END
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「……ごめんね、呼び出しちゃって」
「いいの、もう帰るだけだったから」
待ち合わせは近所の公園にした。青野さんがわざわざ、あたしの家の近くまで来てくれたのだ。
私服に着替えたあたしに対し、青野さんは制服のまま。とりあえず座ろうかとベンチに座った。
こうして隣に座るのは、病院以来だ。
「ピエロのぬいぐるみのことなんだけど……」
あたしは早々と切り出した。空はもう、夕焼けとともに薄闇が広がりはじめている。ためらっていたら日が落ちて、言えないまま終わってしまいそうだった。
「ちゃんと、愛してあげた?」
青野さんは、そう言いながら、あたしの手の中にあるピエロの頬をつついた。しゃべりこそしないものの、ピエロもくすぐったそうに身をよじらせている。ピエロが動いているということに、あたしはもう、嫌悪を感じなかった。
「愛してあげてね。私は、できなかったから……」
そう呟く青野さんの横顔は、夕日に照らされて深く影をつくっている。伏せられたまつげが、小刻みに震えていた。
「青野さんのところにも、来たんだよね」
「うん。でも、愛せなかった」
気づくのが遅くて、去っていった。彼女は、そう呟く。消え入りそうな小さな声で、遅かったのと、自分自身に言い聞かせている。
だからあたしは、ピエロを手渡した。
「人形ごと、あげるから。だから、愛してあげて?」
渡されて、青野さんは伏せていた目を見開く。何か言おうと口を開くから、あたしはそれをさえぎった。
「この子、青野さんの子供なんだよね?」
中絶して、もう身体はないけれど、魂だけは残っている。その魂が、このぬいぐるみに乗り移ったと考えれば、納得がいくし、もう、そうとしか思えない。
愛をくださいと、得られなかった愛を求めて、母を求めて。
青野さんの子供が、このピエロに、乗り移って。
お腹のころに満たされなかった愛を求めて、あたしに訴えてきた。
「そうでしょう?」
「――違う」
あまりにもきっぱりとした否定に、あたしはとっさに何も言うことができなかった。
「違うわ、違う。私の子じゃない」
「でも……」
食い下がるあたしに、彼女は首を振る。違う、違うわ。そう呟きながら、静かな瞳であたしを見た。
「あたしの子は、この子」
そう、彼女はバッグに手をやる。そこにぶら下がっているくまのぬいぐるみを指す。ピエロのようには動かない、ただ重力に従っているだけのくまを、青野さんは大事そうに撫でた。
「このくまも、ピエロみたいに、動いたの。気持ち悪くてずっと無視してたけど、堕ろしたら、うんともすんとも言わなくなったの」
わかる? と瞳で問われて、あたしは何も言えなくなる。
嘘ではない。
こんなこと、嘘にしていいわけがない。
「堕ろされるのわかってたから、この子、頑張って愛してもらおうとしてた。せめてお腹にいる間だけはって、ずっとずっと、愛をくださいって」
口調も、ただ静かで。あたしはピエロを返されて、受け取るしかなかった。
「私は気づくのが遅かった」
でもね、と、彼女は立ち上がる。太陽を背にして、逆光で黒くなった姿であたしに言った。
「でも、筒井さんはわかってるんでしょ?」
手を差し出されて、あたしは立ち上がる。そして背を押されて、歩き出した。
後ろで青野さんが、声をかけてくる。
「愛してあげて。どんな結果になっても、今は愛してあげて」
あたしは振り返らず、歩き出す。思わずかけだしそうになって、ダメだと思って歩調を戻す。ピエロを両手に握り締め、ただひたすら、歩く。
生理なんて来ていない。
あたしは浩二に嘘をついた。
これ以上彼に心配をかけてはいけないと思ったから。大会が近いのだから、部活に集中してもらいたかったから。
あたしは生理不順だから、体温の変化も、そのせいだと思ってごまかした。事実を知るのが恐くて、何とか自分に都合のいい言い訳をしていた。
でも、青野さんに言われたら、もう逃げることはできない。
くまを撫でる青野さんは、とても愛おしそうな表情をしていた。
あたしはピエロに、あんな顔してあげていない。
もう逃げられない。言い訳もできない。ピエロからも、青野さんからも。
そして自分からも、逃げられない。
あたしはただひたすら、歩く。薬局に行かなきゃ。お金はあったかな。
妊娠検査薬、買わなきゃ。
ピエロが、ささやく。
愛、を、ください。
END