、パオリーノはまったく意に介することなく続けた。
「トミー・ベルナール公も補佐役として従軍するように」
その命令にトミーが大慌てでパオリーノへ詰め寄る。
「わ、わたくしがですか……!? しかし、わたくしは従軍したことなど一度もございません! どうかお考え直しを!」
「君は皇帝陛下の代わりである僕の命令に従えない、というのかい?」
「い、いえ……」
「ふふ、ならいい。さっそくアンナ・トイ中将に従って、準備を進めるがいい」
パオリーノはトミーが引き下がったのを見て、目の前の書状に筆を滑らせた。
言うまでもなく、それは自身が出した『案』をしたためたものである。
そして承認のサインを書き終えると、それを高々と掲げたのだった。
「これより我が国はリーム王国との戦争に入る! 一同! 力を合わせて勝利を手にしようではないか!」
再び沈黙が支配する。
しかしパオリーノは有無を言わせぬ視線を貴族たちに浴びせ続けた。
彼のぎらぎらと燃えるような瞳は、こう宣言しているようであった。
――われこそが皇帝である。
と……。
――パチ……。
貴族のうちの一人が手を叩く。それはさながら水の入った瓶に、わずかなひびが入ったも同じ。一度でもひびが入れば、流れる水は止められない。
――パチ……。パチ、パチ……。
一人、二人と拍手を始める者たちが続く。
そして……。
――パチ、パチ、パチ、パチ!!
ついに満場一致の拍手が沸き起こった。
この瞬間、貴族は皇族に屈した。
いや、正確には『パオリーノ次期皇帝』に屈したのだ。
ただ一人、部屋を立ち去ったアンナ・トイを除いて……。
後に『パオリーノの乱』と呼ばれるこの会議は、ヴァイス帝国史に刻まれることになる。
しかしこの若き革命児の前に、立ちはだかる者が現れることになろうとは、この時、誰が想像できようか――