Episode20 第三夜 - 膚受の愬え
黒い光帯が夜空に浮かび上がっていた。
宵闇の中でさえ、黒点がこうも輪郭を際立たせている。
よほどの漆黒なのだ。
黒すぎて夜空すら眩しいほどの……。
その帯から、何かが溢れ続けていた。
遠目には液状の何かに見えるそれは、無数の屍人だ。ロアは気づいていた。
それらは瞬く間に街を埋め尽くした。
ぎゃあぎゃあと喚き散らす様子が悍ましい。
「……」
これが【七つ夜の怪異】の真髄だ。
世界への浸食が始まっていた。
真実を虚構にする祀り事が拡大していた。
例年に比べても早すぎる。
いつもは"観測者"のほとんどが狂気に堕ちた後からようやく始まる。
早くても第五夜、あるいは第六夜だ。
今回はまだ第三夜。
やはりこの七つ夜の怪異は何かがおかしい。
ロアは都会のビル群の一つ、その屋上にいた。
あまり目立たない中途半端の高さのビルだ。
そこから見える中でも、最も夜空に近い高層ビルに、複数の人影が確認できる。
ちらほら悲鳴も聴こえた。子どもの声だ。
それに背の高い大人の影が2つ。
ロアの視力で確認するに、どちらも女だ。
――狙ってくださいと言わんばかりである。
子どもの悲鳴。
それは救世主という乞食に撒かれた人質。
2つの影は無防備にも屋上で籠城中。
外からの狙撃を警戒する様子もない。
「ハァァ……」
喉が渇く。血が滾る。
親から受け継いだ救世衝動が頭を掻き乱す。
討たない理由はない。
昔、似たような現場に居合わせたことがある。
まだロアが10歳を超えた頃だ。
複数の人質を取って立てこもるテロリストを相手に、父親と二人で救出劇を繰り広げた。
あれは、全く人助けをした気がしなかった。
父親は、ロアと同じくらいの年齢から、あんなヒーローごっこを繰り返してきたらしい。
よく語られるエピソードだ。
誘拐された子どもをたくさん助けた、と。
【第三夜】の光景は、そんな父親の昔話から連想した情景に似ていた。
――――ぎり……。
歯軋りの音か、弓弦の音か。
ロアは魔性殺しの魔力で弓矢を生成した。
歪に曲がった棘の生えた弓。
それに矢をつがえた。
猛禽のような鋭い目が対象を見定めた。
○
屋上で少女が、ラララと歌っている。
歌声はその容姿から想像できないほど妖艶だ。
女は、捕まえた子どもたちを落ち着かせるために歌ったつもりだった。
だが、逆効果だった。
子どもたちは余計に怯えている。
「なにしてるのよ?」
仲間の女が不満げに睨んだ。
「あやぁ……。歌で少しは気持ちも和らぐと思ったのですが……」
「こんな状況で落ち着くはずないでしょ」
「それもそうなんですけど、でも……」
「やるなら無理やり黙らせるくらいじゃないと」
仲間の女――シグネは空に手を翳して魔術を練り出した。
「ほら、こうやって!」
「過激ですねぇ、シグネさん」
「どの道こうしてる時点で悪党じゃない」
炎と氷と雷撃と……色鮮やかな弾丸魔術が夜空に浮かび上がる。同時に、バチバチと紫電が空に弾けた。
「わぁぁあああぁっ」
「怖いよぉおお!」
悲鳴は収まらず、泣き出す子も現れた。
「ダメじゃないですか」
「うるさいわね。だから子どもは嫌いなのよ」
屋上が阿鼻叫喚で収拾がつかなくなった。
そこにビルの外壁から一人の男が這ってきた。
傷だらけの黒い修道服。
それも肉体の膨張に合わせ、はち切れんばかりに腫れ上がり、かぎ爪のような黒の魔力が、手先から禍々しく生えていた。
「フー……フー……」
「ああ、神父さんがおいでました」
その異形の姿に子どもたちは絶句した。
「おぉー、さすが神父さん。静粛にさせるプロ!」
「アアアアアア、グルルゥゥジゥ!」
「それ、皮肉にしか聞こえないわね」
男は醜悪な姿を晒していた。
緩慢に歩きながら、粘ついた黒魔力を汗や唾液のように垂れ流していた。
「グゥぅう……グ、ゴホン。落ち着きました」
纏わりついた魔力が剥がれ落ち、蒸発すると、男は聖職者然とした振る舞いに戻り、襟元を正した。
「強敵がいます。始末した方がよいでしょう」
しわがれた声。清潔な身なりの壮年の男。
――オズワルド・スキルワードだ。
「ほほう、強敵ですかぁ。想像はつきます」
「どうせロア・オルドリッジでしょう? あの男、もう少し情に弱くて正義感の強い男かと思っていたけど、とんだ冷血漢だったわ」
シグネは忌々しげにその名を呼んだ。
「……彼も厄介ですが、手に負えないので程々に泳がせた方が賢明でしょう。彼ではなく、喫緊の問題はソフィア・ユリネという魔術師です」
「誰? そいつ?」
「無名ですが、フリーランスで実績のある冷酷非道の女魔術師ですよ。このビルの中にいます」
オズワルドはソフィアを知っていた。
魔術界や神職で生計を立てる人間が少なくなった昨今、魔術師や聖職者同士が知り合いであることは珍しくない。世間が狭いのだ。
「どうもイレギュラーな存在が増えた気がしますが、何か知りませんか?」
オズワルドは歌うたいの少女に問いかけた。
少女は無視して、ふんふんと鼻歌を歌っている。
その自由奔放さに呆れ、溜息をついた。
「はぁ……。ソフィアはいずれ屋上にやって来るでしょう。そのときは」
「せっかく人質がいるんだから使えば?」
シグネは冷酷にもそんな提案をした。
子どもたちを使って脅迫しようというのだ。
「そんな策に嵌まる女ではないと思いますが……。まぁご覧の通り、街は掌握したも同然です。時が満ちるまで、もうひと踏ん張りしましょう」
オズワルドの呼びかけにシグネは、結局やることは変わらないじゃない、と悪態をついた。
邪魔者は始末する。
怪異が街を覆い尽くすまで待つ。
「しかし、子どもだけここに匿う理由は理解できません」
オズワルドは歌うたいの少女に不満をぼやいた。
元より街の子どもを集めたのは、少女の提案だ。
返事を期待してなかったが、少女は答えた。
「いいじゃないですか、神父さん。
怪物だらけの街から子どもを守る。うんうん。なんて慈悲深い善行でしょう!」
「ですが、これは誘拐のようにも映りますよ」
この強攻は目立つ。外敵を引き寄せてしまう。
場所が屋上というのも問題だ。
いずれすべて怪異に取り込まれるなら"匿う"のも無駄では、とオズワルドは付け加えた。
「……」
少女はぴたりと黙った。
そのあどけない瞳で何を考えているのか、オズワルドには分からなかった。
「過去にも、そんな教団がいましたよねぇ」
「教団……何の話ですか?」
「大義を掲げながら悪行を働く連中ですよー」
「え、ええ、そうです。宗教の歴史では儘あることでした。自分たちが信じる神や正義のためにヒトは愚かな行為に走るのです」
「ね? そういうことですよ」
「……?」
善悪は気にするな、と言いたいのか。
良かれと思った行いが傍目には悪にも映る。
歴史はそれの繰り返しだ。立場が変わればヒトは善人にも悪人にもなる。尤も、当事者にはそんな後付けの評判こそ無関係ではあるが。
「わかりました。大きな問題が起こるまではこのまま行くとしましょう」
オズワルドも、この少女の言うことをすべて信じているわけではない。七つ夜の怪異が始まってみれば、たまに提案が支離滅裂で要領を得ないこともよくある。
今の所は利害が一致しているから従う。
……そう、従うのはオズワルドの方だ。
「では、リンピアさんと所長さんが来るまで此処で待機ですね! ふっふふっ」
少女はまたしても夜空に歌い始めた。
上機嫌な歌声が都会のビル群に溶けていく。
遥か上空では漆黒の覆水が溢れていた。
○
ビル内部の一室でソフィアの回復を待つ。
昏い部屋には月光と街灯だけが差し込んでいた。
ソフィアの肩は、魔力を当てて治癒能力を高めているため、少し経てば傷口も塞がるだろう。
「――ほう、なるほど」
リンピアから経緯の大筋を聞いたソフィアは驚くこともなく、すんなり話を受け入れた。
「気になるのはロアという男だな」
「ロアくんのことは魔術師として気になるのはわかりますけど、今はスキルワードですよ」
蜥蜴のように四つん這いに動き、爪で攻撃してくる神父なんて世界中どこを探しても居ないだろう。
「またいつ襲ってくるか分かりません」
「まったく悪夢でも見てるようだな……」
ソフィアは立ち上がった。
力んだことで肩が痛んだようで、悲痛な表情を浮かべている。
「悪夢といえば悪夢なんですけど……。ソフィアさんはなんで七つ夜の怪異にいるんですか?」
「なぜかは私にも分からん」
「死神に襲われたり、とか?」
「なんだそれは。私は人探しをしていただけだよ」
ソフィアは部屋の隅で縮こまっている少女ミナ・ノチアに視線を投げた。
「もしかしてミナちゃんを?」
「そうだ。それが何とも奇妙な話でな――」
ソフィアは現実での出来事を話した。
きっかけは或る女性からの依頼だった。
その女性はエスス魔術相談所にやってきて、人探しをしてほしいと依頼してきた。ところが、誰を探してほしいか尋ねると「誰なのか思い出せない」と云うのだ。
普通なら病院を紹介するところだが、そんな依頼が1日で3件もあり、さすがのソフィアも偶然とは思えず、本格的に仕事を引き受けることにした。
決め手は3人目の依頼主がミナの母親レナ・ノチアで、彼女が以前も魔術相談所を利用したこともあって、よく知っていたからだ。
3人の共通点は、まだ若い女性である点。
既婚者で、アールグリッジ市民という点。
探したい人物が誰か分からないという点
「自分の子どもが分からないんですか?」
「そもそも子どもはいないと言い張るんだ」
「……」
――俺の師匠? 誰だぁ、そいつ?
――勝手に師匠がいた設定作んなって。
リンピアは第一夜のことを思い出した。
カレルと一緒だ。"在る"が"無い"に替わる。
それは【七つ夜の怪異】が招いた神隠しだ。
ソフィアは依頼主3人の住所や生活習慣から他に共通点がないかを探し、実際に街で異変を探索しているうちに、気づいたら此処にいたのだと云う。
「私もレナに子どもはいなかったと思っていたよ。さっきその子を見るまではな」
ミナは心細そうにソフィアを見ていた。
ソフィアはミナを慰めるために近づき、そっと頭を撫でた。
「大丈夫だ。思い出したから。前も事務所で会ったな?」
「うん……」
「安心しろ。私が母親のもとへ連れていく」
「……ねえ、ママは私を忘れちゃったの?」
しまった、とリンピアは思った。
ミナを気遣う余裕がなかった。
だが、ソフィアはすぐに理路整然と言い返した。
「今はな。だが、私が思い出せたのだから短期的な記憶障害だろう。再会すればすぐ思い出すさ。それに忘れていても探そうとするくらい、お前を想っていたということだぞ」
ミナはすっかり励まされ、笑顔になった。
所長のそういうところを見習いたい。
「ソフィアさん。他の子も、もしかして……」
「そういうことだろうな。さて、助けに行くぞ」
「はい!」
さっきは面食らったが、今は心構えも万全だ。
ソフィアという頼れる上司も一緒。
スキルワード以外に誰が待ち構えているか分からないが、子どもやその両親の為と考えれば勇気が湧いてきた。――贅沢を言えば、ロアが一緒だったらもっと安心だっただろう。
一方で、リンピアは焦りも感じていた。
限定的に考えていた【七つ夜の怪異】の影響が、アールグリッジにも及んでいるのだ。
――怪異はあらゆるものを呑み込んでいく。
場所も、人も、時代そのものも。
放っておけば、全てが無に還される気がした。
それは、もはや全世界の脅威なのでは……。