序章 人間に転生しました。
のんびり、ゆるりとお付き合いください。
西暦二〇〇〇年、春。ここ吉戸神社には花吹雪が舞い、長い石段に参拝者の行列ができている。
鳥居・拝殿・本殿・祈祷殿のみで構成され、小規模ではあるが、およそ千三百年前に建てられた由緒ある神社である。古来縁結びのご利益があるとして、地元の人々に愛されており、その噂が通信機器の発達と共に全国へ広まって、こうして十代から三十代の若い女性を中心にたくさんの参拝者が訪れるようになっていた。
「ほんと、この季節になると客足が絶えないわね」
吉戸神社が祭る縁結びの神――『姫煌神』――の三女、三ノ姫が、うつ伏せになって頬杖をつき、呆れたように言った。拝殿の中、参拝客を正面から眺めながら、巫女服から少し出ている足をパタパタとさせている。おかっぱの幼い顔立ちで、多く見積もっても十五歳には届かないだろう。
『ほっそりとしたイケメンの、年収五百万円以上の彼氏を下さい!』
たった今賽銭箱に十円を投げ入れた女性からそんな願いが届いて、三ノ姫は丸みを帯びた頬を膨らませた。次いで、右手の親指と人差し指を幾度かこすり合わせ、パチンと指を鳴らすと、その女性の左小指に結ばれていた赤い糸が伸びていく。同時に、近くにいた恰幅のいい男性の左小指から赤い糸が伸びて、二つの糸が蝶結びにされた。
――たかが十円で希望通りになるとは思わないことね。
「みぃちゃん……勝手なことして。怒られても知らないわよ?」
後ろから、二ノ姫が三ノ姫をたしなめた。二ノ姫は三ノ姫の顔立ちによく似ているが、長髪で三ノ姫よりもやや大人びており、目は少々垂れている。
姫煌神の娘である彼女たちに、名は無い。長女から順に、一ノ姫、二ノ姫、三ノ姫と呼ばれる。『みぃちゃん』と二ノ姫が三ノ姫を呼んだのは、三ノ姫が猫好きで、小さい頃から『みぃみぃ』と鳴き真似をしていたからだ。
「別にいいじゃない。どうせ最後なんだから。今日でわたし死んじゃうんだし。怒られるも何もないでしょ」
「死ぬなんて……そんなこと言わないで」
二ノ姫は俯き、泣きそうな顔で言った。
数日前、姫煌神の一ノ姫が『継承の儀』を終えて正式に縁結びの神となった。一ノ姫と二ノ姫の保険として産まれた三ノ姫は、この時点でお役御免となる。二ノ姫もまた、一ノ姫が第三子まで産んだ時点で、お役御免だ。
お役御免となった後は、『転生の儀』が行われる。肉体も記憶も縁結びの力もすべて取り上げられ、人間の子供として、新たに生まれ変わるのだ。『神力の持ち主は必要最小限に留めよ』という先祖代々の教えは、現代においても受け継がれている。
「生まれ変わるなんて、体のいいこと言って。記憶が取り上げられちゃうんじゃ、そんなのもう、わたしじゃ無いじゃない。殺されるのと――」
「三ノ姫様、準備が整っております」
二ノ姫のさらに後方から、かすれた男の声が聞こえた。吉戸神社の管理者、老齢の宇都木鏡月である。姫煌神に許された存在だけが神格である彼女たちを認識できるが、人間では宇都木ただ一人だ。
「わかったわ。すぐ行くから、先に行ってて頂戴」
宇都木は恭しくお辞儀をすると、音を立てずに下がった。
三ノ姫が二ノ姫に微笑みかけて言う。
「あとはお願いね、小姉様。わたし、小姉様のこと大好きだったわ。それだけで、生きた価値があったなぁって思うぐらいよ」
「そんな風に言わないで。わたし、あなたが生まれ変わっても、ずっと、ここから見守っているわ」
二ノ姫の唇は震え、今にも泣き出しそうだ。つられて泣きそうになった三ノ姫は、慌てて二ノ姫に背を向けた。
「ありがとう。小姉様がずっと見ててくれるって思うと、不思議と怖くないわ。じゃ、いってくるね」
三ノ姫は駆け出し、巫女服の袖で強く涙を拭った。
* * * * * * * *
――まるで、大きな棺桶ね。
三ノ姫は祈祷殿の中に入り、辺りを見渡しながらそう思った。
中央には太極図が描かれ、その周囲には三ノ姫が好きな食べ物や遊び道具が置かれている。三ノ姫の愛猫、『小太郎』まで連れてこられていた。明かりは奥にある行燈二つだけが頼りで、薄暗い。
――あんなものまで。
やれやれ、といった様子の三ノ姫の視線の先にあるのは、『ファミリーコンピューター』の本体である。三ノ姫はレトロゲームが大好きで、特に『〇リオブラザーズ』のシリーズには目がない。
「三ノ姫様が旅の道中寂しくないようにと、用意させました」
にこやかに言った宇津木に、三ノ姫は「お気遣いどうも」と素っ気なく返す。魂だけになって旅立つというのに、こんなものがあったところでただの置物だ。
「大丈夫……? もう、心残りはない?」
不安気に言ったのは、三ノ姫の母――先代姫煌神――である。長きにわたり、丹誠を尽くして姫煌神の使命を続けた影響からか、髪は白く染まり、痩せた弱弱しい体躯だ。
『転生の儀』は、この三名だけで行われる。以前は姉妹も参加していたが、儀式に支障が生じるケースが多発したことから、転生者、術者、見届け人それぞれ一名ずつを参加者とする規則が設けられた。
「何も。やっとこんなつまらないところから抜け出せて、せいせいするわ」
三ノ姫は強がって言ったが、体は震えている。先代はそれを見逃さなかった。
「やはり、わたしも一緒に。『転生の儀』は、現姫煌神にだってできるでしょう」
「なりません」宇津木がぴしゃりと言った。「先代には、一ノ姫様――姫煌神を教え導く使命がございます」
「あの子は優秀よ。わたしがいなくたって――」
二人の論争を、三ノ姫は「やめて」と遮って言う。
「あなたについて来られたって、迷惑以外の何物でもないわ。今更母親面しないでもらえる?」
先代は膝をつき、顔を伏せて泣き始めた。短命に終わることを知りながら三ノ姫を産んだというのに、返す言葉などあるはずもない。
「宇津木、始めて」
先代の様子を気遣うことなく三ノ姫は言って、太極図の中央で正座をし、瞑目した。
宇津木は三ノ姫の正面、太極図の外側に立ち、一礼をして巻物を広げる。
「古の例に習い、三ノ姫に宿りし神威を天に還し、その魂が新たな道を歩むべく――」
――大丈夫。わたしは生まれ変わるんだから。痛くないって言っていたし、大丈夫、大丈夫。
長い前置きが続く中、三ノ姫は心の中でそう自分に言い聞かせていた。この日を迎えることを知ってからというもの、三ノ姫なりに心の鍛錬をしていたが、自分が自分でなくなってしまう恐怖は、どうにも抑えようがなかった。
「――では、先代。三ノ姫様を送ってあげてください」
巻物を読み終えた宇津木が言って、先代はふらふらと立ち上がり、太極図の中に入った。そして、三ノ姫の正面で座り、三ノ姫の額に手をかざす。
「……ごめんなさい」
そう一言告げると、三ノ姫の体は穏やかな白い光につつまれ、頭部から粒子となって消えていく。
――自分の娘を、自分の手で殺すのってどんな気分なのかしら……ん?
三ノ姫は異変に気付く。
宇津木から聞くところによれば、先代の『術』が発動した時点で意識が途切れるという。しかし、真っ白な空間を漂ってしばらく経ったというのに、三ノ姫の意識は保たれたままだ。
――言い伝えと現実は違うのかしら……え?
次いで生じた明らかな異変。白い世界は黒い世界にうって変わった。そして――。
――く、苦し……!
呼吸が止められているような感覚。苦しみ悶えながら、三ノ姫の意識が薄れていく。
――まさか、失敗したの!?
三ノ姫の意識が途切れる寸前。突如、呼吸が戻って来た。真っ暗だった空間には、うっすらではあるが、確かな明るさを感じる。そして、何やら周りが騒がしい。
――なんなのよ、一体……って、痛い痛い!
今度は何かに叩かれたような感覚。意識だけの世界で、悲鳴を上げようとしたその瞬間。
「ほぎゃあ」
――あ。
ようやく、三ノ姫の意識と、『新たな肉体』がはっきりと繫がった。
――どういうことなの……?
確かに残されている、前世の記憶。三ノ姫の脳裏は疑問符でいっぱいだ。状況を知りたくて誰かを呼ぼうにも、「ほぎゃあ、ほぎゃあ」と泣き声に変わるばかりである。
――しばらく、様子を見るしかなさそうね。
それから数時間。ようやく、三ノ姫の目が開いた。まだ少しぼんやりとしているが、真っ白な天井が見える。
――やっぱり、生まれ変わったのは間違いないみたい……あら?
白衣を纏った女性が現れて、台車の上のベッドに乗せられた三ノ姫が運ばれていく。やがて、ひょいと抱えられ、「お子さんですよ」と別の女性の手に移った。
「優菜、ママだよ」
その女性は、優菜――三ノ姫――の母、日向恵である。つややかな長い黒髪と柔和な笑顔。大和撫子そのものである。
――そう……わたしは優菜っていう名前になるのね。
「優菜、パパだぞー」
そう言って、優菜の頬をツンツンとつついているのは、優菜の父、日向亮介だ。髭面の大男だが、穏やかな目をしていて、優しさが滲み出ている。
――この二人が、わたしの新しいお父様とお母様……って……え? ええ!?
優菜は目を疑った。優菜の視線の先にあるものは、恵と亮介の間に結ばれている赤い糸。
――記憶だけじゃない! 縁結びの力も残ってる!!
「お、優菜もうれしいのかな。笑ってるぞ」
亮介が喜んで言って、恵はクスクスと笑う。
「バカね、これは新生児微笑よ。この子の意思とは無関係なの。うれしいわけじゃ……でもずいぶん長く笑っているわね」
優菜は、実際嬉しくてたまらなかった。これからこの力を使ってどんなことをしてやろうかと、想像するだけで天にも昇る心地になっていた。
――最高の人生になりそうね。好き放題やってやるわ!