2話
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ピエロが動き出したのは、一ヶ月ぐらい前のこと。夏休みがあけて、課題テストが終わったころだったと思う。
いつも持ち歩いているピエロが、突然、動き出した。
愛してください。愛してください。昼も夜も、あたしだけにしか聞こえない声でそれは訴えてくる。たまらず捨てても、いつの間にかバッグに戻っている。勝手にバッグから離れては、夜に枕元にあらわれる。
みんな、スクールバッグにキャラクターもののぬいぐるみやリボンなど目立つものをつける中、あたしはピエロだった。店でみつけて一目ぼれして買ったものだから、突然こんな風になってショックを受けた。
何かにとりつかれているとしか思えない。
家に帰って、ピエロをバッグと一緒にベッドの上に放り投げて、あたしはケータイのアドレス帳を開いた。
登録名は、『尋ちゃん』。一度も呼んだことのない、青野さんの名前だ。
青野さんは、このピエロのことがわかるんだ。あたしは、教えてもらってから一度もかけたことのない番号を呼び出した。
愛をください。愛をください。ピエロが、バッグの下敷きになって苦しそうにもがいている。愛をください、なんでもするから。
青野さんに訊こう。
あたしが通話ボタンを押そうとしたとき、ケータイが鳴った。
驚いて、思わずケータイを放り投げてしまう。最近ピエロのことで神経をすり減らしているから、ほんの些細なことでも、心臓が早鐘を打つようになってしまっていた。
それでもあたしは名前を見て、すぐに出た。
「もしもし、浩二?」
『真悠、声震えてない? なんかあった?』
ううん、なんでもない、とあたしは咳払いをする。ケータイを拾ったときのまま、絨毯に座り、ピエロを視界から消した。
「最近電話ばっかりしてくるね、珍しい」
『なんだよ、メールのほうがいいのか?』
「そういうわけじゃないけど」
中学のときから付き合いはじめて、スポーツ推薦で地元から離れた高校に行った浩二とは、三年の遠距離恋愛が続いている。もうすぐ大会だというのに、彼は最近よく電話をしてきた。
『ただ声が聞きたくなっただけ』
「お盆に会ったばっかりじゃない」
幸い、ピエロは電話がかかってきたとたんぴたりと動かなくなった。ピエロが動いたりしゃべったりするのは他の人にはわからないようだけど、青野さんにはわかっていた。電話のむこうで愛をくださいと騒がれたら、浩二も驚くだろう。
彼はあたしの心配なんて知らずに、あっちの学校のことや部活のことを話している。その中には夏休みのときに聞いたものもあって、正直今は一刻も早く青野さんに相談したかった。
『……なんか、機嫌悪い?』
「えっ、全然」
苛立ちが伝わったのだろうか、あたしはあわてて声をつくる。
「生理中なだけ。気にしないで」
『そっか』
そっか、の声に、安堵が含まれているのをあたしは聞き逃さなかった。
お盆休みで帰ってきたとき、エッチの最中に起きたこと。浩二はそれを気にしていたのだろう。
『そっか……』
本人は悟られまいとしているようだけど、バレバレだ。それ以降、話す声がやたら明るい。四六時中、ゴムが破れたことばかり気にしていたのだろう。
「……じゃあ、切るね?」
『おう、機嫌悪いとこごめんな』
大会頑張ってね。そう、どうも身の入りきらない応援をして、あたしは通話を切る。そしてすぐに、青野さんにかけた。
会話を終えた瞬間、ピエロが激しく暴れだした。恐くて、あたしは電話がつながるまで、身体を折ってうずくまっていた。
愛、を、ください。
愛して、くだ、さい。