プロローグ
住宅街の一角。
小柄な体は跳ね上がり、強烈な蹴りを放つ。
「ぐぅっ!」
腹を蹴られた男は吹っ飛び、石造りの塀にぶつかる。
向かってきた男の腕を掴んで背負い投げ、立ち竦んでいた女の顔面に拳を振るう。
「あ、あぁ……」
鼻先で寸止めされた拳。女は呻き、へたり込んだ。
派手な大立回りを演じたのは、幼げに見える少女だった。
乱れた栗色の髪は柔らかく、ウェーブがかかっている。大きな瞳は琥珀を嵌め込んだような色合い、きゅっと引き結ぶ唇は小造りだ。
「変態さん」
鈴を転がしたような可愛らしい声。
どこからか現れた数人の男女が乱雑に三人を捕縛し、連れていく。
そんな非日常に何とも思わなくなった自分が嫌だ、と体の緊張を残したままに思う。
「ご主人様」
鼻息も荒く己を呼ぶ相手を、視界に入れたくない。
内心の罵倒を押し込めて、小首を傾げる。
「だーめ、まだ足りないの」
お預けだよ、と愛らしい顔に浮かぶ笑み。
「ねぇ、変態さん」
股間を膨らませている輩など、変態で充分だ。
「お願い、聞いてくれるよね?」
ああ、本当に嫌だ――声を作り、無垢な少女のふりをする。
身も心も男な美少女は、成長期を切望していた。
五月七日明希葉、十六歳。
幼い頃からお人形さんのように愛らしく、常に身の危険をひしひしと感じていた。道を歩けば痴漢と痴女を釣り上げ、ストーカーは順番待ちしている有り様。男だと公言するが、人間の業の深さを思い知るだけだった――少女めいた男に需要があるなんて、知りたくなかった。
父親のツテで道場に通い、開き直って変態を管理してみたり――もはや悟りの境地である。容姿は最大限利用すべきなのだ。男のプライドでは、世の中渡れない。
「つーゆーりーっ!」
放課後、 学校の廊下――両腕を広げ、突進してくる物体を華麗に避ける。空振りしたその手をわきわきと動かし、振り返った少女は大袈裟に嘆く。
「冷たいっ! 冷たいよっ、つゆりん!!」
「誰がつゆりんか」
冷ややかに返した声は、男の子のものだと分かる程度には低い。
野口美羽、五月七日明希葉の大親友を自負する少女である。
歩き出した明希葉の後を追いかける美羽は楽しげに、足取りは軽やかだ。にひひっと笑う彼女は悪戯っ子そのものの顔で、美人な顔面を台無しにしている。
「……」
猛烈にイライラした明希葉は、美羽の腕をぺしぺしと叩いた。
「ちょっ、いたっ!」
「うるさい、縮め」
頭を叩きたいが、届かない事実をが腹立たしい。
美羽は女性にしては長身なのだ。
「つゆりさん、つゆりさん。可愛らしいつゆりさんはどちらに?」
身長に対する主張は一段落し、美羽は美少女な明希葉を求めているらしい。
「主張中です」
ばっさり切り捨てる。
美羽は児童ポルノに引っ掛かりそうな性癖は持たないし、「あたしの好みは年上のナイスミドル」だと断言している。可愛こぶっても、何も釣れない針を垂らすのは無駄だろう。
じゃれ合いながら玄関に差し掛かったときだった。
ぐにゅり、と足が沈んだ。
「は?」
「どわぁっ」
女子力皆無な叫びを聞いたのを最後に、明希葉の意識は途絶えた。