潮と線香の町 前編
潮と線香の匂いが包むこの町で、日々に埋もれるように暮らしていた。
朝日が昇れば山から降りた烏が目覚まし時計よりも早く鳴く。朝靄が海にかかる早朝、港に行けば魚が船から引き上げられる。今日はアジが大量だよ。イワシが袋に詰め放題だよ。そういった情報が町を巡れば、朝っぱらから港の魚市場は人でごったがえす。わざわざ車で一時間かけて買いにくるよそ者も多い。小さな港町だから、町の外からやってきた車は一目でわかった。
漁師が多いこの町は、旧暦を中心として生活する。お正月も旧暦に合わせるので、テレビが元旦だと放送する日を祝えども、それはどこか馴染みのないぼんやりしたものでしかなかった。
それを知ったとき、静香は「古くさいところですね」と笑った。日に焼けていない白い腕を日光にさらしながら、嫌味のない笑顔で「素敵なところです」とも言った。
静香は三ヶ月前にこの町にやってきた一家だ。ある日、ひっそりとやってきた静香達は町の人達を避けるように、丘の上にある鄙びたアパートに住み始めた。小さな町なのでその一家はすぐに町民に知れ渡った。何人かが一家に挨拶をしたらしいけれど、一家は素っ気ない態度で町民の好奇心を拒んだ。だから、五年一組に静香が転入生として入ってきたとき、学校中の子どもたちは彼女に興味津々だった。
私は今でも、静香が教室に入って挨拶したときのことを覚えている。男子も女子も小麦色の肌をしたクラスメイトが多い中、静香の漂白したような白はとても眩しかった。切りそろえられた短い髪は真っ黒で、お辞儀をするとさらさらと音が聞こえそうだ。顔をあげた彼女は教室の後ろの隅に座っていた私を、切れ長の瞳で私を見つめたた。そのとき、酷く緊張したことを覚えている。静香の視線は私だけに注がれていて、その異様な様子に担任の先生が恐る恐る静香の体調を案じたくらいだ。
静香の視線は触れれば切れるのではと思うくらい鋭く、胸を焦がすように熱かった。怖い。そう思ったのは確かだったけれど、恐怖以上に私は静香からの視線を心地よいと感じていた。思い返しても奇妙なものだった。
私達はすぐに友人となり、たった数ヶ月でお互いが切り離し難い存在となった。
その静香は両手を広げ、鼻の穴を膨らませて大きく息を吸う。胸がそり、そのささやかな丘陵が主張するのを、私はどきまぎしながら横目で見た。
「海くさい」
ぶはぁと息を吐いた静香は、自分の身体の匂いをかぎはじめた。
「なにしてんの?」
「匂いが移ってそう。弥咲はもう海の匂いがしそうですね」
静香が寄ってきて肩に顔を近付けた。くんくんと嗅ぐ音がする。汗の匂いがしたら嫌だ。そう思って一歩だけ横にずれると、静香は不満そうな顔をした。
「汗臭いかも」
「そんなことないです。弥咲は相変わらずですね。まぁ、私の匂いがしないってことは癪ですが」
「静香の匂いって?」
お家の匂いのことだろうか。そう尋ねれば静香は人差し指を顎にあてて、小首をついっと傾ける。
「難しいですね。一緒に生活すれば肌に染み込むと思うのですが」
朝日を浴びて黄金色に染まる頬を緩ませて、静香は弥咲より一歩前を行く。彼女が歩くのはどんな所でも車道側で、クラスの男子よりも紳士的だった。
「それにしても、弥咲が汗臭いなら男子はどうするんですか」
「あぁ、思いきり走り回るもんね」
「若いっていいですよね」
しみじみと述べた静香は同い年の癖に、よく若いっていいですよねと言う。まるで年寄のようだ。本人には言わないけども。静香はちょっと拗ねやすい。
前を歩く静香のしなやかな四肢に、女子には高い背、黒髪は揺れて首筋を露にし、覗く白い肌は滑らかだ。ふとした時に、静香のような美しい女の子が私の友達でいいのかと不思議に思うことがある。
初めて名前を見た時は、四字熟語と思ったほどかっちりした字面だった。静香はこの町では珍しいほどに色が白く、そのくせ髪はクラスの誰よりも真黒だった。偶然にも隣の席に座ることになった静香と私は、視線を絡ませ合いながら言葉を交わした。白い肌を褒めると、彼女は「ありがとう」と柔らかく微笑んだ。そして、弥咲のほうがずっとかわいいと褒めてくれたのだ。お世辞だったかもしれないが、静香があまりにも純粋に笑うので、小さくお礼をいうのが精一杯だった。恥ずかしくてしょうがなかったのだ。
「ねぇ、静香はどうして私の名前を知っていたの?」
転入初日の朝の会では自己紹介の時間が取れずに、二時間目に行ったのだ。静香とは初対面のはずなのに、彼女は席につくと当然のように弥咲と名前を呼ぶ。
今更だが不思議に思って聞いてみれば、静香は大人の人がよくするような表情を浮かべた。笑っているくせに、どこか困ったような、言い訳を考えるようなあの表情だ。
雰囲気やしゃべり方が子供らしくない静香はクラスでちょっとだけ浮いている。それでも彼女は社交的で、クラスを渡り歩くのがうまかった。
質問に逡巡した弥咲は困ったように笑う。
「だって知っているんです」
「なんで? 会ったことある?」
「あるといえばあるし、ないといえばないですよ」
「どういう意味?」
首をかしげる。
「うん……そうですね、実は前世で一度会っているといったら?」
信じますか?
そう尋ねられて口ごもった私に、静香は打ち捨てられた場所でひっそりと咲く花のように微笑んだ。寂しいのに凛としたその表情に惹かれる。静香は歩調を緩めて隣りに立つと、そっと私の手をとり、指を絡めてきた。彼女はこのようによく手を繋ぎ、頬や髪、肩に触れてくる。初めは「嫌ですか?」と尋ねて恐る恐る触ったのに、今では当然のように指先を滑らせるのだ。傍からみるとベタベタして気持ち悪いと思ったかもしれない。しかし、困ったことに私は静香の指が心地よかった。
「弥咲のことは随分前から知っているんです。どこかで会ったとかそういうわけじゃなくて」
きっと弥咲は忘れていると思います。
首をかしげると、知りたいですかと問われた。正直に頷くと静香は信じがたい話ですと前置きをし、絡めた指にきゅっと力を込めた。
「私と弥咲は前世で恋人同士だったんです」
おかしい。
「女の子同士なのに?」
恋人同士というのは、好きな人同士ということだろう。静香とは同性なのに、恋人同士になれるのだろうか。今まで恋人同士とは異性が前提だと思っていた。
素直な疑問に静香は首を振る。
「弥咲は女性でしたよ。ただ私が男性でした」
「静香って男の子だったの?」
「ええ」
「かっこよかった?」
「弥咲が顔を赤くさせてくれるくらいには」
静香の黒い瞳が悪戯をする男子のようにきらきらと光った。なだらかな曲線を描く眉が下がり、少し伏し目がちに見つめてくる。目許は愛すべきものを見守るように優しく、淡い色の唇は微笑を湛えていた。絡めた指が一段と強く手のひらを掴む。
暗い海のような瞳にくらりとする。間違って飲んでしまったお酒に頭をやられたように、気分がふわふわと心もとないものになった。
静香に飲まれる。慌てて目をそらしてアスファルトの地面を見た。たばこの吸い殻が落ちていた。通りの裏からは線香がの匂いが漂う。アスファルトとブロック塀の境目からは、濃いピンク色のインパチェンス。
「だから、正直びっくりしました」
繋いだ手をぶらぶらとさせながら、話の続きが始まった。飲まれないように静香を見れば、その柔らかい目は前を見ている。子供らしいまろやかな頬のラインが、朝日を浴びて金に縁取りされている。綺麗だった。
「女性になっているので、焦りましたし、なにより、弥咲が男性になっていたらどうしようかと」
「女の子だったね」
「ええ。だから安心しました。本当はもっと早く会いたかった」
でも、自由の利く年ではないのです。
静香はそういって、大きく息を吸い込む。薄いシャツごしにしかわからない、ささやかな胸が上下する。
「海の匂いがする?」
さっき言ったことを聞いてみれば、静香は頷いて笑った。
「海の近くの学校と言うのも悪くありません」
「台風や地震の時は大変だけどね」
雷と津波警報には十分注意をしないといけない。それはこの町のどこにいても、潮の匂いがするほど海に接した町だということと、ここから見える港に寄せられたいくつもの船からわかるように、漁師が多い町だからだ。荒れた海に出て事故にあったというニュースをときどき耳にする。
「弥咲、静香」
高い声で名前を呼ばれた。振り返れば香奈枝が小走りでやってくるところだった。学校に近くなったから、通学路にはちらほらと生徒の姿がある。
「おはよう」
香奈枝の言葉におはようと返せば、静香と声が重なった。香奈枝が面白そうにこっちを見る。ピンクのフレームの眼鏡をかけた香奈枝は、ちらりと視線を下に向けるとにたぁと笑った。
「朝から仲が良いよね」
それは指を絡めるように繋いだ手のことをいっているのだろう。とっさに手を離そうとしたら、静香がぐっと力を込めた。
「知ってる? それ恋人繋ぎって言うんだよ」
知らない。静香は知っていたのだろうか。気になって隣を見れば、彼女は知っていますと頷いていた。香奈枝がひゃぁと声をあげる。どうやらからかっているらしい。あまり良い心地がしないから、俯いてアスファルトを見つめた。絡めた指は相変わらず強く握られていて、逃げ出そうにも離れられなかった。
「弥咲と静香は女の子同士でしょ。おかしいよ」
「女の子同士だから手を繋ぐんです。男の子同士で手を繋ぐの、見たことあります?」
「うわ、それはそれで気持ち悪いよね」
「でしょう?」
くすくすと静香が笑う。香奈枝は納得したのか、あたしも友達と手を繋ぐかもと言って頷いた。
「それにしても」
静香が首をかしげる。黒く艶やかな髪が揺れた。ふっと甘いフルーツの香りがした。どんなシャンプーやリンスを使っているのだろう。
「ここを通るたびに線香の匂いがしますが、なにかあるんですか?」
きょろきょろとあたりを確認する彼女に、香奈枝が裏の方だよと教えた。
アスファルトで舗装された通学路から横に伸びたわき道。白い石灰岩の砂利と雑草が茂っている道で、その道の先から線香の匂いはする。そういえば、静香にはまだ教えてなかった気がする。
香奈枝が声を小さくして眼鏡を押し上げた。
「拝所って言ったらわかる?」
「神を拝むところでしたか?」
「うん、それもあるんだけどね。慰めるところでもあるの」
「慰める?」
静香がこちらを見た。
「たまに起こるの。海で行方不明になる人」
「つまり、そういう人のために線香をあげるんですか?」
「うん。そして、神様にそういうことが起きませんようにって祈るんだよ」
この拝所が町にはいくつも点在する。役所の裏、町のはずれの小高い丘、港の目立たない堤防の近く、民家のすぐ隣、木が集まったちょっとした林の奥、本当にいくつも点在しているのだ。その全部を知っているわけではないが、少なくとも三十はあると聞いた。だからこの町は潮の匂いにまじって線香の匂いがする。
「だからお盆の月になるとすごいよ、町中が線香の匂いなんだもん」
体に匂いが染みついて、ベッド中でも線香の匂いがするんだよ。
香奈枝が嫌よねとうんざりした表情で肩をすくめた。静香が興味深そうに空気の匂いをかぐ。すんすんと鼻で息を吸う音が聞こえた。もう強くは握っていないが、指はまだ絡んでいる。
「あ、そういえば、日直だったかも」
「それ大丈夫? エサやり当番があるでしょ?」
「やばいなぁ。ちょっと行ってくるね」
手を振って香奈枝は駆けて行った。走るのに合わせてぴょこぴょこと背負った鞄が揺れている。
「ところで、さっきの話に戻りますね」
頷けば一呼吸置いて静香は喋りだす。その口調や穏やかな表情はいつもどおりなのに、なぜか苦しそうに見えた。
「とても悔しくて、諦めることができなくて。だから、もし来世があるなら、今度こそ幸せになろうと決めたんです」
「前は幸せじゃなかったの?」
「幸せだったときもありました。前世では隣町に住んでいたんですよ、私達。戦後間もないころでした。弥咲、覚えていてください」
静香が立ち止まって、真剣な表情でこちらを見つめた。
「また居なくなっても、迎えにいきますから。何度も迎えにいきますから」
指を絡めていないほうの手で彼女はくしゃりと私の頭をなでた。
「私のことで泣いたりしないでくださいね」
泣いたりしないでという静香の顔は、これまで見たどんな泣き顔よりも綺麗に泣いていた。笑っているのに泣くなんて器用なことをする。そんなちぐはぐな大人の表情を彼女は浮かべて、淡い唇を小さく動かす。
「全部うそです」
前世の話も、恋人だった話も、本当は男だった話も、全部うそです。作り話が得意なんですよ。
彼女はそう言ってずっと絡めていた指を離した。あんなにきつく掴まれていたのに、簡単に解けていく。朝の空気に触れた手のひらはしっとりと汗ばんでいた。
「私は、信じたいと思ったよ」
どうしてだろう。なんでそう思ったんだろう。
「弥咲、あなたは相変わらずですね」
静香が微笑んだ。その眼差しは、酷く懐かしい。
学校につくとクラスメイト達が、放課後は海に行かないかと誘ってくれた。海といっても砂浜ではなく、学校から歩いて十五分ほどの船着場だ。澄んだ海で、ときおりウミガメが見える絶好の飛び込み場だった。静香も一緒に行こうと誘えば、すこし考えて「いいですよ」と頷く。
給食を食べ終わってお昼時間に入ったら、静香と一緒に校舎の端っこにある非常階段で身を寄せ合う。二人だけのひっそりとした場所で、秘密の話をするように静香はいろんなことを教えてくれた。いつもなら聞き役に徹するのだけど、今日は聞きたいことがあった。
「ねぇ、静香。前世のお話がもっと聞きたい。私達は隣町のどこに住んでいたの?」
今朝の話がどうしても頭から離れなかったのだ。知らない出来事を懐かしいと感じる。静香の言葉はときどき、私の平穏で凪いでいる湖面にそっとざわめきを落とすのだ。頭の芯が細かく揺れる。
「そうですね……私は旧家の生まれでした。隣町の佐和田という家です。弥咲は使用人の娘で、私の遊び相手でした。成長して、いつの日か、私と弥咲は恋人になりました。けれど……当時はまだ身分というものが残っていましたから、私達の仲は認められませんでした」
悲しそうに目を伏せた静香はそっと私の手を掴んだ。
「認められなかったけれど、私は心の底から弥咲を愛していましたよ。それは昔のあなただけじゃありません。記憶がなくても、私はあなたのことを愛しています。これからもずっと」
「静香……どうしてかな。静香の話を聞くと、とても懐かしい気持ちになる。泣きたくなるくらい。でも、何故なのかはわからないの」
今だってそうだ。佐和田という名字を聞いて胸が締め付けられるのに、どうしてだかわからない。言葉を聞いた静香は、白魚のような指先を私の左胸に伸ばした。人前に晒さない柔い肌に、指先が少しだけ沈んで、静香は心臓を確かめるように胸をなぞる。
「もしかしたら、心が覚えてくれているのかもしれない」
そうだったら私は嬉しくて、死にそうなくらい幸せだよ。
どこからか線香の匂いがした。私はその匂いを嗅ぎながら、胸を深く広げる。いつか二人で隣町に行ってみたいと思った。そこに行けば、静香のいう前世のことがわかるだろうか。いや、わからなくてもいい。静香のお伽話でもよかった。ただ、私は静香という大人っぽくて綺麗な友達と一緒いたい。そんな小さな願いしかなかったのだ。
その日の放課後。天気は快晴、波は穏やか。学校が終わって、それぞれ家に帰ってから船着場に集合しようということになった。私も静香と途中で別れ、家に鞄を置き、少し遅れてやってきた。母親から洗濯物を畳むように言われたからだ。船着場に来ると見慣れたクラスメイトの顔があったけれど、みんなの顔が強張っておりどこか緊張を孕んでいた。大人が数人、しかも警察官の姿がある。
何かが起きた。でも、一体何が?
クラスメイトの顔ぶれに静香が見つけられない。どうして。私みたいに遅れているのだろうか? じっとりと嫌な予感がした。目の前の海は穏やかな色をしており、覗き込めば白と黒のボーダーの入った魚や、小さなコバルトブルーの魚が泳いでいるのが見える。波浪注意報だってでていない。
察しは悪くなかった。ただ認めたくなかったのだ。
この日、待ち合わせ時間より早くきたらしい静香が、誤ってか、それとも突き落とされたのか、海に落ちて居なくなった。