Episode27 今際審判
"――この世界が窮屈に思ったことはない?"
それはいつ誰が尋ねてきた言葉だろう。
古い記憶か。最近聞いたものか。
よく覚えてない。
ただ、それが不思議と心の隅々まで浸透した。
世界は窮屈だ。
力を存分に揮う機会はない。
英雄にはなれない。それに見合う敵もいない。
行き場のない英雄の力を抱え、放り出された"屍人"こそ自分自身なのだ。いつしかそう自覚した。
「ロアくん?」
隣から心配そうに覗くリンピア――。
「ああ、行こうか」
シグネ・トイリの邸宅に足を踏み入れた途端、ロアはふと考えた。
白昼夢のような刹那の憧憬だった。
なぜ急にそうなったか、ロアには分からない。
ただ、トイリ邸の玄関で出迎えたシグネ本人と、その隣の初老の男とを見比べて、この家がひどく窮屈そうに見えた。それに端を発して記憶が甦った。
親の七光りに陰る子供の姿が、どこか自分の境遇に似ていたのだ。
初老の男はアールグリッジ市商会の会長。
この家の当主で、街一番の金持ち。
それがシグネの父親だった。
「ようこそ、我が屋敷へ。歓迎しよう」
初老の男はにこやかな表情で歓迎した。
シグネ本人はドレスアップしているものの、陰鬱な雰囲気を漂わせていた。
「うちの娘が客を連れてくるなど珍しくてね」
それだけ言うと男は咳き込んだ。
「すまない。今夜は我が家の料理人が腕を振るう。ゆっくりしていってくれ」
初老の男は、後から現れた執事に支えられながら屋敷の奥へと引っ込んでいってしまった。
「あれ、行っちゃった……」
リンピアはあっけらかんとしていた。
「あれが会長さん? なんか辛そうだったね」
「あの男、複数の臓器で機能不全が見られる。肺腑、肝臓、そして骨の髄にも病が浸食して造血もうまくいっていない。おそらく長くないぞ」
「え? ……え?」
ロアの異常な観察眼に驚いたのと、言っていることの意味がわからず、リンピアは2度聞き返した。
だが、シグネの前だ。
リンピアは深く尋ねるのは控えた。
「よくお出でくださいました。お連れの方まで……。食堂へご案内します」
シグネは覇気のない声で屋敷の奥に案内した。
平然とついていくロアと恐る恐る歩くリンピア。
廊下の壁際には壺や絵画。掃除の行き渡った床に天鵞絨まで敷かれている。
今のところ、警戒するようなことは何もない。
強いて言えば、屋敷内の明かりが少なく、異様に暗く感じたことだろうか。シグネ本人の雰囲気のせいもあるが、トイリ家は何から何まで暗い。
食堂に着き、縦に長い食卓の中間に座った。
執事が食事を運んでくるまでの合間、特に話すこともなく、気の利いた言葉もでてこなかった。
リンピアは先ほどの当主の病が気がかりだった。
ロアは気遣う素振りすら見せず、無表情で向かいに座るシグネを見ていた。
「……本当に、すみませんでした」
脈絡もなくシグネが謝り出した。
「わたしが詰め寄ったときの話ですか?」
「……はい」
シグネは卓の上をぼんやり眺めている。
「そ、そんな何度も謝らないでください。というかシグネさんは何も覚えてないんですよね?」
「はい。何も……」
「それなら謝る必要ないんですよ」
「失礼ですよね……。何をしたかもわかっていないのに謝るなんて。でも私は夕暮れ時、リンピアさんが声を荒げる姿が怖くて……。何がなんだか分からなくても許されたくなったのです。こんなずるい私ですが……すみません、許してください」
「は、はぁ……」
ロアがこちらに一瞥くれた。
恥ずかしい。そんなに怒っていただろうか。
リンピアはばつが悪くなった。
「私はもう怒ってませんよ。シグネさんと知り合って、どんな方か分かってむしろ安心しました」
「本当ですか……。よかった……」
シグネは胸に手を当て短く吐息を漏らした。
大げさだ。悲痛な表情からは涙が出そうである。
「では逆に訊くが、君はどうしてリンピアが怒っていると思った?」
ロアが横から追撃をかけるように投げかけた。
シグネが嘘をついていないか探っている。
そんな責めるように言わなくても、とリンピアは呆れた。
「トイリ家は人から恨まれることが多くて……。謂れのない恨みを買うのは日常茶飯事なのです……。そういうことが続くと、もう理由など考えません。お父様から教わった方法でお詫びするのです」
「ほう、豪商の悩みというやつだな」
「お察しの通りです」
なるほど、とリンピアは思った。
金持ちは人から妬まれる。
だが、因縁をつけられる前にお詫びの印として家に招いて持て成せば、穏便に済ますことができる。
「……ただでさえ、最近はお父様の具合も優れませんし、変にトラブルを起こすとお体に毒だと思いまして。……今は敏感な時期なのです」
「敏感な時期なら尚更、俺たちなど招かない方が良かったんじゃないか?」
食事が運ばれてきた。
コース料理のように一皿ずつ出てくるようだ。
いつも月光亭の単品メニューばかり食べるリンピアには慣れない食事だ。
「滅相もない……。本当にトイリ家に恨みのある人間なら、お誘いはたいていお断りされますから。リンピアさんがお越し頂けると聞いて私は内心、安心しました。お父様も、私が同世代の女性を家に招待したと聞いて喜んでましたよ……」
小さな声だったが、多弁に思い思い語った。
シグネは純粋にロアやリンピアを歓迎している様子だった。
「そうか。君の心情はよくわかったよ」
「ありがとうございます……」
「さて、せっかくの食事だ。美味しく頂こう」
ロアはそう言うと行儀よく銀匙を取り、前菜などから手を付け始めた。
リンピアはロアの潔さに違和感を覚えつつも、同じように料理に手を付けた。本当ならスキルワード神父との関係や、魔剣ケアスレイブの入手経路など聞きたいことは山ほどあるはずだが――。
食事は想像以上に美味しかった。
リンピアも最初は心のわだかまりを抱えたまま食事をしていたが、シグネに仕事の話や生い立ちなどを尋ねられ、魔術相談所や孤児院の話をするうちに楽しくなり、すっかり本来の目的を忘れていた。
「羨ましいです。あまりこんなことを言うと気を悪くされるかもしれませんが、私もリンピアさんのように生きてみたかった……」
「そんな大した刺激のない毎日ですよ」
「いえ。まるで冒険家のようです。私も、昔は鳥になりたいと思ってました。お屋敷は決まりが多いですから、いつか自由になって空を飛びたいと……」
リンピアもロアも思わず食事の手が止まった。
咀嚼まで徐々に緩慢になっていく。
――鳥。空を飛ぶ。
第三夜の戦いがフラッシュバックした。
シグネは対面する2人の様子がおかしいことに気づいて言い淀んだ。
「すみません……。はしたないことを……」
「あっ、いえ、気にしないでください! 空、飛べたらいいですよね! 昔の魔術師には重力を克服したっていう天才もいたらしいですよっ。あ、これは逸話なんですけど」
「…………」
リンピアは動揺を悟られぬように捲し立てたが、シグネは無反応だった。
気まずい空気が流れた。
ロアは口元を拭き終えると、あらためてシグネに問いかけた。
「シグネ・トイリ、君はそんな願望をまるで実現不可能なように語りながらも、その実、既に実行している。違うか?」
ロアが真に迫ることを急に言い出した。
リンピアは驚いて目を瞬かせた。
もしかして【七つ夜の怪異】の話題をここで吹っ掛けるつもりなのだろうか。
「どういう……ことですか?」
「この家の当主、バルネ・トイリの病のこともそうだ。彼が既に末期なのは一目瞭然。本来なら客人を招いている状況ではないというのに、君は俺たちを呼びつけた」
それは審判を始めた判事のようだった。
ロアの弁論はまるで悪事を糾弾する物言いだ。
「え……と……」
「君は食事の合間、一度も席を立たなかった。リンピアが手洗いに二度出たが、君は一度もだ」
「ちょっとロアくん!」
女性に対して何て失礼な指摘だろう。
「そして終始鼓動が早く、目を合わせようとすれば反らし、親指を人差し指で掻く癖を27回も繰り返した。つまり君は特定の話題に動揺しているのではなく、この会食そのものに緊張感を感じ、動揺している。どうだ?」
「それは……」
シグネは苦虫を噛み潰したような表情をした。
苦しそうな顔だった。
――嘘がバレた人間の表情ではない。
「街ではローブ無しでは出歩けない小心者が、こうして出会ったばかりの人間と1対2で会食の場を用意することもおかしい」
「ですから……お詫びのためと……」
「ところで君はカレル・ロッシという男を知っているか?」
次から次へとロアは話題を変えていった。
問い詰めているようにしか見えない。
会話の逃げ道を塞ぎ、言質を取り、そして主導権を握り続けるために話題を先に切り替える。
一体こんな話術をどこで学んだのだろう。
「カレル・ロッシさんですか」
「――――」
ロアは黙ってシグネを見つめていた。
何も情報を渡さないという意思を感じる。
カレル・ロッシはガロア遺跡調査に随行した護衛係のハンターだ。その接点を突き詰めると【七つ夜の怪異】に繋がるが――。
「知っています」
シグネは小声ながらもはっきりと答えた。
それを聞いたリンピアは体が縮こまった。
カレルを知っているなら、ガロア遺跡調査を覚えているということで、それは【七つ夜の怪異】やスキルワード神父の繋がりも語らざるを得ないわけで……。
だが、ロアは緊張を解くように一息ついた。
「そうか。知らないと言ったらどうしたものかと。彼とはどこで知り合った?」
「確か海辺の……洞窟調査でした。そこの古い祠を調査したときです……」
リンピアは呆気にとられた。
そうだ。シグネとカレルは、ガロア遺跡以前から知り合いだったのだ。仮にシグネが、カレルを知らないと言えば、それは紛れもなくシグネが嘘をついた証拠に他ならない。
ロアはそれを探ろうとしていた。
その一方で――。
「なるほど。そうすると君はやはり、実際に外の世界へ行き、古跡や秘境の見聞に出歩いているということだ。さっき言った通り、既に空を飛ぼうとしている」
「……」
「父親の命令だな?」
「…………」
「世界の見聞に出歩くのも、こうして俺たちのような部外者と無理して会食をするのも全て――」
シグネは顔を伏せ、はたはたと何かを零した。
それが彼女の本当の涙なのだと気づくのに時間はかからなかった。
ロアも糾弾するような口調をやめた。
目を背けていたことにシグネ自身が気づいたと、涙から感じ取ったからだろう。
「そうです。私はどうしようもなく無様で、出来の悪い人間なのです……」
審判が終わると被告の独白が始まった。
それがお決まりの流れでも、リンピアには鮮やかに映った。
「今までお父様しかいなかったから……。お父様の言いつけしか守ってこなかったから……最後もこんな風にしかできません」
綺麗に仕立てられたドレスが濡れていく。
「お父様は、あと一月も保たないでしょう。……もしかしたら数日かもしれません。あの人を失えば、商会長の座は後任に渡り、私は独り、この家の跡継ぎとして生きていくだけです――――」
箱入りで育ってきたツケだった。
一人では何もできない娘に育ってしまった。
それを憂いだトイリ家当主のバルネ・トイリは娘に少しでも世界を知ってほしかった。色んな人間と交際して、世間の楽しさを感じてほしかった。
自らが病臥に伏し、今際の刻みにあっても、それを嘆く時間すら勿体ない。
"看取りなどいらない。その時間を人と付き合う時間に当てなさい。それが最後の孝行になる"
シグネの父親は口うるさくそう言い続けた。
信じられない……。
リンピアには親との死別を今までもこれからも経験することはできない。それでも、大切な存在との別れのとき、そこに寄り添えないことは辛いことだと容易に想像できる。
命じられただけで頑なに守る理由があるのか。
歪んだ親子関係だった。
「こうしてロアさんとリンピアさんとの食事を楽しむことが、お父様を安心させる方法なのです……。お二人を利用するようで本当に申し訳ありませんが、ご理解ください……」
「本当にそうか?」
ロアが突如として言い返した。
「君がこのまま父親の言いなりだったら、その方が父親も不安だろう。君は君の意志で、その最期に向き合うべきじゃないか?
――それが父親を安心させる最良の方法だ」
「それは……」
「あとは君自身の心に従ってくれ」
「…………」
シグネは堪らず、ドレスの丈を握りしめた。
そして意を決したように立ち上がった。
「……すみません。失礼します」
「それでいい。料理、美味しかったと伝えてくれ」
「ありがとう……ございます……」
シグネは震えた声で礼を言い、出て行った。
ロアは最後にもう一度、彼女を呼び止めた。
「シグネ」
「はい……」
「一つ付け加えると、父親を治療する奇跡は存在しない。この世に【神の代行者】なる存在がいたとしても、それは到底、人を癒す力ではないし、彼らは自然の摂理に逆らうことはしない。残念ながら」
シグネは、何故それを、と戸惑っていた。
だが、ロアの観察眼は並外れたものではない。
何を見抜かれても、もう不思議に思わなかった。
「…………」
リンピアは呆然としていた。
シグネは限りなくシロだった。
七つ夜の怪異の記憶がない今、スキルワード神父との関係性について根掘り葉掘り聞いたところで無駄だということもよくわかる。
そもそも、ここで訊くのも野暮に思えた。
神の力を狙っていたのも親の治療のため。
シグネは強かに、やるべきことをやろうとして、七つ夜の怪異で"空を飛ぶ"ようになったのだ。スキルワードと共闘してこちらに牙を向いたのも、あの神父に何か吹き込まれただけだろう。
それ以上のことは何もなさそうだ。
「なんか、わたしって視野が狭いのかしら……」
「どうした、急に?」
「ロアくんと一緒にいると自信なくなるから」
リンピアは、シグネの悪い印象だけで警戒心ばかりが先走り、ちっとも彼女の現実を見ようとしなかった。
でもシグネのような存在を見ていると、この世界に絶対的な悪なんて存在しないんじゃないかと思えてくる。
「それは気のせいというやつだ」
「またそれ?」
「シグネが悪ではないと思ったなら、それはリンピアが彼女の道理や生き様を認めたというだけだ」
「うん……?」
「正義か悪かは当事者には測れない。決めるのはいつだって傍観する部外者だ。争い合う者は皆、己の信念を賭けて戦っているだけなんだからな」
わかるような、わからないような。
リンピアは身震いがした。
この悪寒のような感覚は、ロアの助言の中に何か重大なヒントが隠れていることを本能的に感じたからだろうか。それとも――。
「ほら、始まったぞ」
ロアは優雅にテーブルに残された紅茶を飲み干すと、食堂の出口の方を指さしてそう言った。
「え、何が……?」
その出口の先には長い長い廊下が続いている。
トイリ家の屋敷の廊下に見えていたそれは、いつしか全身鎧が立ち並ぶ、古めかしい城塞の廊に変わり果てていた。
そこから冷気が吹きつけている。
第四夜が、挑戦者の入場を待ち侘びていた。




