5,ただのパンチのようです
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何が起きたのか、はっきりと分かったものは誰もいなかった。
気づいたらそこに海音が居て、拳を振り抜いた態勢で静止していた。
固唾を飲んで状況を見守るクラスの面々は、渋川香純の前に守るように立っている海音が一瞬誰だか分からなかった。
普段からあまり目立たず、岩田とばかり話していたため気づくのが遅れたのだ。
それでも、海音が何か異常な力を使ったのでは、と誰もが感じた。
____その男、ミウメーガ・カーマンエールも例外ではなかった。
(何だ! 一体何が起きたのだ!? あの男は何なのだ!)
ミウメーガは目前の光景が信じられなかった。
現在、折れた剣を振り下ろした態勢で驚愕しているのは獣人だ。
例えその獣人が少女であろうとも、人間との間には根本的に身体能力に差がある。それを身体能力強化の魔法も使わずに剣を叩き折るなんて尋常では無い。
その時、状況が動き始めた。
シュ!
獣人の少女が剣を折られたことを察すると、顔に驚愕の色を浮かべながらも直様腰から短剣を引き抜き、未だ拳を振り抜いた態勢から動かない海音に斬りかかったのだ。
少女は目前で固まっている少年の強さを推し量ろうと、浅く切り裂くように素早さを重視した斬撃を放った。先程は油断しきっていたため、ただの偶然だったのではないか? 少女は内心でそう思いながらも次で見極めるとばかりに目を光らせた。
対する少年は短剣が残り数センチで届く、というところでようやく動いた。
少女の斬撃に対して少年が取った行動は……
______目前にまで迫った短剣に手をかざした。
「!?」
少女は憤りを覚えた。
好きでこんな国に仕えているわけではないが、獣人族の戦士としての誇りを忘れたことはない。
この異世界より召喚された男は、最後に自分に残されている獣人族としての誇りさえも踏みにじろうというのか! そう考えると短剣が一段と加速した。
さきほどの光景が信じられなかった面々は、今度こそ何が起きたのか見極めようと全員がその状況を静観していた。
「こんな鈍じゃ俺は切れないぞ?」
その光景はまるでさきほどの焼き直しのようだった。
少女が放った渾身の一撃ともいえる斬撃はしかし、海音の掌で受け止められていた。
こんなことがあるものか、と少女が瞳に畏怖の色を浮かべたところで海音が声を発する。
「なるほど……これが俺の力か……」
少女は少年が言った言葉の意味が理解できなかった。
少女が困惑していると、その場に響き渡るように笑い声が聞こえてきた。
「ワーハッハッハ! うむ、実に見事だ。お前、名は何という?」
笑い声を上げたミウメーガが問う。状況からいって、名を尋ねられたのが海音である事は一目瞭然だった。
「……海音だ」
聖王にタメ口を聞いた海音に周囲が殺気立つが、聖王であるミウメーガ自身が収めた。
「カイト、か。よい名ではないか。して、さきほどは一体何をしたのだ? どうやってそこの汚らわしい獣人奴隷の剣を止めた? 身体能力強化の魔法は使ってなかったようだが……」
ミウメーガがそこまで言ったところで場が凍りついた。
______海音が強烈な殺気を放っていたからだ。
「「「「「「「!?」」」」」」」
その場にいたものは、全員が知らず知らずの内に冷や汗をかいていた。それほどまでに感じたことのないような強烈な殺気だった。
「何をした、か。そんなものは決まっている。
……………………ただのパンチだ」
海音の殺気に固まっていた一同にポカンとした空気が広がった。
誰もが何と言っていいのか分からず一様に押し黙る中、海音が瞳に怒りを浮かべ聖王に向き直る。
聖王がいる場所は、クラスの面々や剣を携えた騎士のような人間がいる場所よりも一段高くなっており、海音からは見上げる形だ。
「そんなことより……今、俺に斬りかかって来たこの銀髪の子。お前、この子のことをさっきなんて言った? 奴隷、と聞こえた気がするんだが?」
最早、誰も海音が聖王をお前呼ばわりしていることに気がついていなかった。
海音が偽ることは許さないとばかりに聖王を睨みつけていたからだ。
「そ、そうだ。獣人は我輩たち、人間の劣等種であるから我々が使役してやらねばならんのだ。そこの獣人も人間に仕えることができて本望だろう。カイトたちがいた異世界では、獣人がいなかったのか? だが安心するがよい! お前たちが功績を上げれば褒美として個別の獣人奴隷を与えてやろう! 愛玩用にするもよし、戦闘用にするもよしで中々に使えるぞ?」
ミウメーガはこの時点で墓穴を掘った。
獣人について聞かれたので、海音が獣人を欲していると勘違いしたのだ。
「…………君、名前は?」
最早、海音は聖王の話しなど、どうでもいいとばかりに聞いてすらなかった。
さきほど奴隷だと言われていた目前の少女に問いかける。
「…………メルシャ」
少女は名を尋ねられたことに驚いた。今まで人間に名前を聞かれたことなどなかったからだ。
そのせいか、つい素直に答えてしまった。
海音は満足げに頷くと周りを見渡し、最後に渋川を見据える。
「なぁ、渋川……幼女神が言っていた通り、この世界は俺たちがいた世界とは根本的に違うんだろうな……だが、それでも他の国も全てこんな国とは限らないはずだ。俺が想定していたよりも随分と早いが……行くか?」
渋川は最初、何を言われたのか理解出来なかった。
しかしそれが、幼女神の頼みの件であると察した彼女は一瞬だけ悩む素振りを見せたが、すぐに頷いた。
「行くわ。女神様のお願いだし、引き受けちゃったしね。でも、どうやってここから脱出するのよ?」
目前で人を殺された恐怖は消えてなさそうだが、表面上は大丈夫そうだ。
補足だが、この会話は他の人間に聞かれるわけにはいかないので小声で行われている。
やはり、というべきか立ち位置的に確実にやりとりが聞こえる獣人の少女は、顔を傾げていた。
______めっちゃ可愛い。
獣人の少女を見ているのが分かったのか、渋川がジト目で見てきた。
「…………ロリコン」
「ノーコメントだ」
渋川の言葉にいち早く返した俺は、不敵な笑みを意識しさきほどの質問に対し答える。
「こうやってだ。よっと……以外と重いな」
俺は片手で渋川を抱き上げ脇に固定した。
渋川は突然の事態に戸惑っているようだが我に返ると怒りの形相になりベシッ、太もものあたりに結構な衝撃が走った。重いと言われて怒ったらしい。
その間、周囲は誰一人として事態について行けてなかった。
常軌を逸する事態に周りにいる騎士達も、海音を取り押さえるべく動きべきなのかどうか判断できずにいた。その騎士達に命令を与える立場の聖王が、話を無視され唖然としているからだ。
そうしている間にも事態は他を置いて進んでいた。
「……ちょっと、本当にこの状態で行くつもり? いくらアンタの力が強いとはいってもこれは流石に……」
渋川が海音に苦言を呈そうとしたが、それよりも早く海音が動いた。
「喋らない方がいいぞ。舌を噛むかもしれないからな」
それからの海音の行動は速かった。____否、速すぎた。
周囲は決して海音や香純から目を離した訳ではない。むしろ注視していた。
それにも関わらず、気がつけば____海音が消えていた。
「じゃ。俺らはここを出るとするよ。なんせ俺らは魔族の内通者、なんだろ?」
全員がハッとして声がした方に振り向く。
そこには、海音が両脇に抱えた少女達を振り落とさないように抱え直していた。
さきほどの一瞬の消失は、なんて事はない。ただ足に力を込めて床を蹴っただけだ。
再び足に力を込めた海音は、最後にクラスの面々を一瞥すると__岩田と目があった。
(悪いな。今は助けることができない。だけど、お前なら何だかんだうまくやれるだろう)
岩田に若干の申し訳なさを感じていると、岩田は驚いたような顔をしたが直ぐに笑みの形を作り、まるで安心させるように一つ頷いた。
俺はそれだけ確認すると、すぐにここを脱出すべく足に力を込めた。
______もう、後ろは振り返らない。
疾風のような速度で移動する海音を補足できるものは、誰一人としていなかった。
「待てェ! 待たんか! カイトォ!!」
ようやく再起動した聖王が叫ぶも、既に海音達は視界から消えていたのだった。
後に残されたのは、怒り狂う聖王と歪な笑みを浮かべるライニーク、ようやく海音達を捕らえようと動き出す騎士達に、様々な反応を見せるクラスの面々。
そして、親友を送り出し、場違いな笑みを浮かべる男がいた。
「やっと、前を向いたって所か。…………ったく、遅ぇんだよ。……バカ」
誰に言うでもなく呟いた独り言だったが、その独り言を聞いていた者が一人だけいた。
「井上くん……どうして? どうしてなの、井上くん? 私は駄目で香純ちゃんはいいの? ……どうして? どうして? 井上くん、井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん井上くん…………
…………アハッ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ。そっか、そう言う事なんだ……井上くんは香純ちゃんに脅されてるんだね? だから私の告白を断ったんだ! うん。そう言う事なら仕方ないよね! でも、井上くんを脅した香純ちゃんは……殺しちゃおうかな♪」
躊躇いなく親友を殺そうという思考に走るこの少女も、異世界召喚における犠牲者の一人なのだろう。
初めて目前で人が死ぬ瞬間というものを見た少女の心は、酷く歪んでしまった。
そこにトドメをさすように、自分が振られた相手に抱きかかえられる親友。
____そこで彼女の心は壊れた。
片や親友の背中を押す男。片や親友を殺そうとしている女。
親友を思う気持ちは全くと言っていいほどベクトルが違うが、いずれも親友を強く思っていた。
異世界アクセリムの地において、この日は全ての始まりの日だった。
様々な思惑や陰謀、狂気によって彩られた狂乱の時代はこうして幕を上げた。
狂った少女……いったい誰なんでしょうか……?
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