Episode30 第四夜 - 満たされない怪物
それは闇に葬られた歴史の一頁だ。
人間は神をつくった。
神は人間を滅ぼすための"怪物"を造った。
人間は神に勝利し、怪物は不要になった。
では、怪物はこの空虚な世界で、何のために、どう生きていけばいいのか――。
ある者は英雄になった。
ある者は魔王になった。
だが、人知れず消えていった者もいる。
輪郭を持たず、ぼんやり溢れて広がる世界の染みとして忘れ去られた者がいる。
その染みは、気づけば手の施しようのないほどに憎悪を沸き立たせ、世界の裏側で充満したまま、穢れを拡散させていた。
ロア・オルドリッジは、そんな世界の染みを浄化すべく、この300年もの長い時を浪費していたつもりだった。世界の守護者として。
名もなき英雄の背中を追いかけて――。
だが、本当にそうか?
ロアの心に一つの疑問が浮かび上がる。
「もうとっくに気づいていたんでしょ?」
リルガは台座を撫でながらロアに問いかけた。
宝物を愛撫するような柔らかい手つきだ。
「何度も見せてきたわ。七つ夜にかけて、あなたが求める赤の他人の窮地をね」
「――俺が求める?」
ロアの表情は変わらなかった。
不愛想で、硬い表情。
リンピアは隣に立つロアの顔を見上げ、心配そうに覗き込んだ。この青年はもう300歳を超えるというのに、どこか子どものように心が不安定な所があった。
今だって心がゆらゆら揺れている。
そんな心情をひしひしと感じていた。
「あなたは生まれたときから、ずっともどかしい思いをして生きてきた。努力せず手に入れた力。達成感もない。与えられた力を発揮する機会もない。だから本能的に他人の窮地を求めているの」
ロアは返事をしなかった。
「現実世界で役割がない。私と一緒よ」
「……俺は守護者だ。人類を護る役目がある」
「そうやってまた自分を誤魔化すの?」
リルガは嘲笑うように言い放った。
リンピアは、決めつけるようなリルガの物言いに苛立ちを覚えた。
ロアの過去を何度も見た。
その中でロアが一度でも不憫な思いをしていたことはなかった。父親に愛され、家族に愛され、活躍の機会を与えられていた。
今こうして【七つ夜の怪異】の滅却を任されているのも、ロストが役目を与えたからだろう。
現代でもロストが何処かでロアの帰りを待っているに違いないのだ。
「――じゃあ聞くけど、
あなた、今までヒトを助けたことある?」
その決定的な問いにロアは呼吸を止めた。
「それは……」
「助けたことなんてなかった。でしょ?」
そんなことはない。
リンピアは心の中で否定した。
何度も怪異で助けられた。命を救われた。ロアには感謝してもしきれないほど、助けてもらった。
だというのに、
「……ああ、助けたことはない」
ロアはそれを頑なに否定するのだ。
何故だろう。どうして彼は認めないのだろう。
リンピアを守った。敵を葬ってくれた。
その事実をどうして否定するのか。
「誰のことも助けたことがないのに、守護者を名乗るなんて笑えるよね?」
リルガは、また嘲るように問いかけた。
リンピアはとうとう我慢の限界がきて、2人の会話に割って入ることにした。
「知りもしないで何てこと言うの!? ロアくんはいつもたくさんの人を助けてくれたんだよ。本人は否定してるけど、現にわたしだって何度も命を救われた! 助けられたよ! それをそんな風に――」
「リンピア」
だが、その言葉はロア自身に遮られた。
「いいんだ。俺は君を助けたことはない」
「なんでそんな……」
リンピアは、この後に及んでまだ否定し続けるロアにさえも腹が立った。
何をそんなに意固地になっているのか。
リンピアが不満そうにロアを見返すと、ロアは諭すように語り始めた。
「例えば、君の部屋に虫が入り込んだとする」
「虫? なによそれ?」
「例え話だ。虫は偶然迷い込んだだけ。君も虫と共棲したい訳ではなく、あくまでこれはアクシデントだ。それで君は、その虫をどうする?」
「どうにかして外へ追い出すけど……」
「そうだろう。追い出された虫は"殺されずに助かった。命の恩人だ"と思うかもしれないが、君からすれば、部屋から虫を追い出したかっただけだ」
「そりゃそうだよ。だから何なの?」
「君は、虫を追い出しただけの話を友人に"虫を助けた"と豪語するのか?」
「え……」
まさかロアの行いすべて"虫を外へ追い出す"程度の事とでも言うのか。
「そういうことだ。それを人助けとは言わない」
「違うよっ! ロアくんが変だよそれっ」
「いや、俺自身がそれを人助けと思いたくない」
「……」
彼は理想が高すぎる。
ロアは生まれながらに能力があり、誰も叶えられないことを既に叶えている。その彼が「守護者として人類を助けたい」と、父親の理想を後追いしたとき、残る問題はとどのつまり、自己満足の域だ。
ロアは満たされないのだろう。
見舞われた問題に対処しただけのことを、さも凄いことに思われたくない。自分自身も思わない。
それが先ほどの、虫の例え話だ。
そうなると世界滅亡の危機をたった一人でなんとかして、人類すべてを救うでもしない限り、彼の心は満たされないのではないか。
そして現在、そんな危険は存在しない。
少なくとも現実世界に限っては。
彼の苦悩のほんの少しを垣間見た気がした。
「ふふ……」
リルガの笑い声が聞こえた。
ロアとリンピアは台座に向き直り、広間最奥に構える一際大きな台座、その前に君臨する褐色の肌した少女に注意を向けた。
あの快活で純粋そうな振舞いは猫被りだったのかと思うと、リルガが憎らしくなった。
リンピアはシャワー中に胸まで触られた。
「わかったでしょ。ロア・オルドリッジはこの世界では決して満たされない。理想を叶えることができない憐れな怪物なの」
リルガの立ち居振る舞いはロアの過去を通じて見た、大聖堂の司教リピカと少し似ていた。
神々しさもあり、邪悪さも秘めている。
その言葉は悪魔の囁きのようだ。
怪物。――確かにロアは怪物かもしれない。
馬鹿げた力を持ち、死にもせず、老いもせず、完全無欠の存在だ。
それでいて力を発揮する場所がない。
だから満たされない。
「神が遺した"染み"ね。可哀想な子」
「染み、か……」
「こんな世界、居心地が悪いでしょ」
「……」
「私も同じ。私たちは仲間なの」
先ほどは存在を否定し、今は共感を示す。
ひどく扇動的な論調だ。
ロアは口数少なく、リルガの声に耳を傾けていたが、目の色を変えることなく、凍てつくような黄金の双眸をリルガに向けて問いかけた。
「俺は君のことを知らないが、君はどうも俺の身内と縁があったように思える。違うか?」
「もちろん。あなたのお父さんとはその昔、仲が良かった……かな」
今のリルガの口調に違和感を覚えた。
これまでの指導者めいた高圧的な口調ではなく、親しみを感じさせる語尾。
リンピアは今の情報が頭に刻まれた。
お父さんとはロスト・オルドリッジのこと。
その彼と昔、仲が良かったと云う。
ロストならリルガ・メイリーの正体に心当たりがあるかもしれない。
「いつか訊いてみるといいわ。まぁ、あの人にはもう二度と会えないだろうけど」
「え……?」
戸惑いの声を上げたのはリンピアだ。
ロアは固く口を閉ざし、何も言わない。
知っていたのだろうか?
"――ロアくんも家族がいるんだ?"
"ああ。しばらく会っていない"
"会いに行ってあげよう? 家族は大事だよ"
"今は難しい。今後も会えるかどうか……"
第一夜の終わりにそんな会話をした。
言葉を濁したのは、そういう意味だったのか。
そんな……。リンピアは言葉が出なかった。
「さぁ、次のステージで踊りましょう。この虚構の世界では何でもできる。あなたが思い描く"人助け"もできる。それで満足できないなら次のステージも用意する。際限なく繰り返すことができるの――」
リルガは唄うように言葉を重ねた。
「ここは父親の理想を追う輪舞の第二幕……」
そして台座に手を翳し、台座の中央にある差し込み口のような所へ、黒い泥を流し込み始めた。
黒の魔力だ。
暗黒に染められた憎悪の塊。
泥はすぐ溢れ返り、台座から床を這ってくる。
吐き気を催すような凄まじい瘴気だった。
「そして次の第三幕の舞台はここよ」
邪悪に笑う少女。
黒い泥を流れ続けている。
台座の先端から泡がぶくりと腫れ、シャボン玉のように宙へ浮かんだ。
黒いシャボン玉に、ある憧憬が映し出された。
そこには大きな洋館が映っている。
昔の……それこそ数百年前に作られたような古めかしい屋敷だ。
リンピアははっとなり、叫んだ。
「ロアくん、リルガちゃんを止めよう! 怪異を仕組んだのがあの子なら、それで【七つ夜の怪異】を滅却できる!」
さすがに殺そうとは言えなかった。
人殺しをする度胸などない。
もはやリルガを真っ当な人間と思ってないが。
「…………」
ロアは答えなかった。
身動き一つしない。
リルガは黒いシャボン玉に自ら入り込んだ。
その先に映る大きな洋館の庭園に足を踏み入れ、まるで窓を潜るようにして、洋館に辿り着いた。
「どうしたの?! 逃げられちゃう」
「……逃げられることはないだろう。彼女は、次の舞台がそこだと言った。ならば、第五夜は必然的にあの洋館に迷い込むことになる」
「そ、そうだけど、今ここで捕まえれば、第五夜も発生しないでしょ!」
「……」
ロアは動かない。呆然と眺めている。
黒いシャボンは急速に小さくなり、通路を絞るように入り口が閉じた。
リンピアはロアが動かない理由を察していた。
それは迷いだ。
今まで300年もの間、彼はずっと葛藤してきた。
守護者として生きる反面、人を助けた実感が得られない。
それが満たされるかもしれない。
七つ夜の怪異は叶えてくれるのかもしれない。
それをどうして自ら消すことができよう。
リンピアも、そんなロアの迷いを逸らせるような言葉をかけられるはずがない。




