【第一章】5.彼の作戦
【第一章】5.彼の作戦
うおおん、アラートが耳元で鳴り響く。俺は飛び起きた。もう一人の俺がスマホを手に取るのを待たずに、階下へ落ちるように移動した。
扉を開ける必要も無い、便利な体だ。
リビングの真ん中ではチョコがウロウロ、ウロウロ同じ場所を回っていた。何かを考えるように。
その姿に、俺は声をかけた。
『もう良いよ。お前だけでも逃げろ』
しかし俺の言葉は、当然のように彼の耳には届かない。彼はずっと同じ場所を回っている。何を考えているのだろうか。
突然、何かを思いついたかのようにチャッチャッチャと爪音を立てて駆け出した。
電話機の近くに寄ったチョコは、棚の裏を掘るようにして前足を忙しく動かしている。
なにをしているのか。
そう思って見ていると、棚の裏から電話線を引き出した。あっと制止する間も無く、それを噛み千切る。
はっとした、電話が鳴らなければ、鳴き声が無ければ、俺は自室から出なかったろう。
そうした後、彼はにわかに窓に駆け寄り今度は網戸を掻き毟る。ガリガリと、爪を立て、牙を立てた。
慣習として夏は網戸で開けっ放しだった。
『そうか、そこから逃げるんだ!』
鬼気迫る表情で、繰り返す。ぞんがい網戸は頑丈で、爪が剥がれ血が出た。しかしそれでも唸り声一つ上げずにやり切った。
身体一つ分の穴を開け、そこから家の庭に飛び出した。ついにやったのだ。
時刻は10時17分。五分後にアレが来る。
『逃げろチョコ!まだ間に合う、ここから離れて!』
その声は、やはり彼には届かない。
庭に出たチョコは、二階の俺の部屋を見据えて、大きな声で吠えた。
ワンッワンッワンワン!!
しかし、音量の問題か、外の喧噪に紛れてか二階の窓にはカーテンがかかったままだ。
諦めずに、外を見ろと叫び続ける。
アウー!ワンッワンッ!!
あらん限りの大きな声で吼えたてる。
それでもカーテンは開かない。
前足の爪から血を流し、俺に必死に呼びかける姿。じわり涙が出てきた、視界が滲む。
『もういい、もう良いよチョコ。頑張ったじゃないか、俺なんかもう放っておけよ』
向こうが透ける手のひらを、ひらりひらりと仰ぎながら、そう語りかける。それは彼に対してか、自分自身に対してなのか。
アウッアウー!ワンワンッ!!
彼は止まらない、しかし。もう二、三分しか時間は無いだろう。無理だ。
気がつく筈が無い。
半透明な身体で地面にしゃがみこみ、そう半ば諦めた。小さな体で、頑張っている彼を見ながら。
ふっと鳴き声が止んだ。
彼も諦めたかに見えた。
その時思った。飼い主に似るって本当なんだな。チョコがふらりと車道に飛び出したんだ。突っ走るトラックは、急には止まれない。
『やめろおおおおおっ!!』
俺の時と違う、チョコを見つけたトラックは大きくクラクションを鳴らして、ブレーキを踏んだ。
そうだ、大きな音で。二階にまで響き渡るような。
にわかに辺りに響き渡る轟音、その後にバンッと軽い音がした。やけにゆっくり、彼の身体は宙を舞った。まるで時間が、動く事を忘れたかのように。
『うわああああああああっーー!!』
半透明の身体を必死に動かして、彼に駆け寄った。
すでに息は絶え絶えで、その身体の下半分は失われていた。誰の目にも助からない事は明らかだ。
『おいっ、チョコ!おいっ!!』
声をかける、しかしそれは届かない。
手を触れようとも体は透ける。
その時バンッと俺の家の玄関の開く音。
気がつけば二階の俺の部屋のカーテンは開け放たれている。
そこから、もう一人の俺が駆けて、そして半透明なこの身体と重なった。俺は一つに。
「聞こえるか!?おいっ!チョコ!?」
ピクッと耳が震えた、聞こえたのか。
手を差し伸べて軽い身体に触れる。べとりとした血が手に触れた。
必死で呼びかける。
薄っすらと目を開けたチョコは、嬉しそうに俺の手を、ぺろっと舐めた。
「等価、交換、」
黒い老人は、そう言い放つと、何も残さず消えて無くなった。