祝福を受けた国
なだらかな丘がいくつも広がる草原があった。
空は青く、ところどころに雲が浮いている。
温暖な気候で、日差しはあるがそこまで暑いわけでもない。
そんな中を、延々と歩いていく人影が二つ。見渡す限りの範囲に大きな生物はおらず、それが彼らを一層目立たせている。
「本当にこの方角であってるのか?」
二人のうち、背が高く、長髪を後ろで縛った男がもう一人の男に聞く。
聞かれたほうの男は、懐から地図を取り出した。その手には、小さな羅針盤もある。
歩みを止めずに地図と周囲の景色を見比べた男は、地図を畳んだ。
「間違いない。というかお前、国に着くちょっと前になったら毎回そのセリフ吐いてるだろう、レイ」
男はその灰色の双眸を細めて隣の男、レイを見る。
レイは、自分の記憶を辿っているらしく、唸り声をあげながら頬を掻いた。しかしその表情が一向に変化しないところを見ると、思い当たる節はないらしい。
「俺昔行った国の事とか、あんま覚えてねえからなあ。やらかした事だけで脳の容量が一杯だ。エルは昔行った国の事とか覚えてるのか? 例えば、俺を拾ってくれる前に行った国の事とか」
「覚えているぞ」
自分の問いにあまりにも早く答えが返ってきたので、少々驚いた表情になるレイ。
「......マジで?」
更に、その返答にも衝撃を受けながら確認する。
エルは、頷く代わりに軽く肩を竦めた。
「俺は別に当てなく放浪してるわけじゃない。この世界にある国を、色々と見て回りたいから旅をしてるんだ。一々行った国を忘れていたら、旅をしている意味が無くなってしまう」
間の抜けた感嘆の声を漏らすレイ。
頭の中では、思い返せば、彼が旅をしている理由など聞いたことも無かったなあなどという事を考えていた。
「エルの生い立ちとか、全然知らないなあ」
その独り言に、エルはまたも眼光を鋭くする。その瞳の奥には、なにやら不穏なものが混じっているようにも見えた。
どう見ても深入りしないほうがいい話題である。レイは早急に話を中断し、歩く事に集中し始めた。
「って、もう町見えてるじゃん」
沈黙の時間は一分にも満たなかった。
今二人が居るのは、他よりも少し高い丘の頂上。遠くには海と、その海岸線を飾る港町が見えた。
赤い屋根とクリーム色の壁が特徴的な家が立ち並ぶその町は、人こそ見えないものの、活気がありそうな雰囲気を醸している。
「あの町だ。町といっても国に属してるわけじゃないから実質一つの国のようだな。聞いた話によると、どうやらまた癖のありそうな町のようだ」
町を見つけた事で、テンションが上がっているレイにエルが説明した。
「ん、癖って?」
レイに聞かれ、エルは説明しようとするが、逡巡して口を閉ざす。
「今説明してもいいが、実物を見るほうが面白いと思うぞ」
「それもそうだな!」
エルの考えに、エルは納得がいったらしい。顔を輝かせると、速足で丘を下っていった。
――
その町の活気は、町に近づいただけで漏れてきていた。
どうやら市場が開かれているらしく、客を呼び込む声や、客たちの雑踏が町の外まで聞こえてきていたのだ。ほとんどの国が作っている、外敵から身を守る為の堅牢な城壁の類がないのもその理由の内だろう。
「おお、すげえいいとこじゃん! あ、向こう側に海もあるんだよなあ?」
町の入口につくと、案の定レイのテンションも最高潮である。
これは、また振り回されそうだと、こっそりとエルが溜息をついた。
入国審査の類も一切ないらしい。町の外からの客に気が付き、より一層呼び込みが大きくなる。
「おお、町へのお客さんなんて久しぶりだなあ。ちょっとウチの商品見てってくれよ」
「いやいや、そっちを見る前にまずはウチの品物だ。ナイフとか研ぎ石とか、旅に必要なものをたくさん取り扱ってるぜ」
「それだったら、アタシんとこの保存食だ。日持ちするし、味も折り紙付きだよ!」
こんな具合だ。
レイは声を掛けられる度、その店の品物を眺め、店の者を話をしたりしている。エルはそれを一歩引いたところから見ているの。この構図は国に到着した直後によくある構図なのだが、まるで遊ぶ子供とそれを見守る親のようだと、エルはいつも思っている。
「おいレイ、そろそろ宿を探すぞ」
頃合いを見計らってレイに声をかける。この流れを含めて完全に親子なのだが、最早それは国に到着した時の恒例行事だ。
レイは名残惜しそうにエルのもとへと戻ってきた。
宿を探す、という言葉を敏感に察知した者たちが、今度は宿の紹介の為に声をかけてくる。
その中で、信用できそうな人を一人選んで案内をお願いした。
連れてこられた宿は、それはそれは快適なものだった。
部屋にはベッドやシャワールームなどが全てあり、窓からは海を見ることもできる。加えて宿の店主が、エルたちが町の外から来た旅人だとわかると、とてつもないサービスをしてくれた。
部屋で夜食をがっつくレイが、そのサービスの内容を物語っている。
「食事を無料にしてくれるなんて、ほんと、良い宿に巡り合えたなあ。そう思わない? エル?」
一旦手を止め、ベッドの上で壁に背をつけて座っているエルの声をかけるレイ。
エルは、頭の後ろで手を組んだ体制で、目を閉じていた。レイの声に反応しない。
「......ベッドの上で座りながら寝たのか?」
立ち上がってベッドに歩み寄り、エルの顔を覗き込むレイ。
その瞬間、誰かが入口のドアノブに触れた微かな音がした。
「誰だ」
目を開いたエルが、呟くと同時に灰色の目を扉へと向ける。
エルの声量は、恐らく玄関の外まで聞こえているであろうほどの大きさだ。
しかし、何も返答が返ってこない。
「......気配は、確かにあるな」
そういうレイも、流石に顔を強張らせている。
ベッドから床におり、懐からナイフを取り出しながら、エルは扉へと近づいていく。普通の人から見れば警戒しすぎなようにも見えるが、旅人は往々にして常に最大限の警戒をしていなければいけないものなのだ。警戒に手抜きをすると命の危険に見舞われる恐れがある。
扉の前までくると、エルは内側に開く扉に隠れるような体勢で、勢いよく扉を開いた。
部屋の中に居るレイは、物陰に身を潜めている。
誰も部屋に飛びこんでこないとみるや、エルは扉の影から出て、廊下に立つ人影の喉元にナイフを当てた。
「もう一度聞く。誰だ」
再びエルが質問するのと、廊下の人影が驚いて息を飲むのが同時だった。
その態度に、とりあえずの敵意がない事を確認したエルは、一旦ナイフを下す。
「す、すみませっん、旅人さんのようだったので、ちょ、ちょっとお願いしたいことが......」
動揺のし過ぎで、男はつっかえながら言った。深夜に突然見知らぬ人を尋ねたという負い目に、いきなり刃物を突き付けられた驚きが加わったのだ、これが普通だろう。
「お願い?」
「は、はい」
エルが話を聞くらしい事がわかると、男は安堵のあまりその場にへたり込んでしまった。よく見ると、身にまとっている服はボロボロで、体の至る所に痣や傷がある。
「この国を出て生き延びる方法を、教えていただきたいのです」
――
男がしたのは、とても奇妙なお願いだった。
エルは部屋の中に男を入れ、事情を聴く。
「私は、この国の中では異端になってしまうのです。この傷も、私が異端である故に迫害を受けてできたものです」
「異端?」
夜食の残りをつまんでいたレイが、話に割り込んできた。
すると男は、縋るような眼で二人を見る。
「私は......普通の人間に見えますよね? もちろん精神的にとか、そうではなく、外見的に、です」
お願いに続いて、質問もとても奇妙なものだ。
「至って普通に見えるが? 怪我をしている以外は」
見たままの正直な答えを返すエル。彼の言うとおり、男の身体は至って普通の人間にしか見えない。
その答えに、男は安堵の息を漏らした。
「そう......ですよね。やっぱりおかしいのはこの国の人達で合ってるんだ......」
「俺たちには、お前も、他の人らも皆普通に見えるが?」
先ほどと同じように、見たままの正直な事を言うエル。
すると男は、窓をチラリと見ると、立ち上がった。
「この時間帯、漁をやってる筈なんで、見てもらってもいですか? ここの窓から見えると思います」
そう言って窓に近寄る。
エルとレイも、男に続いて窓を見た。
月明りで幻想的に輝く海には、子船が数隻浮かんでいる以外何もない。
少し待っていると、小舟のすぐ側に人が浮かんできた。その手には大きな魚が右られている。
「......素潜りであんなにでっかい魚を? 銛も何も持ってないのに、すげえな」
関心したように声を上げるレイ。しかし男は首を横に振った。
「あの魚、水深何百メートルも下に居る魚なんです。この国の人たちは、当たり前のようにそこまで潜って、当たり前のように尾鰭を掴んで戻ってくる。可笑しいですよね?」
男の言う事は信じがたいものだ。しかし道具も何も使わずに魚を捕っているのを、たった今目の当たりにしている二人は、それをある程度信じざるを得ない。
「この国に伝わるとある文献によると、この国は昔神様からの祝福を受けたんだそうです。だからああやって魚のように海の中を泳ぎ回れる」
男の解説が終わっても、二人は数秒の間声を出さなかった。
少したってから、エルが口を開く。
「つまり、それができないから自分は異端だ、と?」
ゆっくりと頷く男。
するとエルは、溜息をついて机へと戻る。
「なるほどな。それだったら、そっちのほうが色々教えてくれるだろうさ」
そっちのほう、というのはレイのことだ。偶然にも、男の置かれている状況が、レイの生い立ちとよく似ているのだ。
「お、教えろって突然言われてもなあ......」
当のレイは、思案顔で頬を掻いている。
少しして、何か思いついたように拳で手を打つ。
「別に用意なんていらないよ。まあ準備する余裕があるのなら、食料とか道具とか、色々揃えたらいいと思うけど......」
その時、扉がノックされた。どうやら店主が、夜食を下げに来てくれたらしい。
「そんな余裕、なさそうだからね」
入ってきた店主は、男を見るなり表情を一変させた。怒りに震えた声で、何故ここに居るのか、どうやって侵入したのどと問いただす。
逃げようとした男は、しかし店主につかまり、外へ引きずり出されていった。
その後、開いた窓からは微かに悲鳴が聞こえていた。
――
翌朝、二人は町を出ていた。
特に何か理由があるというわけでもなく、言ってしまえば気分、という奴だ。
「あの男、どうしたんだろ」
丘が連なる草原の真ん中で、ふと思い出したようにレイが言った。
「さあな。お前の話を聞いてどうしたか、それは俺たちには関係ないことだし。それより、言った通りだったろ? あの町は癖のある国だって」
町を入る前にエルが言っていた事を思い出すレイ。
エルの言っていた『癖』というのが、水中で自由に動けるのが普通の人間だと信じていたことに間違いないのは、すぐにわかった。
「よくわかったよ。やっぱり、他の国にも知られてたことだったんだな」
事前に情報を手に入れる手段は、以前に立ち寄った国か、道中で出会った旅人くらいだ。そして彼らはここ最近旅人に出会っていない。つまりエルの事前情報は、以前立ち寄ったどこかの国で、レイがはしゃいでいる間に手に入れていたものという事になる。
「そのようだったな。......ついでに、その国であの町がなんて呼ばれてたか聞くか?」
「......興味あるが、正解をそのまま聞くのも面白みがないなあ」
レイの言葉を聞いて、エルは逡巡する。
「じゃあヒントだ。ちょっと難しめだがな」
「おうよ」
「陸海空を自由に行き来できる船は、果たして船と言えるのか?」
――
男は、死に物狂いで町から離れていた。
その右目は潰れ、痛々しい火傷ができている。昨晩負わされた傷だ。
彼は今、町と平原を隔てた反対側にある森に居る。一晩中平原を歩き続けていた。
しかし、彼の身体がついに限界を迎える。
足の力が抜け、男は地面に倒れこんだ。
少しづつ意識が遠のいていく。
男、カイは、開いていた左目もゆっくりと閉じた。