ドン・ファンの憂鬱
※拙作「悪魔と円舞曲を」シリーズ続編。先に左記のシリーズをお読みいただくとわかりやすいです。
レイランド・ヴァレリーには幼馴染がいる。
仲が良いのかと聞かれれば、彼は曖昧な笑みを浮かべるだろう。悪いわけではないけどね、と。
少女の名を、フェリス・ソルト。商業都市ウェヌスの中心部に店を構えるソルト商会の末娘で、レイランドよりも二年遅く生まれた隣家の子どもでもある。
レイランドにとって、初めて目にした赤ん坊がフェリスであった。初めて顔を合わせたのは彼が三歳の時。揺り籠で眠るフェリスは、当時のレイランドにとって完全に未知の生物だった。
隣家の子どもが迷い込んできたことに気づいたソルト家の奥方は、まだ幼い少年に自分の娘を抱いてみないかと気軽に誘った。それほどレイランドが興味津津に赤ん坊を眺めていたのだろう。おっかなびっくり抱き上げた体はどこもかしこも柔らかくてふにゃふにゃしていて、ずしりとした重みと相まってレイランドを落ちつかない気分にさせたものだった。
以来、度々フェリスの元へ通うようになったのは、レイランドにとっては極めて自然なことだった。
ヴァレリー家での彼の立場は非常に複雑なもので、そのせいで家に居場所がないような気がいつもしていた。彼が生まれた経緯はヴァレリー家の醜聞とすら言われている。当然、古くからヴァレリー家に仕えている使用人達の心象が良いはずもない。
そんなヴァレリー家とは対照的に、ソルト家の面々がレイランドに向けられるのはいずれも好意的な目ばかりだった。隣家に居を構えているのだ、彼の出生にまつわる経緯を知らないはずもないだろうに。
逃げるように隣家に通う内、赤ん坊はいつの間にか年下の女の子になっていた。大きな頭を持て余してぽてぽて歩く少女の手を引いてやれば、フェリスは「れー」と舌足らずに彼の名前を呼んでへらへら笑っていた。
レイランドにとって、今も昔も、「女の子」といえばフェリスのことだった。
可愛いと、初めて思った女の子だった。
その頃、レイランドはお世辞にも明るいとは言えないこどもだった。大人しいとも違う。物事の道理がわかるようになるにつれ、どうしようもない劣等感と罪悪感を抱き、同じ家に暮らす家族と呼ばれる人たちに、引け目を感じずにはいられなかった。
暗い子どもだった。引っ込み思案で、気弱で、常に誰かの視線に怯えているような、弱い子供だった。
だから奪われたのだ。レイランドはその日のことを思い出すと今でも忸怩たる思いに駆られる。兄、エドワードがフェリスを見つけ、底意地の悪い笑顔で彼女を泣かせて楽しんでいる光景を見た時、レイランドは止めに入ることができなかった。フェリスは泣いて、れー、れー、と彼に助けを求めていたのに。
エドワードは、笑っていた。止めに入ることも、見なかったフリをして立ち去ることもできないでいるレイランドを見て、愉快そうに。嘲るように。
レイランドはフェリスに会えなくなった。それでも、彼女の元へ通うことはやめられない。その度にエドワードに苛められて泣くフェリスを見ることになっても、助けに入ることすらできない自信の卑小さを思い知ることになっても、彼はフェリスから離れることができなかった。
逃げるように寄宿学校に行った。同じようにフェリスもエドワードから逃げるように女学院に入学した。二人の学校は経営母体が同じで、校舎も敷地も隣り合っていたため、入学以来一度も実家に帰ったことのないレイランドにとって、幼馴染の少女は、唯一と言っても良い故郷との繋がりとなった。
「それだけじゃないクセに」
意地悪く笑う悪友に、肩をすくめる。
夜会の席。本来なら貴族でもないレイランドにはそぐわない場所であるが、彼と悪友は度々このような集まりに顔を出していた。
シャンパングラスを傾けるレイランドに臆した様子は微塵もなく、周囲の人々も身分違いの青年を非難する様子はない。それもそうだろう。母譲りの目尻の垂れた甘い顔立ちに空色の瞳。未だ二十歳にもならぬ青年には似合わぬ色気を醸し出す空色の瞳で流し目のひとつでも送ってやれば、異性はもちろん、初心な同性すら頬を赤らめるのだから。
歩く十八禁だね。そう軽口を叩く悪友も、母性をくすぐる無邪気な笑顔とやらで黄色い声を浴びているのだから、似たようなものだろうとレイランドは思う。違いは、彼はある種の義務感から意識してそのような言動をしているが、悪友の方は心の底から楽しんでいるという点くらいだろう。
「ほら、例の男爵夫人が見てるよ。あっちにいる令嬢方は――ああ、この前君に情熱的なお誘いをしてきた例の伯爵家のお嬢さんがいる」
「目ざといね、相変わらず」
言われた方向をレイランドが見ても、女性の集団がいるということはわかるのだが、個々人の区別をつけることは難しい。
よく見分けがつくなと感心半分に言えば、「貴族の嗜みってヤツさ」と悪友は小さく笑った。
夜会に出るような人々は、皆少しでも他人より目立とうと様々な趣向を凝らしている。ひと昔前には、身長と同じくらい高く編んだ髪の上に船の模型を乗せるのが流行だったというのだから驚きだ。
今の流行は生花を頭に飾ることらしく、豪奢な花束をそのまま髪の代わりに頭につけていると表現した方が適切ではないだろうかという女性が幾人もいる。貴族の感性は理解できないな、とレイランドはもう幾度感じたか知れないことを再び思う。
流行によって幾らでも変わる化粧とドレス、男女問わず身に纏う香水の匂いが混ざり合ってむせ返るような独特の臭気に満ちた会場は、いっそ頭痛を感じるほど華やかで虚飾に塗れている。
「動いた」
ひそめた声。流し見た先で、夜会の主催者が自慢気に胸を反らしている。
「大変な苦労があったのです。幾人も人をやり、戻って来ない者もおりました――」
勿体ぶった口調は、貴族の好事家には共通するのだろうか。どれだけの年月をかけ、金に糸目をつけず云々と語る主催者に聴衆がうんざりし始める直前、使用人のお仕着せを纏った男が音もなく進み出た。
捧げ持つ手から布をはぎ取り、どうだ、とでも言うかのように主催者が更に胸を反らし、声を張り上げる。
「ご覧下さい! 正真正銘、混じりけ無しの魔導石です!!」
驚愕と興奮に目を見開く人々の中、レイランド達の瞳が、つと細められた。
落ちてきた前髪を鬱陶しげに払う。図面片手に思案するレイランドの正面で、赤毛の男がくるくると半月刀を弄んでいた。
「本物だったか?」
「見間違えでなければ」
「へえ」
うっそりと口角を上げる男の瞳は笑っていない。殺気すら滲む不穏な表情に、「長」とレイランドはため息を吐いた。
「不愉快なのはわかりますが、落ち着いてください。魔力がだだ漏れです」
「おっと」
一瞬で不穏な気配をひっこめ、悪い悪いと実に軽い謝罪を寄越す赤毛の男。レイランドはもう文句を言うのも億劫で、ため息をひとつ吐いて思考に戻った。
顔の右上半分を隠す仮面に、橙色の前髪を後ろに流し、それ以外の赤毛を無造作に後ろで結わえた男を見れば、大概の人間は不審者だと思うだろう。現に、初めて男がレイランドの前に現れた時、道化を思わせる奇抜な服装と相まって、あまりの不審者ぶりにどん引きしたものだ。
レイランドは男の名前を知らない。〈緋鷹〉と世間では呼ばれているようだが、仲間内ではもっぱら「長」と呼んでいるからだ。
本名もわからず、外見は不審。強大に過ぎる魔力を身の内に有し、性情は気紛れ。そんな男にどうして従うのかといえば、それはレイランドたちが「半端者」と言われる先祖返りだからだ。
遠い昔。神話の時代が終わり、まだ魔物の存在が珍しくなかった頃。帝国の始祖のひとりである英雄によって討ち滅ぼされた一族があった。
帝国が国教と定める教会では「魔族」と呼んでいるその一族と、その族長たる「魔王」。英雄の率いる帝国と聖女を掲げた教会の粛清は熾烈を極め、一族は生き残るために世界中に四散し、外の人間と交わって血を薄れさせていった。
「俺様もお前たちも、基本的に愛情深いもんらしいからなあ。たまに、感情の制御が難しい」
「長は『たまに』ではないように思うんですが」
「抑えこんで暴発したらマズいんだよ。俺様に限らず、お前らも」
一族を一族たらしめる要素は幾つかある。そのひとつが情の深さだと「長」は言うのだ。そしてそれは、かつて強大な力を持っていたはずの一族が滅びの道をたどることになった原因でもあると。
ただ人には過ぎる大きさの魔力や先見などといった特異な能力を脅威と見なされたのだろうとレイランドは思う。「半端者」たるレイランドは、結局のところ先祖のどこかで一族の血が混じった先祖返りに過ぎず、「長」曰く、純粋な一族とは比べ物にならないほど脆弱らしいが、そんな自分たちでさえ危険視されることが多いのだ。建国以来、大陸統一への野心を隠さない帝国と教会にとって、彼の一族の滅亡が不可避であったことは想像に難くない。
「石の色は?」
「薄青色、でしたね」
「流石に地属性は出ないか。水――それも濃度は大したものじゃない、と」
だが、と男は再び瞳に剣呑な光を宿す。
「薄いってことは、それだけ若い『素材』から石を取り出したってことだ」
「…………」
魔導石の『素材』が何であるか。それを知るレイランドは瞳を伏せることしかできない。
より長く生きた『素材』であれば、それだけ含有する魔力が濃縮される。魔導石の大きさは砕きでもしない限りほぼ一定だ。だが、その拳大ほどの石に、一流と言われる魔術師と同等かそれ以上の魔力を宿っているのである。
今回レイランドが悪友とともに参加した夜会で見た含有魔力の濃度が薄い魔導石でも、貴族の屋敷がひとつぽんと買えてしまうほどの価値はある。
けれど、そんなことは「長」にも、レイランドたち「半端者」にも関係ないのだ。
「ルートの割り出しは?」
「今終わったところです」
「なら、皆を集めろ。石を奪還するってな」
「すぐにでも」
社交界でどれだけ浮名を流しても、頻繁に変わる恋人とみなされる女性たちの誰とも、彼は唇すら触れ合わせたことがない。そんな自分が渡り鳥のように数多の女性の閨を渡り歩いていると噂されるのだから、レイランドはいっそ笑いだしたいような気持ちになる。
彼が社交界に出るのは、情報収集のためだ。異性受けのする容姿と、社交界に出入りしても不思議のない生まれ育ち。似たような役割を担う者は仲間内にもいるけれど、彼らもそれぞれ、自分の適性に合った場所に身を置いている。そんな仲間たちの間でも、情報収集のためには願ってもない評価だとはいえ、よりにもよってレイランドが「ドン・ファン(色男)」の異名を取っていることはちょっとした笑い話でもある。
一族は情が深い者が多いという。笑い話のように「長」が昔付け足したことによれば、一族の人間は皆「初恋」が「最初」で「最後」、「唯一無二」なのだと。
レイランド・ヴァレリーには幼馴染がいる。
「魔族」の血を引かないただの女の子で、負けず嫌いで、本当はとても泣き虫で甘えん坊な、レイランドにとってたったひとりの可愛い人。
彼女の成人まで、後三日。当日には花束を贈ろうとレイランドは思っている。自分で直接手渡すにはまだ度胸が足りないけれど、この一件が落ち着いたら、彼女の参加する夜会を調べて、跪いてでも土下座してでもいいから、まずは謝罪するのだ。
彼女が許してくれるかはわからない。そもそもレイランドのことを覚えてくれているかさえわからないが、そうしなければ、何よりも自分自身が彼女と関わることを許せそうにないから。
(もう、『助けないこと』でエドワードの苛めを助長させないことしかできない、情けない子どもじゃないんだ)
レイランドがエドワード・ヴァレリーとフェリス・ソルトの間に持ちあがった結婚話を知るのは、それから約一週間後のことである。