Episode14 第二夜 - 楽の釜盥
リンピアも試しに畑のキュウリをもぎ取った。
まじまじと見て、それが本物のキュウリだと分かった瞬間、得体の知れない気味の悪さを感じて背筋が寒くなった。
「お姉さんどうしたの?」
オット少年はトマトを豪快に平らげた。
魔力で描いた産地不明のトマト。
摂取した栄養素は一体どういう構成なのか。
リンピアはぼんやりとそんなことを考えた。
「魔術師ってこんなこともできるのかぁ。リンピアも夢中になって魔術を勉強してるから、いつか出来るようになるのかな」
「さぁ……。ど、どうだろうね」
まさか本人だとは気づいていまい。
リンピア自身もこんな、魔術師には到底成し得ない奇跡をやってのけたのは初めて。
だから理屈の部分はよくわからない。
再現できるものなのかも不明。
だが、不思議現象に関心を向けるのも魔術師の性だ。
「ねぇ、お姉さんは他に何が作れる?」
そう。そうだ。そうなのだ。
この純粋な好奇心こそ、求めていた刺激だったとリンピアは思い出した。注目もされない魔術師を名乗り、しがない探偵業でつまらない素行調査を繰り返す、ただの町の便利屋さんの自分では忘れていた純粋な興味……。
「わたし自身も何まで作れるか分からないよ」
「えー、なんだよそれ」
「だから、試してみよっか?」
目を合わせると少年は屈託なく笑った。
将来の彼からは想像つかないほど、輝いた目をしていた。
まずは"木"を描いてみた。
同じ植物でも、野菜より大きい物体だ。
リンピアは指を差しながら、青、黄、赤の魔力粒子を混ぜ合わせて、木の色を再現した。三原色さえあればどんな色も魔力の濃度変化でグラデーションのように変化させることは出来る。
この工程まで辿れるのはプロの芸術家の域で、本来ならリンピアにそこまでの技量はなかった。
今なら出来る。何故だろう。だが出来るのだ。
原因を考えるより好奇心の方が勝った。
木を描くと、本物の樹として形を成した。
近くで触ってみても幹の触感も本物。
表面を削ってみると木屑も取れた。
幼いオットと二人で喜び、次は次はと筆が進む。
「カブトムシ! カブトムシつくろう!」
オットは興奮してそんなことを言い出した。
さすがに生き物は……。と考えたリンピアだが、植物も立派な生物の一種。
出来るかもしれない。
「でも動物は……」
神への冒涜というか――。
でも、よく考えれば、ここは虚構世界だ。
本来なら純粋な少年時代のオットとこうして会話をすることも起こり得ない。七つ夜の怪異が紡ぐ異空間でこそ、そんな魔術実験も許される気がした。
「わかった。やってみよう」
リンピアはカブトムシを指先で描いた。
魔性の絵具はそのまま本物を創り出した。
普通に動く。手で取ってみて近くで確認しても紛れもなく"本物"の昆虫だった。
凄い凄いと興奮気味にオットは飛び跳ねた。
リンピアも喜ぶ少年を見るのが嬉しくて、それからトカゲや鳥、ネズミも描いてみたが、すべてがすべて本物の動物が生み出された。
どうやらこの絵描きの能力は無敵だった。
およそリンピアに絵として描写可能な物体はもちろん、生命体すら紡ぎ出すこともできる。
ロアが創る剣を模した魔力どころではない。
――作るものは本物なんだ。
そこで一つの疑問に突き当たる。
仮に、人を描いた場合はどうなるのか。
「…………」
ぶんぶんと頭を振って考えを振り切った。
本物の人間が生み出されたら怖ろしい。
それに、描かれた本人はどんな気分だろう。
例えばリンピアが自画像を魔力で描いたら、その描かれた分身の感覚は共有されるのだろうか。
不安がある。まだそこまでは試せない。
他に手頃で思い浮かぶものは――。
「もう終わり?」
「ん。他に何を描いてほしいの?」
「…………家、とか」
オットは小恥ずかしそうにそう呟いた。
「家ってどんな家? なんでもいいの?」
「……いや、うーん」
「どんな屋敷をご所望ですかい、旦那」
「急に訛った!?」
「ふふ、冗談だよ。さぁリクエストして」
――家。それはオットの探し物だった。
オットが探していたのは故郷の家。
じゃあそれを、と言われても要求に答えられないが、それでもオットの探し物が見つかるのならお安い御用だ。
ところが、
「お姉さんに任せるよ」
幼いオットはリンピアに委ねた。
そう言われると中々思いつかない。
リンピアにとって、"家"とはなんだろう。
オットと同じように孤児院で育ち、故郷を覚えていないからイメージが湧かない。アールグリッジ市街の借部屋は、我が家という印象が薄い。
深く考えるほど家というものが分からない。
七つ夜の怪異に迷い込む直前まで居たからか、イルマが経営する『喫茶・月光亭』がぱっと思い浮かんだ。
あれは家というより店だ。
だが少なくともリンピアにとって一番温もりある場所だった。
「ちょっと変わった風貌の家だけど」
リンピアは筆を走らせた。
あの門構えは特徴的でよく覚えている。
蔓だらけの庭園とアーチも緑一色。
内装も木造で、渋い雰囲気を醸し出す喫茶店だ。
外見は廃墟に見えるが、そこはご愛敬。
人気を博しているのだから需要はあるのだ。
リンピアは思いを巡らせて、長閑な昼下がりの孤児院の裏庭へ『喫茶・月光亭』を描いた。
出現した喫茶店は本物――。
リンピアは得意げにどうぞどうぞとオットを深緑生い茂る庭に通し、喫茶店の扉を開けてみせた。
店主になった気分で悪くない。
扉を開けた先にはイルマがいつもグラスを磨くか、珈琲を淹れるか、厨房で料理をしている光景が見えるばずだが、これはただの建物――。
「あ、リンピア。どこ行ってたのよ」
なのに、しっかりと店主までいた。
「えええっ!?」
「さっきも話の途中だったじゃない。オットのことで何か気にかかっ――――」
ばたん。リンピアは慌てて扉を閉めた。
まるで蓋するように、背で扉を押さえた。
……今、確かにイルマと目があった。
会話の内容もリンピアが七つ夜の怪異・第二夜に迷い込む直前まで話していた内容だから、時間軸はリンピアの認識と同じ。
「お姉さん、今、人が……?」
「今のは、えーっと……気のせい!」
「気のせい? いや居たよ」
「気のせいといったら気のせいなんだよ。とにかくこの家は無し無し!」
「……えぇ?」
リンピアは他の魔術と同様に消えろと願った。
すると現れた月光亭は霧散して消えた。
体系としては【召喚】に近い術式だ。この程度で怪異と現実が繋がってしまうなら、かなり境界もあやふやで不安要素が残る。
「待ってね。今度は普通の家を作るから」
とにかく次の制作に移る。
リンピアはよく見る一軒家を魔力で描いた。
想像していたが、やはりその物体の大きさ次第で魔力粒子も増えるし、より複雑な色彩で描くと魔力の消耗も肥大する。
一軒家を建て、どうかしらとオットに尋ね、少し違うとまた要求を受け、息切れと眩暈も感じながらも次の建造物を作ってみる。
それの繰り返しだった。
魔力欠乏の症状が出つつも、ここまで踏ん張る動機は、やはりオットへの後ろめたさだ。リンピアにはオットの理想の家を一緒に探す義務がある気がしていた。
でもそれは困難を極めた。
そもそも"家"とは何なのか。
オットが覚えている故郷の家をリンピアが紡ぎ出すことが出来たら彼の願いは叶うのか。
――否。そうではない気がする。
寸分違わずオットの生家を描き切ったところで、そこが蛻の殻なら、そこはただの建造物だ。
もはや彼の"家"とは呼べまい。
家というものは、温もりに溢れた場所だ。
彼が出かけるときには「いってらっしゃい」と言う家族が居て、帰ってきたら「おかえりなさい」と言う家族が居る。
そんな場所じゃないと駄目なのだ。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をするようになった。
膝に手をつき、リンピアは思考を巡らせた。
答えへ辿り着く為に何度でも。
「お姉さん、大丈夫か?」
「……」
もう他には何も無くなった。
孤児院の裏庭だった場所は何もない空間に変わり果てた。リンピアが繰り返し描いた"理想の家"に上書きされるうち、草原も掻き消された。
昼か夜か。屋内か屋外かも判別つかない。
そんな微妙な仄暗い空間にいる。
そうだ。ここは虚構空間。
ここに居る少年も本当は――。
「ふー……」
深呼吸をして最後の芸術に挑む。
リンピアに残された魔力はもう僅かだ。
描けるとしても小屋一軒が限度だろう。
「オット君――いえ、オット。次が最後よ」
「うん」
「よし。このわたし、コッコ不動産が特別素晴らしい家をご紹介します!」
大仰に宣ったのは己に向けた気合一声。
いざいざ内覧会も最後の物件だ。
緩慢に指先を動かし、残された赤の魔力で不格好な小屋を紡いでいった。
もう単色でしか絵を表現できなかった。
仕上げに赤茶けた荒野を描き切り、ガロア遺跡があったペトラリオ峡谷を再現した。
そしてツルハシを一本、オットに手渡した。
「さぁ、これで何処かを適当に掘ってきて」
「え、なに言ってんだよ、急に」
「いいから!」
ツルハシを押し付けられたオット少年は困惑した表情を浮かべた。
「自分が満足するまで掘ったら、ちゃんと帰ってくるのよ。――いってらっしゃい!」
リンピアはオットの背中を押して見送った。
首半分振り向きながら半信半疑でしぶしぶと荒野の丘陵に向かっていく。リンピアはそんなオットを大きく手を振って見送った。
適当な溝を見つけ、オットはツルハシを打ち込み始めた。最初は覚束なかったが、少しすると何か嵌まったようで夢中になって削岩を続けた。
リンピアは遠くにいる少年の背を見守った。
ずっと帰りを待ち続けながら。
どれくらい時間が経ったことか。
リンピアの体感時間ではとても長かった。
オット少年は疲れたようで、額の汗を拭うと踵を返し、満足気にリンピアの元へ戻ってきた。
「…………」
「…………」
オットの表情は柔らかくなっていた。
リンピアは不格好な小屋の前で一歩も動かず、彼の帰りを待った。それぞれ視線が交わるくらい近づいたとき、オットは何か気づいたように、はっとなって目を丸くした。
「リンピア」
「おかえりなさい、オット」
少年姿のオットではない。
本来の大人の姿で帰ってきた。
あの少年も本当はオット自身だったのだ。
リンピアの新たな力で次から次へと上書きされる虚構空間の中、オット少年だけは変わらずそこに居続けた。だからリンピアも気づいていた。
怪異が醸す狂気も、もう彼から感じない。
すべて振り払われた状態でリンピアの知る本物のオットが帰ってきた。
「そうか。これを」
――伝えたかったんだな。
いつも無口な彼だが、今は特に皆まで言わずとも理解できる。リンピアは安心して語りかけた。
「故郷を探すなんて……不粋だったな」
「うん。もう家なんか探さなくていいよ」
「ああ。そうだ……。お前が正しい。お前が正しかった」
その乾いた表情の中、双眸は潤んでいた。
本当の"家"が何処にあるか気づいたらしい。
「俺は今の自分を変えたかった……。冷めてて、歳を取るにつれて人から孤立してくのが怖かった」
いつになくオットは多弁だった。
リンピアは、うんうんと相槌を打った。
「お前のせいにしたかった、こんな冷めきった自分自身のこと……。故郷さえ見つかれば、それも変わる気がしたんだ」
懺悔の言葉。オットは不器用な男だ。
それはリンピアもイルマも知っている。
知った上で支えてあげなかった。
「だが故郷なんてない。俺が間抜けだった」
「ううん。わたしもごめん……。オットの気持ちや恩も忘れて、したいように生きてきた」
「お前は生きたいように生きろ」
「駄目だよ。これからは楽しかったこと、悲しかったこと、ちゃんと話していこう?」
「――家族のようにか?」
家族の形も千差万別。
肉親のいないリンピアやオット、イルマは、三人で一つの家族だ。家族として生きていい筈だ。
最近は少し疎遠になっていた。そんな日々があってもいいが、最後に「ただいま」を言う相手はその3人の誰かだ。それが家だ。
「うん。家族のように」
リンピアは涙を零しそうなオットに微笑んだ。
そういえば――とリンピアは思い出した。
イルマは『喫茶・月光亭』を開店した時、店名の由来を聞いたら「帰り道を迷わないように月明かりが照らしてるイメージね」と答えた。
イルマは分かっていたのだ。
不確かな"家"じゃなく、ちゃんとした場所として喫茶店を作ってくれた。考えると恋しくなる。
「帰ろう、って言いたいとこだけど」
すぐにでも喫茶店に戻りたかった。
だか、リンピアには魔力が残っていない。
また『喫茶・月光亭』を描いて道を繋げることはできなかった。
「無理するな。俺は少し……探索する」
「探索?」
「七つ夜の怪異の中にいるんだ。少しでもお前の力になりたい。リンピアも、今はあいつの為に頑張ってんだろ」
あいつ――の顔を思い浮かべた。
リンピアは思考が止まった。
幼馴染に想いの内を見透かされるのは気恥ずかしいものだ。
「……」
「何年来の付き合いだと思ってんだ。言わなくても分かる」
「ははは、そうだよね……」
顔が熱く火照るのを感じた。
視線を反らして照れ笑いを浮かべるリンピアを見ながらオットは満足げに笑った。
同時に、赤茶けた荒野や小屋が崩壊を始めた。
硝子細工のようにバラバラに砕けて、上空に吸い上げられるように、瓦礫が宙へ舞っていく。
「なに!?」
「きっと、成立しなくなったんだ」
「成立ってどういうこと?」
「俺が探し物を探さなくなった。いや、探し物はもう見つけた。争う動機もなくなった。【七つ夜の怪異】が人の願望を嗅ぎつけて機能する怪異なら、その体が保てなくなってんだろう」
オットは、リンピアが思う以上にこの怪異が何たるかを掴んでいた。
「じゃあな。また夜明けにあの場所で会おう」
彼はそれだけ言い残すと、名残惜しそうにするでもなく荒野の彼方へ歩き始めた。
振り返りもしなかった。
亀裂の入った世界の破片に埋もれていく。
「……ありがとう、オット。また、あの場所で」
お互い、さよならは言わなかった。
家族に別れの言葉なんて言わないものだ。