潮と線香の町 後編
静香が居なくなった日、町じゅうで線香が焚かれた。潮の匂いをかき消す粉っぽい煙が、衣服に染みこんで肌の奥まで染める。海で行方不明者が出る。密やかに、綿々と語られる町の海。知ってはいたけれど、どこか手の届かない境界線があって、私達はそれを超えられないと思っていた。高く厚く見えない線引。決して私達を脅かすことのないお伽話だったというのに、海はあっさりと静香を飲み込んでしまった。
突然のことで頭がいっぱいになった。泣くというよりも呆然として何も考えることができなかった。それから、町で不思議なことが起きるようになる。例えば静香の家族が朝露のように消えてなくなってしまったことだ。お葬式を挙げることなく、鯨幕を引くことなく、静香の家族はひっそりと消息を立った。遺体は海から戻ってきていないというのに、と町の大人達は居なくなった人たちを責める。終いには静香を殺して逃げたのだという噂が私たちまで届いた。クラスメイトはその噂に眉根を寄せ、大人の真似をしながら世の中の道理は全てわかっていると言わんばかりの顔で頷きあった。
「なぁ、弥咲。大丈夫? ぼうってしてるよ」
「うん、なんだか、胸が痛いような気がする」
「保健室いく?」
「ううん。大丈夫。多分」
給食時間になってもぼんやりしている私を香奈枝は心配している。浅黒い肌にはっきりと弧を描く香奈枝の眉。彼女もここ数日で眉間にシワを寄せるのがうまくなった。もう一度、保健室に行かなくてもいいのか? と尋ねる香奈枝に首を横にふる。多分、保健室に行ってもどうにもならない痛みだ。胸が痛い。でも、実物を伴わない空虚な痛みだった。暗くて深い竪穴が空いたような不思議な感覚に戸惑っている。
香奈枝も先生の声も、クラスメイトの顔も、お父さんやお母さんの温かさがすべて灰を被ったようにくすみ、意識の上を滑るように流れていく。くるくると目眩がしそうなほど流れが早いときもあれば、じっとりと塀を移動するかたつむりより遅いときもある。
静香が落ちてから七日ごとに町中で線香が焚かれる。不思議なことに、拝所から昇る線香の煙は、港に集まるように漂っていた。そういえば、クラスメイトが噂をしていたのを思いだす。
「海で死んだ者を慰めるように港に集まるんだっけ」
ああ、そっか。静香は死んでしまったのか。
唐突に静香がこの世に居ないことを、心は理解してしまった。さっくりと事実が灰にまみれた日常に足あとをつける。そこだけが強烈な色彩を放っていた。
静香。
色白で柔らかな身体をしていた。黒い髪がつやつやと光って、頬にあたる陽が綺麗だった。私より背が高くて、細い体はバレリーナのようで、ちょっとだけ羨ましかった。絡めた指先は汗が滲んだけど、静香はそれがいいのだと笑って、手の平をさらにぴったりとくっつけた。堰を切ったように静香との思い出が溢れ出す。普段なら忘れていたような些細なことまで、鮮明に刻まれていく。楽しかったのに、それが楽しい思い出であればあるほど、私の胸の痛みは強くなって、後悔へと変わっていく。とうとう視界が涙で歪んだ。
私のことで泣いたりしないでくださいね。
静香がいなくなった日、彼女は笑いながら言った。静香はきっと知っていたのだ。近いうちに自分が死ぬことを。そうじゃなければ、あんなことを言うはずがなかった。唐突に前世の話なんかするはずがない。
「探さなきゃ……隣町にいって、静香を探さなきゃ」
この日、私は小学校を抜けだして隣町に向かった。ランドセルは家にこっそり置いて、近くのアパートの駐輪所の自転車に跨る。港から遠ざかるように道を行く。ときおり、声をかけてくる顔見知りのおばさんが居たけど、私は「お使いにいくの」となめらかに嘘をついた。以前の私なら口ごもっていただろう。
隣町は自転車で三十分ほどかけてついた。私が住んでいるところより建物が多くて、郊外によく見かけるスーパーが幅の狭い国道沿いの右手にある。静香が住んでいたという佐和田という家を探して、町中を自転車で巡った。だけど、夕日が海を橙色に照らす時間になっても見つからず、ようやく町を歩いていたおばあさんに尋ねる。すると、昔から名家だと有名なお家があるのだと聞くことが出来た。暗くなる前には家に帰らないけといけない。焦りからか自転車のグリップが手汗で滑る。
初めての町の通りに迷いながら自転車を漕ぐ。そして、あたりが薄暗くなった頃合いで、佐和田の家に辿り着いた。西洋風の二階建てで、庭先は荒れているのが門越しにわかった。アルミのフレームの門にはインターホンがついておらず、私はおずおずと門に手をかける。そこだけつるりと磨かれたように光っている。力を入れるほどもなく門はすんなりと開き、意を決して四季に足を踏み入れた。人の家に勝手に上がってはいけないとわかっていたし、もしかしたら怒られるかもしれないと僅かな罪悪感と恐怖が身体を侵食する。でも、それ以上に静香の残滓を辿ることが優先だった。一歩、二歩と足を進めると、唐突に玄関が開き、驚きのあまり身を竦ませる。出てきたのはブラウスにスカートを合わせた品のいい老女だった。白髪にはパーマを当てており、クシでなでつけてある。
「いらっしゃい。あなたは弥咲ちゃんかしら?」
優しげな老女に頷くと、手招きされた。
「しずかさんのことを聞きにいらしたんでしょう? 待っていたのよ」
不思議な笑みを浮かべた老女に誘われるがまま、近づくと彼女は手に持っていたものを見せてくれた。これから出かけるので時間がないと老女は言う。せめて、これを見ていってねと手渡されたのは古い写真だった。セピアがかった一枚の写真には男の人が椅子に座りながら、こちらに挑むように笑っている様子がぼやけて写っている。紋付きの着物を来た男の人は切れ長の目をしていて、唇を釣り上げていた。どこか人を見下したような表情だったけれど、私は彼を見てすぐにわかった。静香だと。
「お見合い写真だったの。後ろに名前が書いてあるわ」
言われるがまま写真を裏返すと、志津佳さん二十六歳と書かれていた。
「死んだ姉と結婚したのよ」
老女の声にぞくりと皮膚が粟立つ。写真から顔を上げれば、老女は舐めるように私を見ていた。じっと目を凝らして私が何者であるかを確かめるように。突き刺さるような視線に温かみのかけらもない。それなのに老女は子ども好きの笑みを浮かべている。奇妙な表情だった。
「志津佳さん、隣町の海で死んでしまったの。姉との結婚生活はうまくいかなかったようだわ。姉は志津佳さんを愛していたけれど、あの人は言葉さえも交わそうとしなかったの」
ひたひたと注がれる悪意に背筋が凍るようだった。志津佳さんと名前を呼ぶ度に老女の声は低くしわがれていく。
「せっかく、あなたから引き離したのに。志津佳さんは私の思いやりを受け取ってくれなかった。でもね、いいのよ。ひと月前に志津佳さんにお会いできたから」
「……会ったの?」
「ええ、可愛らしくなってはいたけど、目の苛烈さは失われていなかったわ。彼にあなたが訪ねてきたら宜しくと言われたのよ。あの志津佳さんが。腹立たしかったけれど、もういいかしら。だって、あなたは今回も志津佳さんと結ばれなかったもの。いい気味だわ」
手にしていた写真をひったくり、老女は浮かべていた笑みを消した。落ち窪んだ瞳にシワだらけの頬に影がくっきりと刻まれている。優しそうな老人だと思ったが、見た目を取り繕っていたのだと知る。いいや、もしかすると他の子どもには優しいのかもしれない。ただ、老女は私だけが気に食わないのだ。いい気味だと嘲る老女に私は安堵する。静香が死んだことで、私と結ばれなかったことを喜ぶこの女に、静香が心を許すはずがない。静香は誰よりも器用に物事をこなす。でもその裏では酷く繊細で、私の体温で心の平穏を保つ危うい人なのだ。
「おばあさんが老い先短くて安心しました。私はまだ静香の帰りを待つことが出来ますから」
残酷な言葉を吐いた老女に、私も言葉を翳した。息を飲んだ老女はしわの目立つ手の甲に目を落とし、わなわなと震えだした。くしゃりと写真が曲がるのを見ながら、私は佐和田家を後にする。
『また居なくなっても、迎えにいきますから。何度も迎えにいきますから』
指を絡めて囁いた静香。待っていよう。きっと彼女は私のところに来てくれる。
この町は潮と線香の匂いがする。町のどこにいても潮の匂いがするこの町は、お盆になったら線香の匂いが体に染みつくくらいに濃くなる。町中の拝所から昇る線香の煙は、海で死んだ者を慰めるように港に集まるのだと誰かが言っていた。
まだ朝早いというのに、港は活気づいている。今日はマグロが大漁だったらしい。港にはその情報を聞きつけた人々がもう集まっている。
両腕を広げて肺いっぱいに空気を吸った。海の匂いがする。魚の生臭い匂いもちょっとだけした。目の前の海は穏やかな色をしており、覗き込めば白と黒のボーダーの入った魚や、小さなコバルトブルーの魚が泳いでいるのが見える。静香はこんな穏やかな海に落ちて行方不明になった。あれから数年がたったが、まだ静香以外とは指を絡めるように手を繋いでいない。
そして、私は毎朝、静香が落ちた海沿いを散策することが日課となっていた。
「弥咲」
高い声で呼ばれれば、香奈枝が麦藁帽子をかぶって自転車にまたがっていた。
「転校生がくるんだって」
興奮したように香奈枝はすごいんだよと大きな声をあげる。
「男の子なんだけど、名前がなんだと思う?」
静香の言葉が脳裏に蘇った。また居なくなっても、迎えにいきますから。何度も迎えにいきますから。そういってに本当にいなくなった静香。足元であげた線香の煙が海のほうに流れる。もう一度息を吸い込めば潮と線香の匂いがした。ゆるりと頬が上がり、香奈枝の元へ向かう。静香。新しくなったあなたと私は再会を果たす。